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第十六個体観測録

討伐依頼ではありません。ただ、地鳴りが近づいているだけです 【十五文化圏周縁抄 獣人オブ・ラグナロク】

作者: 黒瀬 量衡
掲載日:2026/07/20

 最初に気づいたのは、犬ではなかった。


 鳥でもない。


 井戸でもない。


 獣人の里で、地鳴りに最初に気づいたのは、干し肉小屋の床に置いてあった、塩壺だった。


 塩壺の縁に、白い粒が一列、震えていた。


 ぱら。


 ぱら。


 ぱら。


 音は小さい。


 外では、毛皮を干す女たちが笑っている。


 子どもたちは尾を立てて走り回っている。


 鍛冶場では、蹄鉄ならぬ爪輪の修理に、鉄槌が鳴っている。


 普段なら、誰も気にしない音だった。


 けれど、ミカは塩壺を見たまま、息を止めた。


 白い粒が、同じ向きへ寄っている。


 床板の隙間から、細い土の匂いが上がっていた。


 湿った土ではない。


 雨前の土でもない。


 穴熊が掘り返した土でもない。


 もっと深い。


 冷たく、古く、鉄を噛んだような匂い。


 地の底が、こちらへ鼻先を向けた時の匂いだった。


 ミカは、腰に下げた鳴子札を握った。


 鳴らすには、まだ早い。


 そう思いたかった。


 けれど、足裏が先に答えを出していた。


 床が、震えている。


 小さく。


 長く。


 こちらへ向かって。


     *


 獣人の第九文化圏では、地を読む者を「匂い番」と呼ぶ。


 鼻がいいからではない。


 耳がいいからでもない。


 もちろん、それもある。


 だが本当に見るのは、匂いだけではなかった。


 干し肉の脂がどちらへ曇るか。


 井戸桶の水面がどんな輪を作るか。


 犬の尻尾が何度下がるか。


 鶏の足が横木を掴む強さ。


 吊るした骨札が、風もないのに鳴る向き。


 地面に座った子どもが、急に立ち上がる時の顔。


 そういうものを全部まとめて、地の機嫌を読む。


 ミカは、里の匂い番だった。


 狩人ではない。


 戦士でもない。


 長老でもない。


 勇者でもない。


 ただ、里の端にある干し肉小屋、井戸、燻し場、毛皮干し場、子ども穴、骨札台を見て回る係だった。


 若い戦士たちは、匂い番を少し馬鹿にしている。


 鼻を鳴らして歩くだけの仕事だと。


 地面に耳をつけて、土と話しているつもりかと。


 ミカは言い返さない。


 言い返すより、骨札の紐を替える方が大事だったからだ。


 地は、怒ってからでは遅い。


 水と違い、流れているところが見えない。


 火と違い、煙が上がるとは限らない。


 風と違い、頬で受ければ分かるものでもない。


 来る時は、下から来る。


 足の裏から、腹の底へ来る。


 そして、逃げ遅れた者を、まとめて噛む。


 だから、匂い番はいつも笑われる。


 何も起きなければ、騒ぎすぎだと言われる。


 何か起きれば、なぜもっと早く言わなかったと言われる。


 そういう仕事である。


     *


 ミカは、干し肉小屋を出て、井戸へ走った。


 井戸桶の水面を見る。


 丸い輪が、三つ。


 一つ目は大きい。


 二つ目は小さい。


 三つ目は、北東へ寄っている。


 風は南から吹いている。


 なのに、水の輪は北東へ寄る。


 ミカの耳が、ぴくりと動いた。


 遠くで、低い音がした。


 雷ではない。


 荷車でもない。


 山崩れでもない。


 もっと平たい音。


 大きな石臼を、地面の下で誰かが回しているような音。


 ごう。


 ごう。


 ごう。


 間隔は長い。


 だが、一定ではない。


 近づいている。


 ミカは井戸の横に膝をつき、地面へ手を当てた。


 指の腹。


 爪の根元。


 手首。


 肘。


 そこへ、細い震えが上がってくる。


 ミカは数えた。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


 ごう。


 次。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 ごう。


 縮んでいる。


 ミカは立ち上がり、鳴子札を引いた。


 からん。


 からん。


 からん。


 里の者が振り向いた。


 干し場の女たちが手を止める。


 鍛冶場の槌が止まる。


 子どもたちが耳を立てる。


 ミカは腹の底から声を出した。


