合宿編 第五章 焦げた匂い
水瀬凪は、逃げるつもりで飛び出したわけではなかったのかもしれない。
扉の前に僕らがいたことに驚いて、退路を失った。その顔だった。右手のレコーダーを強く握りすぎて、指の関節が白くなっている。
「それ、誰のだ」
僕ができるだけ低く訊くと、凪はすぐには答えなかった。
倉庫の中は真っ暗で、懐中電灯の光が彼女の肩を越えて奥へ差し込む。棚。古い掃除用具。折りたたみ椅子。床の端に、焦げ跡の残る延長コード。
「返そうと思っただけ」
凪はようやく言った。
「誰に」
「……倉橋に」
「じゃあ、どうして隠すみたいに動く」
「今さら普通に渡せるわけないでしょ」
声が揺れていた。怒っているようにも、泣くのを堪えているようにも聞こえる。
澪が一歩だけ前へ出る。
「凪」
「来ないでって言った」
「分かってる。でも、それを持って一人で決めると、また話が変な方向へ行く」
「変なのは、最初からだよ」
凪は鋭く言い返した。
「去年からずっと。変じゃなかったことなんて一回もない」
その瞬間、館内の方でベルのような音が鳴った。
次いで、遠くから誰かの叫び声。
焦げた匂いが、急にはっきり濃くなる。
「……何」
澪が倉庫の裏手を見る。
僕も振り返る。暗がりの向こう、宿舎本館の一階西端に、かすかな赤い明滅が見えた。非常灯だ。
「漏電かも」
僕は反射的に言った。
風に運ばれてくる匂いは、木が燃える匂いではない。もっと尖った、配線か機械の焦げる匂いだ。
凪の顔色が変わる。
「去年と同じ……」
「違う」
僕は即座に否定した。
「まだ決めるな」
そう言った瞬間、本館の方で悲鳴が上がった。
誰かが「火事!」と叫ぶ。
その一言は最悪だった。事実かどうかより先に、人を走らせる力がある。
「澪、館内を見て」
僕が言うと、澪は迷わなかった。
「あなたは」
「凪と一緒に伊吹を探す。あの子、今の声を聞いて動く」
凪が顔を上げる。
「伊吹が?」
「部屋にいればいい。でも、いない可能性の方が高い」
澪は一瞬だけ僕を見た。
その視線に、前みたいな『勝手に行くな』という硬さはなかった。代わりにあるのは、確認だ。
「一人で決めてない?」
「決めてない。分けた方が早い」
「……分かった。連絡は切らさないで」
「そっちも」
澪は走り出した。
その背中が闇へ消えるまで一秒もかからない。凪はまだ立ち尽くしていたが、僕が「行くぞ」と言うと、ようやく動いた。
本館へ戻る途中、廊下の窓から西端をのぞくと、一階の配電盤室の前に教師と施設職員が集まっていた。煙は出ていない。火も見えない。ただ古いブレーカーが落ちて、焦げたゴムの匂いが漂っているだけだ。それでも、一度広がった「火事」の言葉は簡単には戻らない。
「倉橋!」
凪が女子棟へ向かって叫ぶ。
返事はない。
三一一は空だった。
ベッドの上に置かれていたはずの伊吹の上着もない。机の上の鍵札だけが、半端な向きで残っている。
凪が青ざめる。
「私のせいだ」
「それもまだ決めない」
僕は三一一の窓を見た。
カーテンが半分だけ開いている。外から誰かが見ていた位置。窓の鍵は閉まっているが、窓際に泥のついた足跡が薄く残っていた。
「外へ出た」
「どこに」
「分からない。でも、たぶん倉庫じゃない」
西側倉庫へ自分から向かうなら、鍵札は持っていく。伊吹は手ぶらで出ている。それに、今の彼女が火事の言葉を聞いたら向かうのは、去年の噂と重なる場所だ。
僕の頭に、施設の簡易見取り図が浮かぶ。西側の配電盤室。旧洗濯室。三一一の真下にある、使われていない非常階段。
「こっちだ」
僕は凪を連れて、廊下の突き当たりへ走った。
そこは普段は施錠されているはずの非常階段だったが、今は半ドアになっていた。風が吹き込み、鉄の手すりが細かく鳴っている。
階段を下りた先、小さな踊り場に、伊吹はいた。
うずくまるように座り込み、両手で何かを抱えている。
懐中電灯の光が届くと、彼女はびくりと顔を上げた。涙の跡があった。
「伊吹」
僕が膝を折る。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃないです」
正直で良かったと思う。
