第二十話「契約成立と、最初の給料日」
月曜日の朝。
目が覚めた。
今日、ドガンが修正版の契約書を持ってくる。
先週、三か所の修正を求めた。
ドガンは全部飲んだと言っていた。
でも、飲んだと言われても、書面で確認するまでは信じない。
それが原則だ。
現場でも同じだった。
口頭の約束は約束じゃない。
紙になって初めて約束になる。
今日、紙で確認する。
食堂に降りた。
マユミがいた。
今日は普通の顔をしていた。
昨日一昨日と比べると、ぎこちなさが取れていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は契約日だな」
「はい」
「読むのにどのくらいかかる」
「先週読んでいるので、修正箇所を確認するだけです。十分もあれば十分だと思います」
「じゃあ午後は一緒に動けるな」
「動けます」
マルティナが朝食を出した。
「今日は大事な日だな」
「そうですね」
「緊張してるか」
「少しだけ」
「それでいい。緊張しない人間は、大事なことを軽く見てる人間だ」
俺はその言葉を少し反芻した。
緊張しない人間は大事なことを軽く見ている。
現場でも同じことを言っていた上司がいた。
安全管理の話をしているときだった。
この世界でも、同じことが言える人間がいる。
マルティナは、本当に普通じゃない人だ。
ドガンの倉庫に着いた。
ドガンが封筒を持って待っていた。
「来たか。修正した。確認してくれ」
受け取った。
封を開けた。
先週と同じ三枚の紙だった。
一文ずつ読んだ。
一か所目。途中解約の条件。
一ヶ月前の通告で解約可能、と明記されていた。
問題ない。
二か所目。追加依頼の書面化。
依頼内容と報酬を書いた紙に両方がサインする、と明記されていた。
問題ない。
三か所目。報酬の支払い。
月の十五日と末日の二回払い、と明記されていた。
問題ない。
全部修正されていた。
俺は最初から最後まで、もう一度通して読んだ。
他に引っかかる箇所がないか確認する。
現場でも、修正箇所だけ見て他を見落とす、というミスがよくあった。
全部読んで、問題がないことを確認した。
「修正、全部確認しました。問題ありません」
「そうか」
「署名します」
ドガンが羽根ペンを出した。
三枚目の署名欄に、名前を書いた。
ヒコ。
ドガンも署名した。
一枚は俺が持つ。一枚はドガンが持つ。一枚はギルドに提出する。
「これで正式な契約だ」
「はい。よろしくお願いします」
ドガンは俺に手を差し出した。
握手だった。
俺も手を出した。
ドガンの手は大きくて、固かった。
長年、仕事をしてきた手だった。
「よろしく頼む、ヒコ」
「はい。よろしくお願いします、ドガンさん」
それだけだった。
でも、重さがあった。
最初の給料日は来月の十五日だ。
銀貨十枚の半分、銀貨五枚が入る。
銅貨換算で五百枚。
借金は今、四百十一枚残っている。
……来月の十五日に、全部返せる。
俺はその数字を、少し頭の中で確認した。
感情的になるほどじゃない。
でも、静かに嬉しかった。
ギルドに向かった。
契約書の一枚を提出した。
受付の女性が確認して、書類に記録した。
「商人ギルドとの管理職契約ですね。確認しました」
「はい」
「ギルドのランクアップにも有利に働きます。管理業務の実績として認定できます」
「そうなんですか」
「はい。Dランクへの昇格条件の一つに、安定した依頼実績があります。管理職としての就労実績は、それに加算されます」
俺は少し考えた。
Dランクへの道が、少し近づいた。
「ありがとうございます」
掲示板を確認した。
今日は緑の依頼が五件。
その中に、一件だけ黄色の紙があった。
黄色は、Eランク以上が対象の依頼だ。
「ヒコ」
マユミが隣に来た。
「これ、見たか」
黄色の紙を指した。
「今見ていました」
読んだ。
「街道沿い北側、ゴブリンの巣の確認調査。危険度中。報酬銅貨八十枚。二人以上推奨」。
ゴブリンの巣の確認。
先週、三体を討伐した場所の近くだ。
「先週より難しいですね」
「巣の確認だから、複数体いる可能性がある。でも、戦闘は必須じゃない。確認だけして戻ってもいい」
「調査依頼ですね」
「そうだ。私が前を歩いて、お前が後ろでスキルを使う。何体いるか確認して、巣の位置を記録して、ギルドに報告する」
「報酬は八十枚で山分けですか」
「そうなると四十枚ずつだ」
俺は少し考えた。
戦闘を避けて、情報だけを取って帰る依頼。
スキルが最大限に機能する種類の依頼だ。
「受けましょう」
「決まりだ」
午後、北側の街道に向かった。
先週と同じ方向だが、少し奥に進む。
マユミが前を歩く。俺が後ろ。
いつもの分担だ。
歩きながら、マユミが口を開いた。
「契約、うまくいったな」
「はい」
「いつから管理職になるんだ」
「今月から試験的に始まっていて、来月から正式に月給が発生します」
「月銀貨十枚か。すごいな」
「多いですか」
「多い。私の月収の三倍以上だ」
俺は少し考えた。
「マユミさんの収入は、安定していますか」
「まあまあだ。先週から週黒字が続いてる。でも、定期の収入はまだ少ない」