「地鳴りです!」


 広場に沈黙が落ちた。


 次の瞬間、若い戦士の一人が笑った。


「またか、ミカ」


 牙飾りをつけた青年、ラグである。


 狩りでは強い。


 足も速い。


 だが、強い者ほど、地面が相手ではないことを忘れる。


「昨日も骨札が鳴ったと言って、干し肉を下ろしただろう。何も来なかった」


「昨日のは風穴の詰まりです。もう直しました」


「今日は?」


「下から来ています」


「何が」


 ミカは答える前に、足裏の震えをもう一度数えた。


 一。


 二。


 三。


 四。


 ごう。


 短くなっている。


 喉が乾いた。


「カイジュウです」


 その言葉で、広場の空気が変わった。


 カイジュウ。


 王立学術院の分類帳では、大型モンスターと書かれる。


 だが、獣人の里ではそう呼ばない。


 あれは獣ではない。


 狩るものではない。


 倒すものではない。


 名誉になるものでもない。


 カイジュウは、災いである。


 地震。


 津波。


 噴火。


 暴風。


 天と地が、形を持って通るもの。


 剣で斬れる相手ではない。


 牙を立てる相手でもない。


 来たら、逃げる。


 通り過ぎるまで、死なない場所にいる。


 それだけだ。


 だが、ラグは槍を持ち直した。


「地のカイジュウか」


「はい」


「見えたのか」


「まだです」


「なら、なぜ分かる」


「塩壺が北東へ寄りました。井戸の輪も北東です。骨札はまだ鳴っていませんが、床板が長く震えています。音の間隔も縮んでいます」


「難しいことを言うな」


「地が近づいています」


「地は最初から下にある」


 誰かが笑った。


 笑いはすぐ消えた。


 遠くで、また音がしたからだ。


 ごう。


 今度は、全員に聞こえた。


 子どもの一人が泣き出した。


 毛皮干し場の老婆が、耳を伏せた。


 鍛冶場の炉の灰が、ふっと沈んだ。


 ミカは声を張った。


「石屋根の家から出てください! 干し肉小屋、鍛冶場、井戸壁、穀倉、爪輪倉には入らないでください! 荷は捨てて、南の骨なし原へ!」


 骨なし原。


 里の南にある、低い草地である。


 岩が少ない。


 大木もない。


 古い穴も少ない。


 水場からは遠い。


 普段なら不便な場所だ。


 だが、地が暴れる時、そこがいちばん死ににくい。


 そう、古い匂い番の札には書かれている。


 長老穴から、白い尾の長老が出てきた。


「ミカ」


「骨なし原へ。今すぐです」


「確かか」


「近づいています」


「どのくらい」


 ミカは耳を伏せ、地面を踏んだ。


 震えはもう、足裏だけでなく膝に届いている。


 一。


 二。


 三。


 ごう。


「半刻ありません」


 広場がざわめいた。


「半刻もないだと」


「干し肉は」


「毛皮はどうする」


「鍛冶場の火を落とせ!」


「子どもを集めろ!」


「爪輪倉の鍵は誰が」


 声が重なる。


 獣人は耳がいい。


 だから、混乱すると、声が多すぎてかえって何も聞こえなくなる。


 ミカは鳴子札をもう一度鳴らした。


 からん。


 からん。


 からん。


「持つものは三つだけ!」


 声を切る。


 短く。


 匂い番の避難声は、歌ではない。


 命令でもない。


 耳に刺すための音である。


「子ども!」


「水袋!」


「火種!」


 ミカは指を三本立てた。


「それ以外は捨ててください!」


「干し肉は!」


「捨てます!」


「冬前だぞ!」


「死んだら冬は来ません!」


 自分でも驚くほど強い声が出た。


 広場が一瞬止まる。


 その隙に、長老が杖を振った。


「ミカの言う通りにしろ! 子ども、水袋、火種! 骨なし原へ!」


 ようやく人が動き出した。


 女たちは子どもを抱く。


 老人は水袋を渡される。


 鍛冶場の男たちは炉へ砂をかける。


 若い者たちは、干し肉小屋へ走ろうとして、ミカに止められる。


「干し肉は後です!」


「でも」


「小屋の梁が落ちます!」


「まだ落ちていない!」


「落ちてからでは遅い!」


 ラグがミカの前に立った。


「俺たち戦士は残る」


「何のために」


「里を守る」


「何から」


「カイジュウからだ」


「守れません」


 ラグの目が鋭くなった。


「戦う前から負けを言うのか」


「これは戦いではありません」


「地のカイジュウにも核があると聞いた。そこを突けば」