彼女の手の中にあるのは、焦げた金属のキーホルダーだった。三一一の数字プレートと、古い鍵がついている。鍵の頭に、うっすらと黒い煤がこびりついている。
「これが、階段の隙間に……」
伊吹の声は震えていた。
「姉が持ってた鍵だって分かるんです。家で見たことがあるから。じゃあやっぱり、姉はあの夜――」
「まだ決めない」
僕は、今度ははっきりと彼女の言葉を断った。
「それだけで決めたらだめだ」
伊吹は泣きそうなまま僕を見る。
「でも、焦げてる」
「焦げてる。だから火の近くにあった。それだけだ」
「それだけじゃ――」
「うん。それだけじゃない。だから、余計に今は決めない」
自分でも驚くくらい、言葉が静かに出た。
前なら、もっと早く説明に走っていたと思う。可能性を並べて、相手を納得させようとしていた。今の僕は、まず『ここで崩れないこと』の方が先に見えていた。
凪が一歩近づく。
「伊吹……ごめん」
その一言に、伊吹の肩がこわばる。
「やっぱり」
伊吹は凪を見る。
「やっぱり、凪がやったの」
「部屋のことは……私」
凪は唇を噛みながら言う。
「でも、怖がらせるつもりじゃなかった。本当に違うの」
「違わないよ」
伊吹は珍しく強い声で返した。
「怖かった。ずっと。ここに来てからずっと」
凪はそれ以上、言葉を継げなかった。
僕は二人のあいだに入るべきか迷ったが、その前に澪から電話が来た。
『光一』
声は速いが、落ち着いている。
『大きな火は出てない。配電盤の古いリレーが焼けただけ。でも噂が広がってる。教師が全員点呼を取り直すって』
「伊吹を見つけた」
『無事?』
「無事。でも、凪も一緒だ」
短い沈黙のあと、澪が言う。
『だったら、今すぐ戻って。点呼から一人でも欠けると、話が変わる』
その通りだった。
僕は電話を切り、二人を見る。
「今は戻ろう。話はそのあとだ」
「逃げるみたい」
凪が低く言う。
「逃げるんじゃない。ここで見つかると、去年と同じことになる」
僕は自分でも驚くほど強く言っていた。
「誰かが勝手に順番を決めて、勝手に意味をつける。もうそれはやらせない」
凪は何か言い返しかけて、結局黙った。
伊吹は手の中の鍵を見下ろしたまま、小さくうなずく。
僕らが女子棟へ戻った時、廊下には教師たちの張りつめた空気が満ちていた。
点呼の結果は、ぎりぎり間に合った。伊吹も凪も無断外出の注意で済んだが、その視線は厳しい。学年主任は「明日の朝、全員に説明してもらう」とだけ言い残した。
部屋へ戻る直前、澪が僕の袖を引く。
「一つだけ」
「なに」
「配電盤室の点検記録、去年の最終チェックが合宿の三日目になってた」
「……は?」
「去年の三日目の夜のあとに、記録が書き換えられてる」
澪の目が暗い廊下の中で静かに光る。
「つまり、去年も最初から『電気系統の不具合』にする準備をしてた人がいる」
ぞくりとした。
去年の夜にあったことは、単なる噂でも事故でもない。誰かが『そういうことにした』形跡が、もう残っている。
「光一」
澪が声を落とす。
「私たち、たぶん今、知らなくていい名前の手前にいる」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるよ」
僕は廊下の窓へ目をやった。暗いガラスに、自分と澪の顔が並んで映っている。
「だから、順番を間違えない」
その言葉に、澪はほんの少しだけ安心したように息を吐いた。
部屋へ戻ってからも、眠気はまったく来なかった。
杉浦は消灯後の騒ぎに興奮していたが、教師に怒鳴られたせいで早々に黙った。上のベッドからは不規則な寝返りの音。廊下の向こうでは、まだ誰かが小声で話している。
僕は布団の中で、凪が握っていたレコーダーのことを考えていた。
去年の夜。西側倉庫。焦げた鍵。書き換えられた点検記録。
そして、倉橋梓が何を黙ったのか。
答えは近づいている。
でも、それをどう扱うかは、答えそのものよりずっと難しい。
以前の僕なら、そこを『難しい』と感じる前に進んでいた。
今は、その難しさがよく見える。
それはたぶん、弱くなったんじゃない。むしろ逆なのだと、信じたかった。




