合宿編 第四章 三日目の夜
夕食の席では、部屋割りの話題が何度も浮かんでは消えた。
教師が同じテーブルの近くを通るたびに話は途切れる。離れると、また小さな声で再開する。そういう繰り返しだ。誰も大声では言わないが、だからこそ余計に広がる。
僕は食堂の隅で、配膳の流れを眺めながら水瀬凪の動きを見ていた。
彼女は普段通りにふるまおうとしていた。友達に相槌を打ち、スープを配り、時々笑う。けれど、何度か視線が三一一の方角へ向かっている。建物の中に方角も何もないはずなのに、そうとしか言いようのない見方だった。
「見すぎ」
向かいの澪が言う。
「ばれてる?」
「ばれてはいない。でも前より分かりやすい」
「成長が足りないな」
「その自己評価の低さは少し成長してる」
褒めているのかいないのか分からない。
僕は食事を終えてから、食堂を出る水瀬の背中を目で追った。彼女は途中で振り返りもせず、そのままラウンジの方へ消える。直接、倉庫へ向かう気配はない。
「ねえ」
澪が箸を置いた。
「今のうちに施設の人の話を聞く」
「もう当たりをつけてるのか」
「去年のことを直接訊いても、たぶん口を閉ざす。でも部屋替えの管理の方から入れば、誰がどこに触れたかは出る」
その手際に、思わず笑いそうになる。
「相棒って感じだな」
「今さら?」
澪はそう返したが、少しだけ目を細めた。
食後、僕らは分かれた。
澪は施設の事務室へ。僕は三階のラウンジへ向かう。二手に分かれる時、前なら『任せた』と軽く言っていたところで、今は足が止まる。
「澪」
「なに」
「一人で抱え込むなよ」
そう言うと、澪は一瞬だけきょとんとした顔をした。
それから、いつもの平坦な顔に戻って言う。
「それ、先に言うんだ」
「悪いか」
「別に。……ありがとう」
短い返事だった。
でも、以前の僕らなら、ここでそんな言葉は出なかった。
ラウンジには、去年の合宿写真が何枚か掲示されていた。
年度ごとに、班ごとに、色褪せた笑顔がコルクボードへ留められている。去年のものもある。だが三日目の夜以降らしい写真だけ、不自然に枚数が少ない。夕食、レクリエーション、朝の散歩。あるはずの流れの一部が欠けていた。
「そこ、気になる?」
後ろから声がした。
振り返ると、水瀬凪だった。
飲みかけの紙コップを持っている。自販機のミルクティーの匂いがする。
「少し」
僕が答えると、彼女はボードを見上げたまま言った。
「去年、途中で色々あったらしいから。貼る写真、選んだんじゃない」
「らしい、ね」
「私、去年はいないし」
声は平坦だ。けれど、その平坦さ自体が少し作られている。
僕はボードの端に目を留めた。画鋲の跡がひとつだけ新しい。最近まで何か貼ってあったのを外したような跡だ。
「これ、最近抜いた?」
「知らない」
「でも見たことはある顔だ」
そう言うと、水瀬の指先がわずかに止まった。
たったそれだけの反応で十分だった。彼女は知っている。
「雨宮って、前からそうやって人の顔ばっかり見てたっけ」
「前より広く見るようにはなったよ」
「ふうん」
水瀬はそれ以上続けず、紙コップを捨ててラウンジを出ていった。
追うべきか迷ったところで、ポケットのスマホが震えた。澪からの短いメッセージだ。
**現地の部屋割りデータ 夕方に一度だけ修正**
**入力端末は一階教材室**
**教師じゃなくても触れた可能性あり**
僕はすぐにラウンジを出て、一階へ向かった。
教材室は玄関脇の小部屋で、コピー機とプリンタが並んでいる。施錠はされていない。夕食後の今は誰もいないはずだったが、ドアがわずかに開いていた。
中に入ると、机の上に部屋割り表の試し刷りが何枚も残っていた。
その中の一枚だけ、倉橋伊吹と水瀬凪の名前が手書きで入れ替えられている。赤ではなく鉛筆だ。消し跡もある。誰かが、最初から決まっていた交換ではなく、一度迷ってから書き直したのだと分かる。
その時、廊下側でかすかな足音がした。
