合宿編 第三章 去年の写真
夕食までの自由時間は短い。その短さが逆に、人を落ち着かなくさせる。
大荷物をほどくには半端で、施設に慣れるにも足りない。何もしないと噂だけが先に育つ。だから皆、意味もなく廊下を歩いたり、友達の部屋をのぞいたり、売店の品数に文句を言ったりする。落ち着かないのをごまかすための行動は、だいたい似ている。
僕と澪は、三階女子棟の端で立ち止まっていた。
三一一号室の前だ。
「男子がここまで来るの、わりと危ないよ」
澪が言う。
「お前が見張ってくれてるだろ」
「役割が雑」
そう返しながらも、澪は廊下の向こうへ一度だけ視線を流した。今、この階は比較的静かだ。荷物を置いた女子たちは売店かラウンジへ流れている。倉橋伊吹だけが、部屋の前で鍵札を握ったまま立ち尽くしていた。
「……入ってもいい」
彼女は僕らを見るなり、かなり迷ってからそう言った。
声が細い。怯えているというより、ここまで来たら引き返せないと覚悟を決めた人の声だった。
三一一号室は、部屋としては普通だった。
二段ベッドが二組。洗面台。壁際のクローゼット。窓は西側で、森の斜面と、さらに下にある小さな別棟が見えた。古い物置か、機械室か、その中間みたいな建物だ。屋根の一部が錆びている。
「去年も、姉はここだったんです」
伊吹は部屋の入口に立ったまま言った。
「正確には、三日目の夜まで」
「夜まで?」
僕が訊くと、彼女は少しだけ唇を噛んだ。
「そのあと部屋を移されたって聞きました。でも理由は知らされてません。家でも、姉はこの合宿のことをほとんど話さなくて」
姉の名前は、倉橋梓。
去年卒業した三年生。合宿を境に、学校へ来る日が目に見えて減った。そういう『ぼんやりした噂』だけなら、僕にも薄く記憶があった。
噂は輪郭がぼやけているほど長く残る。
「ここに来たかったんです」
伊吹は続けた。
「怖いけど、一度見ないと、ずっと姉のことを変な形で想像する気がして」
そう言って、ようやく部屋の中へ足を踏み入れる。
その背中を見ながら、僕は前の自分なら何と言っていただろうと考えた。きっと、もっと軽く『真相を確かめよう』みたいなことを言っていたはずだ。でも今、そういう言葉はひどく薄く感じる。
「まずは、見よう」
僕はそれだけ言った。
澪が僕を見た。何も言わない。その無言が、今の一言を肯定したのだと分かる。
部屋には、不自然なものがひとつあった。
窓際の机のいちばん下の引き出しだけが、最後まで閉まりきっていない。何かが噛んでいるような、わずかな浮き。
伊吹もそれに気づいたらしく、息を止める音がした。
「開けてみる」
僕が言うと、彼女はうなずく代わりに半歩だけ下がった。
引き出しは固かった。
横から少し押し、上に持ち上げるようにして引くと、木が軋む。中に挟まっていたのは、一枚の写真だった。縁が擦れて、何度も出し入れされた跡がある。去年の合宿所の前で撮られた、四人の女子生徒の写真だ。
左端に、倉橋梓。
その隣に、見覚えのない長い髪の女子。
右側には、当時のクラスメイトらしい二人。
そして背景に、今僕らが立っている三一一号室の窓が映っていた。
伊吹が小さく息を呑む。
「……姉だ」
写真の裏には、ボールペンで短い文字があった。
**三日目の夜 倉庫へ行くならひとりで来るな**
僕は文字を見た瞬間、背中が冷えた。
この紙は、去年からずっとここにあったわけじゃない。埃のつき方が周囲と違う。角に新しい指紋の脂が残っている。誰かが最近、ここへ入れたのだ。
「最近置かれたもの」
澪が僕の考えを先取りする。
「写真の表面だけ、乾いた拭き跡がある」
伊吹が僕らを見る。
「どういうことですか」
「誰かが、君に見つけてほしくてここに入れた」
そう答えると、彼女の肩がはっきり震えた。
「じゃあ、やっぱり私をこの部屋に入れたのも――」
「まだ決めない」
僕はすぐに言った。
伊吹だけでなく、自分に言い聞かせるためでもあった。
「置いた人と部屋を変えた人が同じとは限らない。逆かもしれない」
澪が写真を伊吹に見せながら、長い髪の女子を指した。
「この人、分かる?」
伊吹は数秒見つめてから、小さく答えた。
「……水瀬先輩、だと思います」
「水瀬?」
「今の二年に水瀬凪がいるでしょ。あの人のお姉さんです。名前はたしか、紗由先輩」
その名字を聞いた時、僕と澪は同時に顔を上げた。
今の部屋替え騒ぎで、三一一に入り直すことになったのは倉橋伊吹。そして元の部屋から外れたのは水瀬凪だ。
偶然にしては、出来すぎている。
その時、廊下の向こうで誰かの走る音がした。伊吹がびくりと肩を震わせる。
澪はすぐに写真を机の上へ戻さず、自分の手元へ引いた。
「これ、今は持ってる」
「え」
「ここに置いたままだと、また消えるから」
反論しようとした伊吹は、すぐに口をつぐんだ。彼女も同じことを考えたのだろう。
僕は机の下をもう一度見た。引き出しの奥に、細い黒いものが挟まっている。引っ張り出すと、古いICレコーダー用の充電ケーブルだった。先端が少し焦げている。
「焦げ跡……」
伊吹がつぶやく。
僕はケーブルを見つめたまま、窓の外の小さな別棟に目をやった。
倉庫へ行くならひとりで来るな。
三日目の夜。
水瀬紗由。
焦げたケーブル。
点は増えている。けれど、まだ線にしてはいけない。
何より、線にした瞬間に誰かを刺す形になるなら、なおさらだ。
「光一」
澪が低く呼ぶ。
その声の意味は分かった。ここで頭の中だけ先走るな、という意味だ。
「分かってる」
僕はケーブルをポケットにしまわず、伊吹へ見せてから言った。
「これも預かる。君の前から、勝手に消えたことにしたくない」
伊吹は迷ってから、こくりとうなずいた。
「……お願いします」
そのお願いは、真相の解明じゃない。
自分の姉を、これ以上どこかで勝手に決められないこと。それを守ってほしい、の方に近かった。
部屋を出る直前、澪が振り返る。
「伊吹」
「はい」
「今夜、一人で動かないで」
「でも――」
「それが、あなたのお姉さんのためでもある」
澪がそう言うと、伊吹は何も返せなかった。
僕も、返せなかった。
今の澪の言い方は少しだけ強かった。けれど、その強さには、自分だけで抱えて壊れる人を見てきた側の切実さがあった。
廊下へ出ると、窓の外の雲はいっそう低くなっていた。
夕食まで、まだ少し時間がある。
その少しのあいだに、誰かは次の一手を打とうとしている。そんな確信だけが、嫌に静かな形で胸の底に残っていた。




