09 「私の運命の相手、こないだ生まれたばかりなんだって」
本日はあいにくの曇天。今にも泣き出しそうな空を見上げながら、これは帰宅まで天気が持つだろうかとぼんやり考える。
今日はハルキに晩飯に誘われた。「酔わせて連れて帰る気だ!」とからかい半分、怯え半分で叫んだら、「だから誤解されるようなことを言うな!」と頭をはたかれた。人の頭をドラムか何かだと思ってやがる。
ハルキは夕方まで仕事だそうなので、迎えがてら宮殿に来た。天気がよくないからか夕方だからか、参拝客は少ないようだった。
まばらにしか人のいない広場を通り過ぎようとして、ふと、女神像の前で熱心に祈っている女子が目に付いた。
成人の儀がもうすぐで、良縁に恵まれるようお願いしているのか。それとも、運命の相手が病気でもしてるのか。
指を組んで微動だにしない彼女がどうにも気になって、俺は吸い寄せられるように近づいた。
改めて近くで見ると、長い髪の隙間から見える横顔に覚えがあって、俺ははっとする。真正面からきちんと顔を見たことがないからこそ、知った顔だ。
「こんにちは」
ありきたりな挨拶をすると、女神像に視線を注いでいた女子はようやく俺に視線を向けた。
正対してお顔を拝見するのは初めてだ。優しげに垂れた目じりに、薄い唇。おっとりした雰囲気が姉ちゃんを思い出させる。桃色の頬は、今日は涙に濡れていない。
「君、先月の成人の儀にいたよね? 俺もいたんだけど」
「そうなの? ごめんなさい、あなたのことを覚えていないわ」
「君のことは見かけただけで、俺も声をかけたりしたわけじゃないんだ」
言えば察したのか、女子はバツの悪そうな顔をした。
「もしかして、私が泣いてたところを見かけた?」
「ああ、うん。ちょっと心配になってさ……」
さすがにあの日のショックはまだ癒えていないんだろう。女子は伏し目がちに、俺から視線を外す。
この子が俺の運命の相手ではない。友人、知人、深い仲ってわけでもない。でも、2回もこの宮殿で会ったんだから、これも何かの縁だ。
「大丈夫? 俺でよければ話くらい聞くよ?」
うつむくようにして逸らされた顔をのぞきこむ。女子は少し逡巡した後、重い口を開いた。
「私の運命の人、赤ん坊なんだって」
「え?」
思わず訊き返す。赤ん坊? 運命の人が?
瞬間的に、ハルキのことを思い出した。あいつが神託を受けたとき、俺は10歳だった。神託のとき、普通、女神は運命の相手の姿を見せてくれるものらしい。まだ子供で泥だらけになって遊んでそうなガキを見て、ハルキはどう思ったんだろう。
俺とハルキの年の差だってなかなか大変だろうなと思うのに、最近生まれたばっかの奴が運命の相手?
女子はあの日のショックがぶり返してきたのか、瞳をうるませた。
「私の運命の相手、こないだ生まれたばかりなんだって。私、これから18年も待たなきゃいけないのよ。その子が18になるとき、私いくつになってるの……?」
女は若い方がいいなんて言うつもりはないけど、それでもやっぱり、18歳の男と36歳の女はなあ、と思いはする。何より、肉体的な問題もある。もし、この子が運命の相手と子供を生み育てたいなら、もっと若いうちに結婚したいと思うのは当然だろう。
「私、女神さまのお導きで、女の盛りを全部潰すのよ。これから18年、愛も恋も知らないまま、同級生たちが家庭を持つのを、指をくわえて見てくのよ。こんなこと、耐えられないわ」
「うん……それは、つらいな」
上手い慰めも思い浮かばず、俺は静かに相槌を打った。ハルキが俺をなぐさめてくれたように、何か言えたらよかったんだけど。
遂に泣き出してしまった女子に何かしてあげられることもなく、俺はただ傍らに突っ立っていた。
ハルキも、こんな風に泣いたりしたんだろうか。いつか俺も、自分の理想の家庭が持てなかったって悲しむ日が来るんだろうか。俺もこの子も、運命の相手がこの人でよかったって喜べる日は来るんだろうか。
今なら、女神を信じられなくなる人の気持ちが少しわかる。世界に置いていかれて、神様に見放されたような絶望が。
「どうして女神様は、私たちにこんな呪いをかけたの? 運命なんて言葉で縛って、人間を何だと思っているの? 私には『普通』の幸せは望めないってことなの……?」
