第1話 夏と、十年前の春
俺は仕事に敗れた敗北者だ。
不況の中、勤めていた会社の経営が傾き、十年間勤め続けた職場を二〇二六年五月に退社した。全てを失った、という言い方が大げさでないくらい、あの頃の俺はひどい有様だった。
戦える人間なら勝ち抜けたと思う。だが俺のポジションは微妙で、力を発揮できる場面がなかった。三十代で要領が悪く、真面目で融通が利かない。人生の荒波をうまく泳いでいけない、どこまでも不器用な男だ。
二年前から勤務時間を削られ、パートのような勤務形態となり、手取りも五万円近く減った。その時の上司の苦しい言い訳に矛盾があることは分かっていたが、俺はただ聞き流した。
当然、生活に支障が出る。妻と話し合い、住宅ローンのために妻が働くことになった。そして、ある日、妻が消えた。職場で知り合った男と逃げたのだ。メールで離婚を言い渡された。
「コノヤロー、ふざけんじゃねー」
部屋で一人、声に出して叫んだが、返事をする者は誰もいなかった。
数日後、離婚届と手紙が届いた。
『家のローンは彼が引き受ける。そのまま住んでいいよ。それで許して。住むのが嫌なら残金五百万で私を忘れて』
少し悩んだが、借金に縛られ自由のない生活は苦痛だ。名義変更から室内の処分まですべてを終え、地方都市の中古物件を元妻に預けて、年に二回しか帰らなかった実家へと戻った。
築五十年の館林の家。門柱の表札には「松井」とある。子供のころは当たり前すぎて気にも留めなかった文字が、今日は妙にはっきり目に入った。帰ってきたんだな、と改めて思う。
俺を出迎えてくれたのは、玄関に転がるカメムシの死骸だった。
両親はすでにいない。父は五年前、母は三年前に亡くなった。花を買ってきて仏壇に供え、線香を焚いた。ひとこと「ただいま」と言って、ここでの生活が始まった。
———
数か月後、地元の会社に就職した。前職とは全く畑違いの、農業関係専門のホームセンターだ。主に肥料や土、草花、それらに関連した機材を扱う。肉体労働になるが、無理はしたくなかったのでパート勤務から始めた。
そんな中、職場に会いたくない人物が現れた。いとこの幸子だ。三十歳ほど年上で、いつも上から目線。怖くて苦手な女性で、娘の方が俺の年齢に近いくらいだ。
「耕一、帰って来たんだ。ここで働いているの? 地元が一番でしょ」
「はー」
「奥さんと店に飲みに来て!」
カマをかけてきたか。俺は小さく息をついた。
「今、一人だから」
「えー、そーなの……」
目が笑っている。知っていたくせに。
「あ、もう休憩終わるから」
「遊びに来てよ、女の子もいるし……」
負け犬を見る目だ。
「はー」
それだけ言って、俺は売り場に戻った。
仕事が終わり、自宅でまったりしていたら電話が鳴った。画面に「小田泰司」と表示されている。隣町の本家からで、十歳上の団体職員だ。悪い人ではないが、何の用だろう。
「はい、耕一です。お久しぶりです」
「おー、元気かー。何ねー、幸姉から連絡もらって、いとこで集まらないかって話があってさ。今、仕事が忙しいんだよ。そんなわけで俺は乗り気じゃないし、耕一もそうだろ?」
「えー、まあ……幸姉は……」
「分かるよ、強い人だから。あっ、それとあの会社の所長と友人だから、何かあったら連絡して」
「え、そうなんですか?」
「知らなかった? 嘘だろー……まあいいや、それじゃ」
電話はあっさりと切れた。あの人は何かと勧めたりしないから安心だ。
———
翌日は平穏に暮れた。
小腹がすいたのでコンビニでおにぎりを買い、自宅へ向かって歩いていると、途中で女の人に声をかけられた。え、誰だろう。
「私、佐藤健吉のところの初美です」
ああ、二つ上の怖い姉さんのところの妹か。小学校以来じゃないか。なんで今ここに。
「あー、思い出した。久しぶり、元気だった?」
「はい。一人で帰って来たと聞いたから……」
え、知ってるの。怖え。
「どうしたの?」
「あの、ちょっと、顔見たくなって」
好意を持っているのは分かった。でも……そうだ、思い出した。あの時——俺、この子を助けたんだった。それが原因で、この子の姉さんに勘違いされて、えらい目に遭ったんだが……。
そんなことを思い返しながら初美の顔を見たら、頬が真っ赤に染まって、困ったような表情をしていた。その時。
あっ。
目の前に、老人が運転する車が——。
俺と初美は、車にはね飛ばされた。
———
周りの景色がスローモーションのように流れ、体が地面に落ちた、と思った瞬間。
自宅の布団の中だった。
あれ? どういうことだ? 俺はさっき車に……。
「耕ちゃん、ご飯! 早く起きて」
母の声がした。え、何故?
