第41話 ノアとイーサン
さて、時はシャルロッテとヴィルヘルムがテオドールと別れるより半刻ほど前に遡る。
ノアはデボラに作ってもらったサンドイッチの最後のひとかけらを、喉の奥に押し込んでいた。
『いいか。死ぬ気でここを守れ』
扉から出ていく前の、テオドールの言葉を思い出す。
『だが、死ぬんじゃないぞ。絶対に』
「隊長も無理言うよなー。出会った時からあの人はそうだけど」
同じことを考えていたのだろうか、タイミングよく、ノアの相棒が声をかけてきた。
振り向くと、イーサンはゲンナリした顔でノアを見ている。
こんな時によく食えるよな、そう言いたそうな顔だ。
でもノアからすれば、腹が減っていたら何にも出来ないのに、と思うのだ。
「そろそろマリアさんとこに着いた頃か?」
イーサンは小さく肩を回す。
食べるよりも体を動かしていたい男、それがイーサンである。
デボラさんと子供たちは、地下の抜け道から外に逃した。娘の家に避難すると言っていたので、そちらはひとまず安心だ。
「普通のレストランに見えるのに、まさか地下道があるなんてね」
大きな置き時計をいじると、収納庫の床から地下へ続く階段が現れた。
イーサンが「かっこいい!」と興奮していたのを思い出し、ノアはちょっとだけ笑う。
「殿下の乳母だった人だしな。万が一のために用意してたのが役に立った」
自分の言葉にうんうん、とイーサンが二度ほど頷いた。
「立たないほうがいいのになあ」
平和なままがいいのに。
でも、そうも言っていられないらしい。
カタン……、と小さな音が聞こえた。
扉の向こうに人の気配、三人、……いや四人か。
ノアは息を潜める。
「俺が開けたら、」
「飛び出す……」
イーサンと目を合わせ、頷く。
「今っ!」
開け放った扉の先に、二人は踏み出した。
♢
近所の誰かが呼んできたのだろうか。
まもなくやってきた街の兵士たちに、襲ってきた男たちを引き渡したところで、ノアたちは大きく息を吐いた。
命こそ取らなかったが、彼らはしばらく一人で立ち上がることもできないだろう。
「あいつら全然連携が取れてなかったよな。一度にかかってくるから、ぶつかったりしてさ」
イーサンが呆れた声を出す。
大きな体をして顔に傷のある男もいたから、ほんのわずかだけ、『げ……』ってなったんだけど。
これは相棒には秘密だ、とノアはひとり決意を固めた。
「隊長のが馬鹿力だし。小柄な奴もいたけどさ、アルフレートのが百倍速い」
赤褐色の髪に美しい翠玉色の瞳、そして子供のような可愛らしい声を持つ仲間の少年のことを、ノアは思い出していた。
隊長のことは心配してないけど、殿下もアルフレートも怪我などしてないだろうか。
「にしても、おかしくないか?」
珍しく相棒が深刻な声を出す。
「伝令に向かった騎士が帰ってこない」
言われてみれば……。
イーサンの言葉にノアはハッとした。
今日の自分達は、自由に見えてそうではない。
殿下の動向を知らせるようにと、何人かの騎士も同行していた。
彼らは定期的に王宮に戻り役目を果たし、また戻ってきていた、筈なのだが。
最後に騎士が出て行ったのはいつだったろうか。
「……デボラさんの店に着く前?」
「変だろ。広場に繋いだ馬で行き来してるんだ。城に行って戻ってくるだけなら、三往復はできる時間が経ってる」
「それって、その騎士に何かあったってことか?」
ノアは自分の言葉にゾッとする。
お目付け役、なんていっても行き先は城下町、本来なら危険なことなどは考えられない仕事だ。
たまには羽を伸ばしてくればいい、選ばれた騎士たちは上官にそう言ってもらえた、と嬉しそうに笑っていたのに。
「でも、城に戻ってなかったら、誰かがおかしいと思うだろ? 様子を見にきたりするかも……」
「様子を見に来た誰かも襲われてたら?」
イーサンはノアの言葉に被せるように答えた。
「なんのために?」
この平和な国で、のんびりとした城下町で、誰がなんのためにそんなことをするのか。
そもそも、
「隊長は、何に気づいたんだ……?」
その時、背後に人の気配。
「っ……!」
振り向いた二人の目に映ったのは——。
大きなフライパンと、太い麺棒を握りしめた、埃だらけのデボラさんと、蜘蛛の巣を頭に絡ませた彼女の弟だった。
「うひゃあ!」
「!」
室内から現れた二人を見たノアとイーサンは、今日一番驚いたのである。
♢
「子供たちは娘に預けたし、自警団にも見守ってもらっているわ」
とイーサンの傷の手当てをしながらデボラは笑った。
指先が少し震えているので、本当は不安なんだろうな、とノアは思う。
