その13
琴葉はもっと近くに人の存在を感じる。顔を上げるとそれは、二人の前に立ちはだかっていた。青いジーンズを履いた長い脚を見上げていくと、クリーム色の細長い髪が風で靡いている。小顔の大きな瞳が正面を見据えていた。
「き、紀乃、クン?」
そしてもう一人、側に駆け寄っている。
「……真琴」
琴葉に顔を向けて微笑み、すぐに芦川の方に戻った。
「先生!!」
「真琴……、おまえどうしてここに?」
掌から血液が指尖に向かって流れ落ちている。
「そんなことより、早く手当しなくちゃ!」
「だ、大丈夫だよ。かすり、傷だって」
他人事のように言い放った。切れた手をハンカチで手早く覆い、強く縛る。
「君から心配されるなんて、嬉しいね」
だが白いハンカチはみるみるうちに赤く染まっていく。
「先生! 絵描きにとって、利き手は命の次に大事なんでしょ!」
マコはもう一つ持っていたハンカチで、更に押さえ込む。
「怪我して、絵が描けなくなったら、ダメじゃない!」
走る痛みに男の顔が不格好に歪んだ。
琴葉はマコの行動を呆然と眺めていたが、やがて芦川の右手を凝視する。ハンカチがみるみるうちに赤に染まっていた。
「そ、そんな……。早くなんとかしないと」
今更ながら彼女は狼狽える。
「もう、車を呼んである」
呼応するようにマコは頷いた。
「そんな、大げさなだよ……」
芦川は力無く笑う。マコは男の頭をはたいた。
「……先生、ダメだよ。先生の夢、叶えなくちゃ」
その真剣な訴える眼差しに、男は息を飲む。
「真琴……」
琴葉はこんな状況下にいても、冷静さを失わないマコに暫し驚愕していた。
「私は、私は手が震えているだけ……」
小刻みに動いている指を見つめる。
「ちっ! 佐野のバカ野郎が!!」
北川は舌打ちした。
「しかし、いい女たちが揃ったじゃねえか」
口元を引き締めて、キノは男を凝視する。
「威勢がいいな。ナイフ持ってる男を投げ飛ばす女なんて、普通いないぞ」
向かうキノは右手を差し出し手刀を作り、足を一歩前に出した。足元の砂が舞い上がる。
「ととと」
体が何か壁のような塊に押されたかのように男は後退った。
キノが前に歩を進める。反対に男は後ろに下がっていく。
「バ、バカな、こんなバカなこと!」
理解の出来ない恐怖で戦慄し、北側は叫んだ。
「あ、あの人何処行ったんだ、こんな時に!! あの人の強さ見たら、誰だってびびってしまうってさ!!」
「全く、あんたはバカだ」
「ははは……」
問いかけに、芦川は力無い乾いた笑いをする。
「鈴美麗、俺は後悔などしていない」
「後悔は、そう感じて初めて思うことだ」
キノは振り向かず、目前の男を見据えていた。
「そうか、ならば俺は一時も思ったことはない、これで良かった。救われる」
ハンカチの赤いシミがさらに深みを増し、手が小刻みに震っている。
「痛い?」
「これで、痛くない奴がいるのか」
震える手を芦川は、もう片方で押さえた。
「こ、こんな事って、あるはずない……」
琴葉は未だに出来事が信じられない。人が切りつけられて怪我をする、人が投げ飛ばされる、そんなことが現実にある事など想像もし得なかったのだ。
「それに、私を庇って怪我をするなんて。他人のためにそんなことするなんて」
マコは琴葉の手を取って握りしめる。
「真琴……」
「大丈夫よ、琴葉ちゃん」
彼女は不安気な顔で尚もマコを見つめた。
「でも、紀乃クンは、誰のために戦っているの」
見つめる瞳は、自分しか考えられなくなった琴葉の恐怖で埋まっていた。
「大丈夫。あの子、強いから」
「そんな、心配じゃないの。あのお見合いの晩は真琴の体の調子、凄く変だったじゃない。行動も尋常じゃなかった。あれは紀乃クンも関係しているんじゃ」
琴葉は握っているマコの手に、一切の不安や迷いらしき震えなど感じない。
芦川は朦朧とした意識のなか考えていた。
ホテルのキノの行動と、琴葉が言うマコの気持ちとのリンク。そして二人の間には何かはっきりと、繋がるものが有る。
あのホテルであれ以上のことを犯してしまっていたら、服従させていたら、彼女の存在も消していたかも知れなかった。
「こいつら気持ちだけじゃなく、きっと身体ごと繋がっているに違いない」
無論、芦川自体、キノを犯そうなどと考えていた訳ではない。彼はキノを困らせたかっただけだ。そして背徳的な行動を見て、マコが愛想を尽きたところを見たかったのだ。いつも一心にマコを想っているキノを妬んでいただけだった。彼自身にできないことを、年下のキノが一生懸命に、それこそ健気に守っている姿に嫉妬していたのだ。しかしそんな考えが全く愚かで、自己中心的だったと認めるまでに時間が掛かってしまった。
「琴葉さん、あいつは大丈夫だよ」
「後ろに別の誰かいる」
男を睨んでいたがその後方に別の気配を感じて、三人から離れて前進し身構える。キノの行動にマコもその雰囲気の違いを感じた。
「キノ」
「マコ、そこから離れないで」
彼女は頷く。