女子は、言い切る前に膝から崩れ落ちる。
言葉もなかった。俺は、彼女の恨み辛みに耳を傾けることしかできなかった。
俺は、運命を呪いと呼び、泣き崩れる人を初めて見た。両親も遠い街の姉ちゃんも、近所のパン屋のじいさんとばあさんだって、「普通」に幸せそうだから。俺はまだ、浅くて甘いところしか見えてないのかもしれない。
俺が呆然としている間にも、彼女の嘆きは大きくなっていった。
さすがに倒れ伏しながら泣きわめく女子に驚いたのか、何人かの衛兵が駆け付けた。知り合いか、経緯は、と訊かれたので、答えられる点だけ答えておく。
衛兵に支えられても、歩く気力すら抜け落ちたらしい女子は、二度と俺の顔を見なかった。引きずられるようにして去っていく背中を見送る。
まだ塞がってもない彼女の傷を抉ってしまった。すごく、申し訳ないことをしてしまった。
俺が落ち込んでいると、重い音を立てて宮殿の正面扉が開いた。
宮殿から何人かの制服が出てくる。まだ終業じゃないはずだけど、と思っていたら、出てきたうちの1人と目が合った。
他の奴らより落ち着き払った様子のそいつは、一緒に出てきた部下に指示をする。
「テセル、先に行って彼女の様子を見て来い」
「はい」
素直に返事をした、テセルと呼ばれた部下は、女子を支える他の制服の後を追う。その場に残った上司は、俺に近づいて話しかけてきた。
「今度は何を企んでいる?」
「嫌だな、『今度は』って。何の話ですか? ツェルマ官長」
そらとぼけると、ツェルマ官長はキレイな顔をあからさまに歪めた。ついでに、苦々しそうにつぶやく。
「彼女を泣かせて騒ぎ立てたな?」
「まさか! そんなことしてないです! たまたま居合わせただけで……」
「たまたま、ねえ?」
疑わしげな視線を向けられた。狼少年の気分だ。反論しようにも、一度侵入してにらまれている身だ。言い訳も思いつかない。
不満に顔をしかめていたら、知らない男がおずおずと近付いてきた。制服も着ていないし、普通の参拝客のようだった。
「ツェルマ官長、また何かあったんですか?」
「やあ、君か。また悲しい思いをした子がいたようでね」
ツェルマ官長は親しげに男に話しかける。男は、いたましげに目を伏せた。
「いつものこととはいえ、辛いものがありますね……。ツェルマ官長」
「ええ、彼女のことは任せてください。君も、頑張りすぎないように」
「ありがとうございます」
男は官長に深々と頭を下げて、連れられていった女子の後ろ姿をじっと見つめてから、立ち去った。
俺は、男を見送る官長へ視線をやって、訊いた。
「こういうこと、よくあるの?」
「君が思っている以上には、しばしば」
簡素な官長の返事。
さっきの女子の涙を見てから落ち込んでいた気持ちが、一気に広がっていく。
俺だって姉ちゃんの結婚で、運命の相手ってものには疑念を抱いてたよ。女神の在り方を完全に信じて生きてきたわけじゃない。だけど、あんなに運命を恨む人がいるなんて。
これが、当たり前に起こることだなんて。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、ツェルマ官長は静かに言った。
「実際、あんな騒ぎは君が何かを企まずとも、日常茶飯事だ。さっきのは冗談だよ、悪かった」
俺は思わず目をしばたかせた。ジョークかよ、わかりづらいよ。
ツェルマ官長はじっとどこでもない虚空を見つめて、言い募る。
「女神の神託を、ひいては運命の相手と結婚するという社会を。害悪だと断じる声は、世間が思っている以上に多い」
「害悪……」
「さっき声をかけてきた男性も、長い間女神の神託に悩まされた人間の1人だ。彼も以前、ここで騒ぎを起こした。それからも足しげく通ってくるが、女神を信奉しているから参拝に来るわけではない。女神にしか悪態がつけないから、ここに来るだけだ」
俺にも覚えがある。姉ちゃんの結婚をおかしいと訴えても、誰も共感してくれなかったことを思い出す。誰にも理解してもらえないんだから、訴える相手は女神しかいない。
ツェルマ官長は穏やかな口調で続けた。
「彼らの嘆きを、悲しみを、女神の代わりに聴いてやれるのは我々人間しかいない。女神は、人間の心などわかるわけがないのだから」