「誰に」


「旅の討伐屋だ」


「その人は、生きて帰りましたか」


 ラグは答えなかった。


 ミカは続けた。


「カイジュウは地震です。槍を立てる相手ではありません。足元が割れます。石屋根が落ちます。井戸壁が崩れます。炉が倒れます。あなたの槍が届く前に、道がなくなります」


「逃げるだけか」


「はい」


「獣人の誇りは」


「骨なし原に持っていってください」


 ラグが言葉に詰まった。


 ミカは彼の槍を見た。


「その槍で、老人を支えてください。子どもを運んでください。水袋を持ってください。今、強い者がする仕事は、それです」


 ごう。


 地鳴りが、また近づいた。


 今度は、広場の土がはっきり揺れた。


 干し場の竿が鳴る。


 吊るした毛皮が一斉に震える。


 鍛冶場の壁に掛けた爪輪が、しゃらしゃらと鳴った。


 ラグの顔から血の気が引いた。


 彼は槍を背負い直し、近くにいた老人を抱え上げた。


「骨なし原へ!」


 その声はよく通った。


 戦士の声である。


 混乱していた若者たちが、ようやく動いた。


     *


 避難は、整っているようで、整っていなかった。


 子どもを探す母。


 母を探す子ども。


 水袋を取りに戻ろうとする老人。


 毛皮を背負おうとする娘。


 炉の火を気にする鍛冶師。


 鍵束を持ったまま震える倉番。


 そして、どうしても荷を捨てられない者。


「これは嫁入り毛皮なんだ!」


 若い女が、重い毛皮包みを抱えていた。


「置いてください」


「一生に一度のものなの!」


「命も一度です」


「ひどいことを言わないで!」


 女は泣いていた。


 ミカは、毛皮包みの紐を見た。


 立派な紐。


 重い染め皮。


 水を吸えば、さらに重くなる。


 揺れれば転ぶ。


 転べば、後ろが詰まる。


 ミカは包みを奪わなかった。


 代わりに、短刀で紐を切った。


 女が悲鳴を上げる。


 毛皮が地面へ落ちた。


「何をするの!」


「あなたを運びます」


「返して!」


「骨なし原で生きていたら、拾いに戻れます」


「盗まれたら!」


「盗む者も逃げています!」


 女は泣きながら、しかし包みを拾わなかった。


 ミカは彼女の手を引いた。


 次の角で、子ども穴から泣き声がした。


「まだいます!」


 ミカは耳を伏せる。


 子ども穴は、里の北側。


 浅い遊び穴だが、入り口に石枠がある。


 地が揺れれば、すぐ塞がる。


「誰か!」


 ミカが叫ぶより早く、ラグが走った。


「俺が行く!」


「一人ではだめです! 紐!」


 ミカは骨札台の避難紐を投げた。


 若者二人に端を持たせる。


「三十数えたら引いて! 出てこなくても引いて!」


「出てこなかったら?」


「引いて!」


 ラグは文句を言わなかった。


 子ども穴へ飛び込む。


 ミカは数えた。


 一。


 二。


 三。


 地鳴り。


 四。


 五。


 土が震える。


 六。


 七。


 子どもの泣き声。


 八。


 九。


 ラグの怒鳴り声。


 十。


 十一。


 遠くで、何かが折れる音。


 十二。


 十三。


 ごう。


 今度は近い。


 腹の内側を撫でられるような震え。


 十四。


 十五。


 ミカの毛が逆立つ。


 十六。


 十七。


 十八。


 穴から子どもが一人押し出された。


 十九。


 二十。


 もう一人。


 二十一。


 二十二。


 二十三。


 ラグが出てこない。


 二十四。


「引いて!」


 若者たちが紐を引く。


 中からラグの声。


「まだ一人!」


「引いて!」


 二十五。


 二十六。


 紐が重い。


 二十七。


 二十八。


 子どもがもう一人、土まみれで出てきた。


 二十九。


 ラグの腕。


 三十。


 その瞬間、子ども穴の石枠が落ちた。


 どん、と鈍い音。


 土煙。


 ラグは半身を外へ出したところだった。


 若者たちが紐を引く。


 ミカも飛びつく。


 ラグの肩が石に擦れ、血が滲む。


 だが、抜けた。


 子ども穴は、そのすぐ後に潰れた。


 子どもたちは泣いている。


 ラグは咳き込みながら笑った。


「三十は短いな」


「長いくらいです」


 ミカは彼の肩を見た。


「走れますか」


「走る」


「なら、走ってください」


 ごう。


 今度の音は、もう遠くではなかった。