僕は反射的に電気を消し、ドアの影へ身を寄せる。通り過ぎると思った足音は、教材室の前で止まった。
「……ない」
女の声だった。
小さいが、聞き覚えがある。水瀬凪だ。
彼女は中へ入らず、扉の隙間からだけ覗いたらしい。次の瞬間、早足で遠ざかる。僕は数秒待ってから廊下へ出た。追うことはできた。でも、その背中を今ここで掴めば、彼女はもう戻れなくなる気がした。
代わりに、机の上の紙を全部まとめて写真に撮る。
その最中、教材室の棚のいちばん下に黒い封筒が落ちているのに気づいた。拾い上げると、宛名はない。中には折りたたんだメモが一枚。
**三日目の夜 西側倉庫**
**同じことを繰り返したくないなら来て**
僕はメモを見つめたまま息を止めた。
三日目の夜。さっきの写真の裏と同じ言葉だ。
「……最悪だな」
思わず声が漏れる。
誰かが去年の出来事を『再現』しようとしているのか。
それとも去年と同じ場所へ、同じ人間関係を連れていこうとしているのか。
澪と合流したのは、点呼十分前だった。
渡り廊下の窓は、もう夜の色になっている。外では風が強まり始め、ガラスに細い枝が当たる音がしていた。
「顔が悪い」
澪が開口一番に言う。
「そっちもな」
「褒めてない」
「僕もだ」
僕は写真、ケーブル、教材室で見つけたメモを順に見せた。澪は最後の一枚を見た時だけ、ほんの少し眉を寄せた。
「西側倉庫」
「外にあった小さい建物。窓から見えた」
「去年の夜の写真、そこが背景に入ってる」
「やっぱり気づいてたか」
「あなたが気づく前にね」
「はいはい」
軽口を挟んだあとで、僕はすぐに真顔へ戻る。
「凪は何か知ってる。たぶん部屋割りの修正にも触ってる。でも、それだけで『犯人』にはしたくない」
「同感」
澪は即答した。
「やってることは軽率。でも誰かを壊すための動きには見えない」
「伊吹を呼び出す?」
「今はだめ。あの子はもう限界に近い」
数秒、沈黙が落ちる。
外の風がひときわ強く窓を鳴らした。館内放送が、まもなく点呼だと告げる。
「行くの?」
澪が訊く。
「西側倉庫」
「行く」
「一人で?」
その質問に、僕は一瞬だけ言葉を失った。
以前なら、答えは半分自動的に出ていた。僕が先に行く。危ないなら止める。そういうつもりで。
でも今、そう答えると何かが決定的に間違う気がした。
「……いや」
僕はゆっくり首を振った。
「一緒に行こう」
澪は、それを待っていたみたいに小さくうなずいた。
「うん」
「でも伊吹は巻き込まない」
「それも同意」
点呼の時間、僕らはちゃんと部屋にいた。
消灯までの一時間を、何も知らないふりで過ごす。杉浦がくだらない話をして、同室のもう一人が歯磨き粉を忘れたと騒ぎ、廊下の向こうで教師が歩く音がする。どこにでもある夜の合宿だ。
けれど僕の頭の中では、秒針だけが妙に大きく進んでいた。
そして消灯後。
僕と澪は、それぞれの棟を抜け出して一階の非常口前で合流した。
外へ出ると、山の夜は想像以上に暗かった。
曇天で月もない。懐中電灯の円だけが地面を照らし、その周りは全部、深い影だ。西側倉庫までは、舗装もされていない細い通路が続いている。風に混じって、また焦げたような匂いがした。
「光一」
「ん?」
「今日は、先に走らないで」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
それが返事としてあまり良くないことを、僕も分かっていた。
澪は呆れたように息をつく。
「たぶんでいい。止めるから」
その言い方に、少しだけ救われる。
倉庫の前まで来た時、中から小さな物音がした。
金属が触れたような音。続いて、誰かが息を呑む気配。
僕と澪は視線を合わせる。
次の瞬間、倉庫の扉が内側から勢いよく開いた。
飛び出してきたのは、水瀬凪だった。
彼女は僕らを見た瞬間、目を見開く。その右手には、細長い銀色のレコーダーが握られていた。
「……来ないで」
凪は、追い詰められた声でそう言った。
それが、この夜の本当の始まりだった。