「私たちがここにいれば、イーサン様たちは殿下を追えるでしょう? もし、本来の騎士さまが戻って来られたら、何が起きたか私が伝えます」
「それは危険ですよ。奴らに仲間がいないとは限らない」
イーサンが驚いたように目を見開く。
ノアだって同じ気持ちだ。
隊長にだって強く言われてる。
死ぬ気で守れ、って。
「……殿下が心配なんです」
デボラさんは自分の母親より少し上だろう。
そんな大人の女の人が、——涙を流すところを初めて見た。
ノアは咄嗟にイーサンを見てしまったが、相棒もやはり動揺しているようだった。
「私はどうなっても構わない……でもあの方は、この国の太陽となる方……」
だめね、とデボラは持っていたハンカチで顔を拭いた。
「殿下のこと、いつまでも可愛い坊やだと思ってしまって」
可愛い坊や……、その言葉がノアの胸をきゅうっと締め付けた。
もちろん自分には子供なんていない。
でも。
ノアは屋敷にいる愛犬ルディを思い出していた。
屋敷の庭に迷い込んできたときは、犬か狐がわからないほど小さかったルディ。
母犬が恋しいのか夜鳴きが激しくて。
だけどノアのベッドに入れてやると、安心したのか鳴かなくなった。
あれから八年、美しい猟犬に変貌した彼のことを、今もノアは赤ちゃんと変わらないと思っていたから。
「わかりました」
思わず口をついて出ていた。
「は?」
目を剥いてこちらを見ている相棒は無視しよう。
「俺たちは殿下の元に向かいます」
けれど一緒に行こう。
なんたって俺たちは相棒だから。
「隊長に叱られるぞ。命令に背いたな、って」
「命令よりルディがだいじ」
「ますます、訳わかんねっ!」
「いいから、行こう」
ノアはイスに立てかけてあった剣を掴む。
「姉さん……」
外を見張っていたはずのデボラの弟が、眉間に皺を寄せて扉から入ってきた。
「城からの使いだっていう騎士さんが……」
また⁉︎
ノアとイーサンに緊張が走る。剣の柄に手をやり、デボラを後方に退ける。
ジリジリと扉に近づいて様子を伺っていると、扉の取手が回った。
「あのうー……、ひぇっ!」
「⁉︎」
扉から現れたのは見知った顔だった。
「ミヒャエル殿?」
アーレンベルク公爵家の跡取りが、尻餅をついたまま見上げていた。
近衛騎士団の彼が、なぜここに?
「な、なんで剣を抜いているんだ?」
スラックスをはたきながら立ち上がるミヒャエルが尋ねてくれば、イーサンも、
「そっちこそ、近衛隊がなんでいる?」
と質問を返していた。
それを聞いたミヒャエルは、あっ、と言うと青ざめた。
「お前たちがしばらく伝令を送って来ないから、陛下が心配して使いの者を送ったんだ。でもその者も帰ってこなくて。それで精鋭部隊がここに向かうことになった」
精鋭かどうかはあやしいな、ミヒャエルをチラリと窺いながら、ノアはそんなことを思う。
「そしたら途中で死体を見つけた」
「「死体⁉︎」」
……まさか、最悪の結果として話していたことが現実だったとは。
「城から出した使いの者だ。川下の方に流れついていたらしく、街のものが騒いでて気づいた」
ミヒャエルの声も暗かった。
「今、途中まで一緒に来た騎士が城に知らせに行っている。私たち……今外にいる他の騎士たちは、殿下の無事を確かめにきた……って、おい!」
ノアが外に飛び出すと、馬から降りた若い近衛騎士たちがレストランの前に整列していた。
ミヒャエルの乗ってきた馬だけが、扉の外に繋がれている。
「イーサン……!」
「はいよ!」
イーサンは素早く杭から結んであった手綱を解き、鐙に足をかけ、その馬に飛び乗ると、ノアに手を差し出した。
ノアがその手を掴み、引き上げてもらった瞬間。
「そらっ」
イーサンの掛け声と共に馬は駆け出した。
「お、おい! 俺の馬っ」
扉から転げるように出てきたミヒャエルに、
「少し借りる!」
とノアは叫ぶ。
「広場に目撃者がいるかもしれない」
怖い声でイーサンが呟く。
目撃者がいれば、ある程度は向かった先の見当がつく。
こんなことは初めてで。
隊長がいないことも、実際に戦ったことも。
本当は怖かったりする。
でも。
ノアは激しく揺れる馬上で、ドクン、ドクンと打ち鳴るイーサンの鼓動を感じていた。
理由なんかないけど、落ち着く。
俺と一緒に寝たルディもこんな気持ちだった?
だから、きっと。
……大丈夫。
二人でいれば、隊長も殿下も、アルフレートだって、みんな見つかるはずだから。
暮れゆく日差しの中、二人を乗せた馬はまだ目的地さえ、見つけられずにいた。