 里の北東の森が、ざわりと揺れた。


 風ではない。


 木々が、根元から順番に震えている。


 鳥が飛び立つ。


 いや、飛び立つというより、空へ投げ出されたように見えた。


 地面の下を、何か大きなものが通っている。


 見えない。


 だが、確実に近づいている。


 逃げても逃げても、背中の下から追ってくる。


 ミカは、初めて恐怖を声にしそうになった。


 飲み込んだ。


 匂い番が叫び崩れれば、里は止まる。


 止まれば、地が噛む。


     *


 骨なし原までの道は、普段なら短い。


 子どもでも駆ければすぐ着く。


 だが、その日は遠かった。


 道の途中、穀倉の横を通る。


 穀倉は石積みだ。


 古い。


 重い。


 崩れれば道を塞ぐ。


「穀倉から離れて!」


 ミカは叫んだ。


 だが、一人の男が穀倉へ走った。


「種袋だけ!」


「戻って!」


「春の種だ!」


 男の言うことは正しい。


 種がなければ春が死ぬ。


 でも、今戻れば男が死ぬ。


 ミカは走った。


 間に合わない。


 その時、ラグが男を横から突き飛ばした。


 男が転ぶ。


 ラグも転ぶ。


 直後、穀倉の壁が鳴った。


 石の間から、白い粉が噴く。


 ひびが走る。


 重い音を立てて、壁の一部が道へ崩れた。


 種袋は石の下になった。


 男は呆然とした顔でそれを見る。


「種が」


「生きていれば、借りに行けます!」


 ミカは男の腕を引いた。


「死んだら、借りにも行けません!」


 男は泣きながら走った。


 背後で、穀倉の残りが崩れる。


 土煙が追ってくる。


 獣人たちは走る。


 子どもを抱えて。


 老人を背負って。


 水袋を抱えて。


 火種壺を守って。


 尾を伏せ、耳を伏せ、牙を噛みしめて。


 骨なし原の草が見えた。


 広い。


 何もない。


 隠れる場所もない。


 それが、今は救いだった。


「中央へ! 木から離れて! 固まらないで! 家族ごとに膝をついて!」


 ミカは叫び続けた。


「立っていると倒れます! 子どもを腹の下へ! 水袋を抱いて! 火種壺は土へ半分埋めて!」


 誰かが言われた通りにする。


 誰かが泣く。


 誰かが祈る。


 誰かが里の方を見て、動けなくなる。


 ミカも見た。


 見てしまった。


 北東の森が、波打っていた。


 地面が波のように上下している。


 木が一本、音もなく傾く。


 次の瞬間、根ごと跳ね上がる。


 森の下を、見えない獣が走っているようだった。


 いや、獣ではない。


 地そのものが、背骨を震わせて近づいている。


 カイジュウ。


 地震のカイジュウ。


 姿はない。


 だが、確かにいる。


 大地の下に。


 里の下に。


 今、こちらへ。


 ごう。


 音が、腹の中で鳴った。


 骨なし原の草が、一斉に伏せる。


 地面が持ち上がる。


 ミカは膝をついた。


 世界が横にずれた。


 誰かの悲鳴。


 水袋が転がる。


 火種壺が跳ねる。


 子どもが泣く。


 ラグが老人を抱えて伏せる。


 長老が杖を手放す。


 ミカは地面に爪を立てた。


 爪の間に土が入る。


 足裏の毛が土を掴む。


 体が浮きそうになる。


 地が、下から殴ってくる。


 骨なし原でこれなら、里は。


 ミカは里を見た。


 見たくなかった。


 でも、見た。


 干し肉小屋の屋根が落ちた。


 鍛冶場の煙突が折れた。


 穀倉が沈む。


 井戸壁が崩れる。


 毛皮干し場の竿が折れ、毛皮が空へ舞った。


 長老穴の石口がずれた。


 子ども穴は完全に潰れた。


 もし、あそこにまだ子どもがいたら。


 もし、干し肉を取りに戻っていたら。


 もし、毛皮包みを背負っていたら。


 もし、種袋の下敷きになっていたら。


 考えるな。


 今は数えろ。


 ミカは歯を食いしばった。


 揺れの間隔。


 強さ。


 方向。


 一。


 二。


 三。


 強い。


 一。


 二。


 少し弱い。


 一。


 また強い。


 まだ終わらない。


「頭を上げないで!」


 ミカは叫んだ。


「まだです!」


「もう過ぎた!」


 誰かが立とうとする。


「まだ!」


 その直後、二度目の揺れが来た。


 最初より短い。


 だが鋭い。


 立ちかけた男が転ぶ。


 ラグが引き倒して伏せさせる。


