ただいま
初めて吸った血は、とても美味しかった。でも、涙が止まらないの。弱々しい彼女の手が、私の背中を抱きしめてる。短い喘ぎの中、愛してると何度も、何度も言ってくれた。私もよ。愛してる。
――血の味が消えた。するりと、彼女の手がベッドシーツへ滑り落ちていく。
私は立てていた牙をそっと離した。彼女は、今にも目を開きそうなほど穏やかな顔のままだった。
動かない。もう、息をしていない。その冷厳な事実が脳を殴りつけ、私の体から急速に熱を奪っていく。喉が焼け付くような嗚咽を上げ、冷たくなり始めた彼女の胸に顔を埋めた。温もりを求めて、ただ縋り付くしかなかった。
こんなに辛いなんて知らなかった。彼女という幸福を知ってしまった報いだ。あんな温もりを知らなければ、ここまで凍えることもなかったのに。
「いやぁああ!! 死なないで!! また笑ってよ! 置いていかないで! 私を一人にしないで! アンナ! お願い……!」
泣いても、泣いても、彼女は幸せそうな顔のまま微動だにしない。我慢していた本音が、空虚な部屋に吸い込まれていく。喉は焼け付き、掠れた声しか出なくなっても、私は叫び続けた。
「……ぁ……ぁぁ」
感情をなんで教えたの? 大切って言葉をどうして教えてしまったの? 私は、こんなにも辛いのよ。
私は、ついに泣き声すら上げられなくなった。俯いたままベッドから降り、フラフラと足をもつれさせる。視界の端に、いつも彼女が座っていた机が見えた。そこには、一通の手紙が置かれている。
内容は些細なことだった。
――きっと、あなたは苦しくて泣いているでしょう。私の選択に納得いかないのも分かるわ。本当に、ごめんなさい。私のわがままに付き合ってくれてありがとう。引き出しの中に、魔力隠しの魔法具を入れておいたわ。これを使えば、魔族だとバレないと思うわ。
かなり高かったのよ? ふふっ。あなたの人生は続くから。だから、いろんな幸せを見つけるために使ってほしいの。これも私のわがまま。
心の底から愛してるわ。それを教えてくれたのはあなたよ。
――アンナより。
くしゃっと手紙を握りしめてしまう。涙が落ちそうになって、咄嗟に手紙を遠ざけた。彼女の書いたものを、にじませたくなかったから。
私は涙を拭き、手紙を影の中へしまった。机の中に置かれていた魔法具のネックレスを取り出し、首にかける。冷たい金属の感触を肌に馴染ませるように、何度も指先で愛おしく撫でた。
外に出た私は、庭から燃え上がる屋敷を見上げていた。誰の手にも渡したくなかった。死体はどうしても腐ってしまう。あの幸せな顔のまま、記憶の中に封じ込めたかったのだ。それが私の、せめてものわがままだった。
世界から色が消え、私は森の中へと逃げ込んだ。誰にも見つけられない場所で、ただ眠るだけ。起きては泣き、疲れてはまた眠る。廃人のように、ただ生き続けた。
けれど時間は残酷だ。少しずつ動けるようになってきてしまった。だから、吸血行為はしないと決めた。アンナとの記憶を、薄れさせたくなかった。無闇矢鱈に吸って、それがいなくなってしまうことを恐れた。
風化させたくなかった。
廃人のまま……私はとある小さな国に足を踏み入れた。その国で、あの子達に会うことになるのね。
あの子達に、会うことになる? なぜ私に、これからの未来が見えるの? ――また、喪失の記憶を繰り返せというの。嫌だ。そんなの、耐えられない。
唇に違和感を覚え、そっと手で触れる。なに? この感覚。今は誰ともキスなんてしてないのに……
時折感じていた感覚。これはなに? 誰も触れてないのに誰かが手を握ってるの。そんなはずないわ。私はアンナを失ったのよ。幸福なはずがないわ。やめて、アンナを――消さないで。
「違うわ」
私はそうつぶやいた。この温かい感覚は、アンナを消そうとしているんじゃない。私に寄り添ってくれているのだ。小さな寮の部屋で、エリスが抱きしめてくれた温もりそのもの。
感情と記憶が濁流となって押し寄せる。アンナ、アンナアンナ……!
――しっかりしなさい。私を過去へ縛り付けようとする、呪いの足掻きにエリスまで奪わせるつもり? 人の時間は短いのよ。
忘れないで。私にとって、エリスがどれだけ大きい存在なのか。だから……
――起きなさい!
私の闇を切り裂くような声に、弾かれるように意識が浮上する。視界が急速に色を取り戻していく。目の前には、溢れる涙を堪えきれずに震えるエリスの顔があった。現実と追体験の惨劇が溶け合い、私は激しい眩暈に襲われた。
「どうしました? イルナさん! 私です! エリスですよ!!」
「エリ……ス?」
――私は、禁忌の書の中で何があったかをこうして全て話した。
「ごめんなさいね。あまりいい話ではなかったでしょ。私が廃人になっている間もずいぶんと苦労をかけたわよね」
背後から漏れるエリスの泣き声が、私の胸を鋭く刺す。これが共感というものなのだろうか。アンナ、あなたもこうして私の痛みを感じてくれていたのかしら。
「私はもう大丈夫よ。あなたには少し辛いお話だったわよね。アンナとのこと。その後に出会ったのがあの子達なんだから」
「ごめっ……んなさいっ。涙が、止まらなくて……!」
「いいのよ。私はあなたを責めているんじゃないんだから」
初めて自分の辛い過去を話した。そんな私の心はどこか軽かった。にしても泣き過ぎよ。
私は振り向いて、彼女を抱きしめた。
「本当に待たせてごめんなさい。ただいま――エリス」
「はい……! おかえりなさい――イルナさん!」
見つめ合ううちに、胸の奥から静かな熱が込み上げてくる。過去の呪縛も、吸血鬼の本能さえも、彼女の温もりの前では霧散していく。ただ、目の前のエリスという実在だけが、今の私を繋ぎ止める真実だった。
吸い寄せられるように唇を重ねた。求め合うように指を絡め、かつての喪失で空いた穴を埋めるかのように、私たちは互いの体を強く抱きしめた。
「んっ……あ」
相変わらず、彼女からは小さな声が漏れる。長く、とても長く。彼女が体を大きく震わせた。それでも私はキスを続けた。
溜まっていく快感が、私の理性を焼き切ろうとする。私は唇を離して、深く息を吐き出した。
「んっ……はぁ……はぁっ……」
「イルナさん……」
「ふふっ、やりすぎたかしら?」
彼女の頬を撫でて、熱を帯びた瞳を見つめる。今はただ、この温もりを確かめたかった。私は彼女を優しくベッドへと押し倒し、愛おしげに膝をその太ももの間に滑り込ませた。