跳ね起きて枕元の新聞を手に取った。地方紙の日付には「平成二十八年四月二十九日、金曜日」とある。スマホを確認すると、昔使っていた古い機種だ。画面にも二〇一六年四月二十九日、金曜日と表示されていた。
……約十年前に戻っている。
洗面台に行って顔を見る。若い、と思う。普段、自分の顔を真剣に鏡で見ることがない俺には、最近の自分の顔がどんなものか思い出せない。だから「若い」と感じるのかもしれない。
「何やってんの」
と、もう会えないと諦めていた母に声をかけられた。なんか、変な気分だ。母と最後に会ったのは施設の中だった。若年性認知症で二年ほど入所していたが、急に体調を崩して亡くなった。痩せた、認知症の母の顔が頭をよぎる。
「父さん、祭日出勤で居ないから、早くご飯食べて」
その言葉に父のことを思い出す。父は五年後、交通事故で死ぬ。
目覚めてから脳の情報処理が追いついていない。冷静を装っているつもりだが、背中を気持ちの悪い汗が流れていく。
「耕ちゃん、なんか顔色悪いよ?」
「大丈夫、寝起きだから」
そう答えてトイレに逃げ込んだ。出すものを出したら、少し落ち着いてきた。
……十年前からやり直しか。
「耕ちゃん。お客さん、佐藤さんのところの初美ちゃんよ! あらー、久しぶりねー、元気だった?」
居間から母の声。え、もしや——彼女も?
慌てて廊下へ向かったが、玄関の手前で速度を落とし、呼吸を整えた。
「やー、元気! 何か用?」
初美の目が虚ろだった。あの事故の直後に意識がここへ飛んできたのだろう、顔色も悪い。
「外、暖かいから、前の公園に行こうか」
初美は無言で頷いた。
———
公園の古いベンチに二人で並んで腰を下ろした。桜はすでに散り、新緑が風にそよいでいる。
「コンビニのこと、覚えてる?」
「はい……私、どうしたらいいか分からなくて……」
「十年前に戻ったことは分かるよね?」
「え、そうなんですか! 慌てて来たから……ごめんなさい」
「事故で死んではいないし、痛みもない。『なぜここに』と考えても無駄かもしれない」
「そうだね。科学じゃ証明できないし、小説の世界みたい」
初美は少し笑った。俺も苦笑いを返した。
「初美ちゃんは、今高校生?」
「初美で構いません。十年前だと高校二年です」
「じゃあ初美。俺はこれをチャンスと捉えてる。令和のことを記憶してるんだから」
「ごめん、あたし、ぼーっとして生きてきたから何も覚えてないよ」
「俺も似たようなもんだ。でも、この十年で苦い思い出がある。それを回避できるかもしれない」
「確かに!」
「それと、このことは内緒にしよう。当事者以外の人には、変人か狂人に思われる」
「二人だけの秘密ですね」
初美が初めてまともな笑顔を見せた。
「それと——聞いていいか。なんで今日コンビニに来たんだ」
初美は少し間を置いてから、ゆっくり話し出した。
「私が子供のころ、知らない男の子に悪いことをされていた時、耕一さんに助けてもらったでしょう。そのことを姉に話したら、姉が勘違いして、抗議しに行ったの。後から『敵討ちしてきた』と聞いて、私が説明したら、『あんたがきちんと説明しなかったから、わたしは知らない』って言われて……あたしも怖くなって、うやむやにしちゃって」
「あー、大丈夫だよ。お互い大人なんだし、甘酸っぱい思い出さ。気にしてないから」
「姉もあれから少し変わって。耕一さんに会わないようにこのあたりには絶対現れないと思う」
そうか。それなら余計な面倒は起きない。
互いの記憶を書き出して整理することを宿題にして、今後のイベントにどう向き合うか考えよう、ということになった。LINEのQRコードを交換しようとしたが、特殊な事情があるので念のため電話番号のみ(SMSと通話)でやり取りすることにした。
自宅に戻ると、母から「高校生とねー、気をつけなさいよ、今世間はうるさいから」とやんわり釘を刺された。食事を済ませ、落ち着いたころにショートメールが届いた。初美だ。
『よく考えたら、五月の連休中に告白されて付き合うことになるんだけど』
『その件で連絡してくるってことは、あまり良い思い出じゃないんだろ。止めとけ』
『最近彼ができたことにする』
『了解』
———