 骨なし原の端で、地面が割れた。


 細い割れ目。


 そこから、冷たい土の匂いが噴いた。


 ミカの鼻が焼けるように痛んだ。


 深い土。


 鉄の匂い。


 古い水。


 カイジュウの息だと思った。


 姿はない。


 目もない。


 牙もない。


 それでも、息だけが地の割れ目から上がってくる。


 ごう。


 音が、南西へ抜けていく。


 遠ざかっている。


 ミカはまだ動かなかった。


 遠ざかったように聞こえて、戻ることがある。


 地は一度では済まない。


 匂い番の札に、そう書かれている。


 数えろ。


 終わったと思うな。


 ミカは数えた。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


 七。


 八。


 揺れは弱い。


 九。


 十。


 長い。


 十一。


 十二。


 遠い。


 十三。


 十四。


 小さい。


 十五。


 十六。


 ミカはようやく息を吐いた。


「まだ立たないで」


 声がかすれていた。


「でも、顔は上げていいです」


 獣人たちが、ゆっくり顔を上げた。


 誰もすぐには喋らなかった。


 骨なし原の草は倒れている。


 火種壺は、土に半分埋まって無事だった。


 水袋はいくつか破れたが、全部ではない。


 子どもは泣いている。


 老人も泣いている。


 ラグは肩から血を流している。


 長老は杖をなくし、地面に座り込んでいる。


 里は、半分崩れていた。


 けれど、骨なし原にいる者は、生きていた。


 全員か。


 ミカは立ち上がった。


 膝が震える。


 でも、数えなければならない。


 匂い番の仕事は、逃げろで終わらない。


 通り過ぎた後、誰がいるかを数える。


 誰がいないかを数える。


 戻ってよい道を決める。


 戻ってはいけない場所に札を立てる。


「家族ごとに返事!」


 ミカは声を張った。


「一組ずつ!」


 返事が始まった。


 名が呼ばれる。


 いる。


 いる。


 いる。


 いない。


 ひとつ、声が止まる。


 ミカの胸が冷えた。


「誰ですか」


「婆のナナが」


 病み足の老婆。


 避難の時、誰が背負った。


 ミカが見回す。


 ラグが首を振る。


 長老が顔を伏せる。


 その時、骨なし原の端で声がした。


「ここだよ」


 老婆ナナは、草の中に転がっていた。


 背負っていた若者ごと倒れ、草に埋もれていたのだ。


 生きている。


 広場に、泣き笑いのような声が広がった。


 ミカはまた数えた。


 今度は、全員いた。


 全員。


 その言葉が、すぐには信じられなかった。


     *


 日が傾くまで、誰も里へ戻らなかった。


 ミカが止めたからである。


「まだ余震があります」


「荷を取りに」


「だめです」


「火を見に」


「だめです」


「家族の寝床を」


「だめです」


「何ならいいんだ!」


「生きていることです!」


 怒鳴った後、ミカは自分の声に驚いた。


 周りも驚いていた。


 だが、誰も逆らわなかった。


 カイジュウが通った後では、強い言葉より、正しい手順の方が強い。


 夕方、揺れが小さくなってから、ミカはラグと若者数人を連れて里へ戻った。


 全員ではない。


 戻る道も一つだけ。


 井戸には近づかない。


 鍛冶場にも近づかない。


 穀倉は封鎖。


 子ども穴は封鎖。


 干し肉小屋は、梁が落ちているので入らない。


 火種は骨なし原にある。


 水は南の浅流れから取る。


 今夜は骨なし原で寝る。


 そう決めた。


 ラグは何も言わずに札を立てた。


 危険。


 入るな。


 戻るな。


 戦士の手で、逃げるための札が立てられていく。


 それを見て、ミカは少しだけ胸が詰まった。


 里の中は、土の匂いでいっぱいだった。


 深い土。


 割れた地面。


 崩れた石。


 こぼれた塩。


 干し肉小屋の床には、あの塩壺が倒れていた。


 白い粒が、床一面に散っている。


 ミカは壺を起こした。


 中身はほとんど失われていた。


 だが、壺は割れていない。


 ミカはそれを抱えた。


「何を持っていく」


 ラグが聞いた。


「塩壺です」


「塩はないぞ」


「次に見るためです」


 ラグは黙った。


 それから、短く言った。


「俺にも見方を教えろ」


 ミカは彼を見た。


