第八話「初めての黒字」
八日目の朝。
目が覚めた。
天井を見た。
染みが三つ。
今日はコルテの指名依頼が来るかもしれない日だ。
来るかもしれない、というのが気になっていた。
確定ではない。
現場で言えば、口頭の約束は受注じゃない。紙になって初めて仕事だ。
期待しすぎない。でも準備はしておく。
食堂に降りると、マルティナが朝食を出してくれた。
いつもと同じパンと卵のスープ。
「今日は大きい依頼があるかもしれないですが、朝はいつも通りにしておきます」
マルティナは少し首を傾けた。
「なんで」
「気持ちが先走ると、判断が甘くなるので」
「……変な子供だね」
「よく言われます」
マルティナはくすりと笑って、厨房に戻った。
マユミが来た。
「今日の段取りは」
「午前はギルドで通常依頼を一件こなします。午後にコルテさんから連絡が来れば倉庫へ。来なければ別の依頼に切り替えます」
「来なかった場合の依頼は決まってるか」
「昨日と同じ西草地の薬草採取を考えています」
「準備がいいな」
「備えておかないと、来なかったときに一日が無駄になります」
マユミはスープを飲みながら頷いた。
「……お前と組んでから、段取りを考えるようになった気がする」
「そうですか」
「前は思いついた依頼を手当たり次第受けてた」
「効率はどうでしたか」
「悪かったな。体力は使うのに、稼ぎが安定しなかった」
俺は少し考えた。
「段取りが先で、体力は後です。体力で押し切ろうとすると、長続きしない」
「現場仕込みか」
「そうです」
マユミはまた少し黙った。
「……教えてもらってる気がする。お前に」
「お互い様ですよ。俺はマユミさんの体力と戦闘力に何度も助けてもらってます」
マユミは少し照れたような顔をした。
珍しかった。
すぐ真顔に戻ったが。
ギルドに向かった。
掲示板を確認した。
昨日の西草地の薬草採取が再び出ていた。同じ条件。銅貨二十枚、二人以上。
念のため、これを手に取った。
午後にコルテからの連絡がなければ、これを使う。
受付の女性に預けようとしたとき、ギルドの入り口から声がした。
「ヒコ、いるか」
振り返った。
コルテだった。
昨日より少し急いだ顔をしていた。
「ちょうど良かった。今日、大口の依頼がある。受けてくれないか」
俺は少し止まった。
「大口、というのは」
「商人ギルドの幹部が倉庫の全面整理を依頼してきた。通常の三倍の量だ。人手が必要で、お前たちを指名した」
「報酬は」
「二人合わせて銅貨百枚。山分けだから一人五十枚だ」
五十枚。
一日の生活費とほぼ同じ額だ。
これに通常の採取依頼を合わせれば、今日初めて一日の収支がプラスに近づく。
「マユミさんと相談してもいいですか」
「構わない。ただ、今日の午前中に返事がほしい」
「わかりました」
マユミに話した。
マユミは少し考えた。
「三倍の量か。時間は」
「午後から夕方まで、四時間見てほしいとのことです」
「体力的には問題ない。お前は」
「問題ないです。ただ、午前に別の依頼を入れると体力配分が難しいかもしれない」
「じゃあ午前は休んで、午後に全力を出すか」
「それが安全ですが、収入がその分減ります」
「でも五十枚が確定するなら、午前の採取を捨てても今日は生活費を賄えるかもしれない」
マユミの計算は正しかった。
五十枚から生活費五十枚を引けばプラスマイナスゼロ。
追加報酬があればわずかに黒字になる。
「受けましょう」
「決まりだ」
コルテに伝えた。
「助かる。昼過ぎに倉庫に来てくれ」
午前は宿でゆっくりした。
珍しいことだった。
来てから八日間、毎日動き続けていた。
体を休める、という発想が抜けていた。
現場でも同じだった。休養も工程の一つだ。休まない現場は必ずどこかで無理が出る。
マユミは部屋で何かを読んでいるらしく、食堂に顔を出さなかった。
俺はマルティナと少し話した。
「今日、大きい依頼が入りました」
「コルテさんのところか」
「なんでわかるんですか」
「あの人がここに来たのを見てたから」
マルティナは何でも見ている。
宿の女将というのは、情報の集積地だと改めて思った。
「うまくいけば、今日初めて収支がプラスになるかもしれません」
「そうか」
「借金の返済も、少しだけですが見通しが立ちそうです」
マルティナはカウンターを拭きながら、静かに頷いた。
「焦らなくていいよ」
「わかっています。でも早く返したい」
「なんで」
俺は少し考えた。
「借りっぱなしは、気持ちが悪いんです。相手に対して、対等じゃない気がして」