俺は大学を卒業してからここ、館林を離れた。自分にとって地元の情報はほぼゼロだ。初美に聞かなければ分からないことだらけだし、よく考えると十年分の記憶がひどく断片的だ。重大ニュースすら全然覚えていない。自分の身の回りのことも、断片をつなぎ合わせるのがやっとだ。
とことんポンコツな自分を自虐してから、記憶に残っている社会の出来事を見つめ直してみた。
二〇一九年五月一日 令和への改元。同年十月、消費税率が十パーセントへ引き上げ。
二〇二〇年初頭 新型コロナウイルスの感染拡大。
二〇二一年七月 東京二〇二〇オリンピック・パラリンピック開催。
二〇二二年七月八日 安倍晋三元首相暗殺事件。
二〇二四年一月一日 能登半島地震。
二〇二五年 大阪・関西万博の開催。
二〇二六年 トランプによるイラン空爆。
頭を絞ってもこの程度だ。初美に聞いても全滅に近い。当事者の近くにいたわけでもなく、事件とほぼ無縁の場所で生きてきたのだから仕方がない。
館林周辺の記憶となるとさらに怪しい。
二〇一六年 アメダス観測地点の移転議論。「日本一暑い街」という環境が不適切ではないかとの指摘が起きた年だ。
二〇一七年 館林市役所の新庁舎が全面供用開始。
二〇一八年 「里沼(SATO-NUMA)——『祈り』『実り』『守り』の沼が育む館林の沼辺文化」が日本遺産に認定。
二〇二一年 館林市内におけるベトナム国籍者らによる家畜盗難事件。同年、館林市内での高齢夫婦殺傷事件。
二〇二三年 館林駅周辺での刃物男騒動。
全然役に立たない情報だ。考えただけ無駄だった。
競馬が好きだったら大儲けできたかもしれないが、ギャンブル全般に興味がないのでそれも無理。特別、金儲けに執着があるわけでもない。折角過去に戻ったんだから、そういう方向も「有り」かと少しだけ下心を出してみたが、どうせ俺には向かないと結論が出た。
一息ついて、改めて考える。前の会社で社畜となり、そこで知り合った女と結婚し離婚するという人生を回避できる。それだけでも十分すぎるくらい「良し」としよう。
———
連休明けの日曜日、初美が俺の家を訪ねてきた。
居間でなぜか数学を教えることになっている。母がお茶とお菓子を出してくれた。
「私、馬鹿だから、ごめんね!」
初美はお決まりの言葉で始める。頑張らなくても高校くらいは卒業できると思ったが、俺は黙っていた。
「耕一さん、何かいい話(お金になる話)思い出しました? 私、全然ダメで……」
「俺さ、パソコンが好きだから少し考えたんだけど、NVIDIAとかTeslaの株、面白いと思う」
「えぬびであ? てすら? 株?……」
「パソコンに興味ない人には分からないよね。米国の有望な会社だよ」
そう言ってニカッと笑ったが、初美の表情は「?」のままだった。話を休憩程度に挟みながら勉強を続け、昼前に初美は帰っていった。
「本当に勉強して帰って行ったねー」
と母が言う。「うんー」と愛想のない返事をして、俺は部屋でマンガを読んだ。
———
そんな生活が続き、大学の長い夏休み——八月上旬から九月下旬——に入った。令和の時代に勤めた農業関係専門のホームセンターでアルバイトをすることにした。なぜか初美も同じ店でバイトをするらしい。
仕事の基本的な流れは把握していたので、職員の人から「さすが大学生ですね」と褒められたが、俺の場合はズルをしているだけだから複雑な気分だった。
お盆を過ぎて客足が落ち着いてきたころ、先輩にビアホールへ誘われた。女子は軽作業だが、男子は肉体労働担当だ。夕方八時に現地集合、一風呂浴びて、いかにも男くさいメンツ五人で乾杯を始める。この五人は裏方の力仕事を受け持つグループで、客対応はめったにしない。
リーダー格の丸山さんが就職先を決めたかどうか気になっていたので、
「まだ決まってないです。ここにバイトとして就職しようかな?」
と俺が聞くと、丸山さんは苦笑いを浮かべながらジョッキを置いた。
「お前、大学まで出てそれでいいのか」
「いいんですよ、別に。ここ、悪くないし」
そう言ったら、場がしばらく静かになった。誰も笑わなかったし、否定もしなかった。
俺は冷えたビールを一口飲んだ。うまかった。
———
夏が終わった。
初美は学校に戻り、俺は相変わらず実家の「松井」の表札の下で暮らしている。特別なことは何もない。毎日が平凡で、静かで、それなりに悪くない。
夏が終わっても、別に何も変わらなかった。それでいい、と思った。