 肩に血。


 泥だらけの毛。


 折れた牙飾り。


 槍は背にある。


 だが、彼はもう槍で地を突こうとはしていなかった。


「塩だけでは分かりません」


「なら、全部だ」


「時間がかかります」


「次が来る前に、少しでも」


 ミカは頷いた。


「では、まず覚えてください」


「何を」


「地鳴りは、戦う相手ではありません」


 ラグは、里の崩れた景色を見た。


 それから、低く答えた。


「分かった」


     *


 その夜、骨なし原に小さな火が並んだ。


 火種壺は無事だった。


 水は少ない。


 食べ物も少ない。


 干し肉は多くを失った。


 毛皮も、種袋も、爪輪も、いくつも土の下になった。


 明日からが大変だ。


 家を直さなければならない。


 井戸を掘り直さなければならない。


 穀倉を片づけなければならない。


 冬の食べ物を数え直さなければならない。


 でも、数える者が生きている。


 運ぶ者が生きている。


 掘る者が生きている。


 叱る者も、泣く者も、怒る者も、生きている。


 骨なし原の中央で、長老が言った。


「ミカ」


 里の者たちが、こちらを見た。


 ミカは身構えた。


 また、なぜもっと早く言わなかったのかと言われるのかと思った。


 あるいは、なぜ干し肉を捨てさせたのかと。


 毛皮を切ったことを責められるのかと。


 種袋を諦めさせたことを。


 だが、長老は深く頭を下げた。


「生かした」


 その言葉で、ミカの膝から力が抜けそうになった。


 ラグも頭を下げた。


「俺は、カイジュウを相手だと思っていた」


 彼は言った。


「違った」


 ミカは首を振った。


「わたしも怖かったです」


「怖くても、鳴子を鳴らした」


「塩壺が先です」


 そう言うと、何人かが小さく笑った。


 笑える者がいる。


 そのことが、ありがたかった。


 遠くで、まだ地が鳴っていた。


 ごう。


 ごう。


 南西へ去っていく音。


 完全に消えたわけではない。


 あれはまた来る。


 明日かもしれない。


 十年後かもしれない。


 別の里かもしれない。


 同じ場所かもしれない。


 カイジュウは、恨んで来るのではない。


 腹を空かせて来るのでもない。


 誰かを罰しに来るのでもない。


 ただ、来る。


 地震のように。


 地の下から。


 確実に。


 近づいていると分かった時には、もう迷っている時間はない。


 ミカは、抱えた塩壺を火のそばに置いた。


 白い粒は、もうほとんど残っていない。


 それでも、次の震えを拾うには足りる。


 匂い番の仕事は、里を勇敢にすることではない。


 逃げるべき時に、逃げろと言うことだ。


 捨てるべき物を、捨てろと言うことだ。


 生きていれば拾えるものと、死んだら拾えないものを分けることだ。


 ミカは空を見た。


 骨なし原の上には、邪魔する屋根がない。


 星が見える。


 その下で、里の者たちは身を寄せ合っている。


 家は壊れた。


 倉も壊れた。


 井戸も崩れた。


 でも、声は残っている。


 名を呼べば、返事がある。


 それだけで、今夜は足りる。


 ミカは、鳴子札を膝の上に置いた。


 もう鳴らさなくていいことを、祈りはしない。


 祈っても、地は止まらない。


 ただ、次に鳴らす時、誰も笑わずに走れるように。


 そのための札を、明日から作る。


 干し肉小屋の床に、塩壺を置く。


 井戸桶の輪を見る。


 骨札の紐を替える。


 子ども穴に石枠を使わない。


 穀倉の横を避難路にしない。


 骨なし原までの道に、赤い爪跡を刻む。


 戦士には、老人を担ぐ順を教える。


 子どもには、持つもの三つを覚えさせる。


 子ども。


 水袋。


 火種。


 それ以外は、捨てる。


 討伐依頼ではありません。


 ただ、地鳴りが近づいているだけです。


 だから、逃げます。


 逃げて、生きて、通り過ぎたあとに、また数えます。


 誰がいるか。


 誰がいないか。


 何を失ったか。


 何を拾えるか。


 次にどこへ逃げるか。


 カイジュウは、また来る。


 けれど、こちらもまた、耳を伏せ、足裏で地を読み、塩の震えを見て、鳴子を鳴らす。


 戦うためではない。


 生き残るために。


 獣人オブ・ラグナロク。

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