「コルテさんに声をかけてみましょうか。マユミさんの戦力があれば、倉庫の護衛依頼として組める可能性があります」
「護衛か」
「商人ギルドの倉庫は、時々盗賊に狙われることがあります。ドガンさんから聞きました。護衛として定期で入れれば、安定収入になります」
マユミはしばらく歩きながら考えた。
「……お前、そういうことをすぐ考えるんだな」
「損だと思うので、マユミさんの収入が不安定なのは」
「損?」
「組んでいる相手が経済的に不安定だと、無理をしてリスクの高い依頼を受けることがある。それは俺にとっても困ります」
マユミは少し止まった。
「……それ、私のことを心配してるのか、自分の都合を言ってるのか、どっちだ」
「両方です」
「正直だな」
「正直に言うと決めました」
マユミはしばらく黙った。
それから、少し笑った。
「……ありがとう。声をかけてみる」
「はい」
「それと」
「はい」
「今の、心配してる、って部分の方が大事だからな」
「……はい」
俺は少し顔が熱くなった。
子供の体は正直だ。
目標の場所に着いた。
先週より少し奥だった。
草むらが深い。木が増えてきた。
俺はスキルで周囲を確認した。
いる。
複数いる。
一体目。元気。近い。十メートルほど先。
二体目。元気。少し遠い。二十メートル。
三体目。少し消耗。二十五メートル。
四体目。元気。三十メートル。
五体目……いる。奥の方。
「五体以上います。最低でも五体確認しました。奥にまだいる可能性があります」
マユミが止まった。
「五体か。思ったより多いな」
「巣があるなら、もっといるかもしれません」
「戦うか」
「状況を見て判断しましょう。今は確認が優先です。位置と数を記録して、一度引きましょう」
マユミは少し考えた。
「わかった。お前の言う通りにする」
俺は地図を出した。
場所に印をつけた。
五体の位置を記録した。
奥の方の気配も、大まかな方向を書き込んだ。
「もう少し近づいて確認できますか」
「五メートルなら」
「三体目が消耗しています。その方向なら近づけるかもしれません」
「案内してくれ」
「わかりました。ゆっくり、音を立てずに」
二人でゆっくり動いた。
三体目の方向に近づいた。
草むらの奥が少し見えた。
ゴブリンが二体、草むらの中で何かを食べていた。
巣らしき構造物が見えた。
木の枝と草で作った、粗い作りだった。
「巣、確認できました」
マユミが小声で言った。
「写すか」
「形を記録します」
俺は紙にざっと描いた。
位置、形、大きさの概算。
「十分です。引きましょう」
二人でゆっくり後退した。
ゴブリンは気づかなかった。
三十メートル離れたところで、俺は長い息を吐いた。
どくん、どくん。
心臓が鳴っていた。
マユミが振り返った。
「大丈夫か」
「大丈夫です。少し緊張しました」
「緊張しながら、ちゃんと記録取れてたな」
「体が緊張していても、手は動かせるので」
「現場仕込みか」
「そうです」
マユミは少し笑った。
「お前と組んでると、いろんな場面で助かるな」
「俺こそ、マユミさんがいないと何もできないです」
「二人ともそう思ってるなら、いいコンビだ」
「そうですね」
ギルドに戻って報告した。
巣の位置、構造、確認した個体数。
受付の女性が記録した。
「よく確認できていますね。これだけ詳細な報告は珍しいです」
「記録を取る習慣があるので」
「報酬は八十枚。二人で山分けで四十枚ずつです」
受け取った。
今日の合計収入。
ドガンの定期三十枚、採取なし、調査依頼四十枚、コルテの定期二十枚。
合計九十枚。
今日だけで九十枚。
生活費が五十枚だから、四十枚の黒字だ。
借金は今日の返済分を差し引くと、三百七十一枚になる。
来月の十五日に銀貨五枚、銅貨五百枚が入れば、一気に完済できる。
夕食の時間、マルティナに報告した。
「今日、契約書に署名しました」
「そうか」
「来月の十五日に最初の給料が入ります。銀貨五枚、半月分です」
マルティナは帳簿を出した。
「今の残りは」
「三百七十一枚です」
マルティナは数字を確認した。
「来月の十五日に、全部返せるな」
「はい。一気に返したいです」
「急がなくていい」
「急ぎます」
マルティナは少し笑った。
「まあ、それがお前らしいか」
「はい」
「来月の十五日、楽しみにしてる」
「俺もです」
マユミが隣で言った。
「完済したら、また肉か」
「そうしよう」
マルティナが即答した。
「今度は少し奮発する」
「本当ですか」
「嘘はつかない」
三人で少し笑った。
食堂が温かかった。
部屋に戻った。
窓の外を見た。
夜のアーゼルタウン。
城壁の上の灯り。
今日、契約書に署名した。
初めての調査依頼を終えた。
来月の十五日に借金が完済できる見込みが立った。
転生してから、もうすぐ二ヶ月になる。
銅貨七枚から始まった。
無登録の採取作業員だった。
今は、冒険者ギルドのEランク冒険者で、商人ギルドの管理職だ。
借金の完済まで、あと一歩だ。
叩き上げというのは、こういうことだ。
一日一日の積み重ねが、いつか形になる。
どんな世界でも、やることは同じだ。
目を閉じた。
第二十話「契約成立と、最初の給料日」 了




