その14
「ダメだよ、僕なんか呼んじゃあ」
男の背後から大きい黒い物体が現れる。その巨漢を左右に揺さぶりながら、ゆっくりと歩いて来た。
「何処行ってたんですかい!」
北川が振り向き様に叫ぶ。視界に収まりきれない躯体に目を見開いた。
「お、お願いしますよ」
恐縮して頭を下げる。
「何事ですか」
「勧誘を妨害する奴がいるんですよ」
「そんな事? 君たちは強いじゃないですか」
少々面倒くさそうに呟いた。
「ハンパないんですよ、それが!! 結構強いんですよ。佐野を倒しやがった」
北川は顎で前方を指す。
「佐野さんはテコンドーをやってた人ですよね。倒せる人がいるんですか……」
目を細くして大男は前方を眺めた。そして言葉は止まり、唾を飲む喉音を鳴らす。
「こんなところで会うとは、奇遇ではなく奇跡ですね」
拳を作る上腕が俵のように太くなった。
「女だと思ってなめてたら、痛い目に遭いましたよ」
「そう、でしょうね」
大男の細い目に獣のような鋭い光が灯る。
「ひっ!!」
恐怖で北川は腰を抜かして尻餅をついた。
「お、お願いしますよ、内藤さん!」
マコの耳に忘れようとも、二度と忘れてはならない名前が飛び込んできた。それまで強気だった彼女の顔が一瞬で曇り、次第に手を震わせる。後ろ姿のキノを見る。先ほどの構えた姿勢が少し変わっていた。重い空気感だ。
「……あいつか」
内藤はキノとマコにとって、身体と心に深い傷を二度も追わせた名前だ。
一度目は誘拐されたマコを救出する際に、助けに来たキノの体をまるで棒布のように何度も何度も殴打したこと。そして、二度目は内藤の弟が卑劣な手段を使って、キノをレイプしようとした。だが、この二つの出来事はキノの精神力と技能を高める肥やしとなっていた。
「……キノ」
キノは前後の足の裏を地面に強く擦り付けた。そのまま足の指に力を込め、踏み固める。静かに瞳を閉じて指尖に気を集中させ、ピンと張って深く息を吸い込んだ。覇気の固まりが躯体の周りに取り巻いていく。
「大丈夫だよ。あの時よりも僕はもっと強くなっている」
キノの手刀から明らかにその場と違う重さのある気が放たれ、それは一直線に内藤の胸を貫いた。前にいた男は弾き飛ばされる。キノは駆け出し、その男を踏み台にして飛び上がった。空中で内藤を見据える。
巨漢ではあるが、その隙は少ない。半回転で身体を捻り、素早い身のこなしで大男の懐に入った。その余りの早さに内藤は息が抜けない。と、殺気立った顔が大男の眼前に突然現れた。
「くふぅ!」
構えた男の体がミシリと音を立てた瞬間、手刀から紙一重で翻してその姿勢のまま飛び跳ねて、キノから遠ざかる。後ずさりしていく大柄な割に小さい顔の額には、油汗が滴り落ちていた。腰を落とした体制のまま胸を少し揺すり、大きく深呼吸する。
「あ、相変わらずですね……、あの女」
間髪入れず、キノは再びその前傾姿勢のまま覇気を内藤に向かわせる。砂塵が舞い上がり竜巻のようなものが、そこに起こっているかのようだった。男が視線をその風に向けた瞬間、キノは再び間合いを詰める。
咄嗟に男の大きな手掌が振り下ろされた。圧倒的な風圧がキノを襲う。寸前で背を引いて躱す。屈んだまま放った足蹴りは、男の左膝の外側後面に突き刺さり、それは見事に折れ曲がった。
巨漢がバランスを崩して一歩下がる。苦痛に男が瞬いた瞬間、鼻に仄かなジャスミンの香りが漂った。
「う!」
クリーム色の細い髪が頬を撫でる。そう気づいた時、引き寄せられる胸板は、地面に向かう。崩れた右脚は高く舞い上がり太陽に弧を描き、その巨体は見事に一回転した。
「げぶぅ!」
口から胃液が噴き出す。
「内藤さん! どうしたんですかい!」
埃を被った北川は、駒のように回転して転がった大男を見て狼狽えながら叫んだ。
「あ……、あんな、人間離れした、女に、ぼ……、僕が勝つ気など、しません……」
その言葉を言い残し、内藤は目頭に涙を浮かべ気絶する。北川はその言葉に唖然として驚いた。
「ええ!? あんた、用心棒だろ!」
「こらぁ、貴様ら! ナイフを振り回していた奴はどいつだ!」
警官が野次馬を掻き分けて、走り込んで来た。佐野は首を掴んで起こされ、警官に持っていたナイフを取り上げられる。転がっている内藤と抵抗する北川も捕まった。
「お、覚えてろよ! おまえら!」
男達は連行され、それと共に野次馬も散らばって行く。
「いったい、何だったの」
琴葉は口が空いたまま、呆然としていた。
「キノはやっぱり、強い。そして……」
マコは芦川を振り返り見つめる。
「先生も、凄く、ね」
救急車が到着した。病院に到着して、すぐに芦川の手の手術が始まった。