マルティナはしばらく手を止めた。
それから、また拭き始めた。
「……お前みたいな子供は、初めて見たよ」
「子供じゃないつもりですが」
「体は子供だろ」
また言い返せなかった。
昼過ぎ、コルテの倉庫に向かった。
マユミと二人で。
倉庫に入ると、昨日の三倍の量が積まれていた。
壮観だった。
現場で言えば、大型物件の初日現場確認みたいな感じだ。
圧倒されるが、怯まない。段取りを組む。それだけだ。
「まず全体を確認します。ラベルの種類を把握して、それから動線を決める」
マユミは頷いた。
コルテが横から口を挟んだ。
「何から始める」
「明日以降に出荷予定のものを確認させてください。優先順位を決めてから動きます」
「……お前、本当に子供か」
「体は子供です」
コルテは苦笑した。
四時間、動き続けた。
途中で休憩を一度入れた。十五分。
俺がラベルと動線を管理する。マユミが重い荷物を担当する。コルテが出荷リストを確認する。
三人の役割がはっきりしていた。
だから迷いがなかった。
夕方前に終わった。
コルテが倉庫全体を見渡した。
長い沈黙だった。
「……完璧だな」
「ありがとうございます」
「出荷順に並んでる。動線が無駄ない。ラベルが全部見える向きに揃ってる」
「当たり前のことをしただけです」
「その当たり前ができない人間が多い」
コルテは俺に向き直った。
「報酬だ。約束通り二人で百枚。山分けで一人五十枚」
俺とマユミにそれぞれ銅貨五十枚が渡された。
「それから、追加で二人合わせて二十枚出す。予定より早く終わった分だ」
追加の二十枚も山分けで、一人十枚ずつ。
俺の今日の収入、合計六十枚。
「ありがとうございます」
「それから、今後も定期で頼みたい。週二回。報酬は二人合わせて四十枚。一回二十枚ずつだ」
週二回、一人二十枚ずつ。
月換算で一人百六十枚。
安定した収入の柱が、今日できた。
「喜んで受けます」
「来週の火曜から頼む」
マユミが隣で小声で言った。
「定期か。やったな」
「俺たちで、ですよ」
「また言ってる」
ギルドに戻って、今日の収支を計算した。
ヒコの収入、銅貨六十枚。
今日の生活費、約五十枚。
本日収支、プラス十枚。
初めての黒字だった。
たった十枚だ。
でも、黒字は黒字だ。
累計借金は二百八十枚から、二百七十枚に減った。
十枚、減った。
マユミが隣で言った。
「黒字、か」
「はい。初めてです」
「十枚だけどな」
「十枚でも黒字です」
「そんなに嬉しいか、十枚で」
俺は少し考えた。
「金額じゃないんです。方向が変わったことが嬉しい」
「方向?」
「赤字のときは、いくら動いても穴を埋めてるだけだった。今日初めて、前に進んだ気がします」
マユミはしばらく黙った。
「……それ、わかる気がする」
「そうですか」
「私もずっと、ギリギリで生活してたから」
俺は少し、マユミを見た。
今日、マユミも六十枚を手にした。
マユミの生活費がどのくらいかは、まだ聞いていない。
でも今日、少し楽になったことは、顔を見ればわかった。
夕食前にマルティナのところへ行った。
銅貨十枚を出した。
「借金の一部返済です。少ないですが」
マルティナは帳簿を出した。
「残り二百七十枚になる」
「毎週少しずつ返していきます。定期の仕事も決まったので、来週からペースが上がると思います」
「わかった」
マルティナは帳簿に数字を書き込んだ。
その数字に、細い線が引かれた。
返済済みの印だ。
俺はその線を見た。
たった一本の線だ。
でも、なんだか、ずっと肩に乗っていた何かが、少し軽くなった気がした。
「マルティナさん」
「うん」
「立て替えてくれて、ありがとうございます。催促もしないで」
マルティナは少し間を置いた。
「お礼はいい。全部返し終わったときに言え」
それだけだった。
俺は頷いた。
「必ず言います」
部屋に戻って、窓の外を見た。
夜のアーゼルタウン。城壁の上に見張りの灯り。
八日目。
借金は、まだ二百七十枚ある。
でも今日、初めて方向が変わった。
赤字から黒字へ。
穴埋めから前進へ。
これが現場だ。
最初は必ず赤字から始まる。でも段取りを組んで、少しずつ改善して、いつか黒字に転じる。
どんな現場でも、同じだ。
こっちの世界でも、同じだった。
来週から定期依頼が始まる。
週二回、一人二十枚ずつ。
それに採取や他の依頼を組み合わせれば、毎日の収支がプラスになる日が増える。
借金の返済も、見通しが立ってきた。
段取りが、組めてきた。
目を閉じた。
第八話「初めての黒字」 了




