討伐依頼ではありません。ただ、地鳴りが近づいているだけです 【十五文化圏周縁抄 獣人オブ・ラグナロク】
最初に気づいたのは、犬ではなかった。
鳥でもない。
井戸でもない。
獣人の里で、地鳴りに最初に気づいたのは、干し肉小屋の床に置いてあった、塩壺だった。
塩壺の縁に、白い粒が一列、震えていた。
ぱら。
ぱら。
ぱら。
音は小さい。
外では、毛皮を干す女たちが笑っている。
子どもたちは尾を立てて走り回っている。
鍛冶場では、蹄鉄ならぬ爪輪の修理に、鉄槌が鳴っている。
普段なら、誰も気にしない音だった。
けれど、ミカは塩壺を見たまま、息を止めた。
白い粒が、同じ向きへ寄っている。
床板の隙間から、細い土の匂いが上がっていた。
湿った土ではない。
雨前の土でもない。
穴熊が掘り返した土でもない。
もっと深い。
冷たく、古く、鉄を噛んだような匂い。
地の底が、こちらへ鼻先を向けた時の匂いだった。
ミカは、腰に下げた鳴子札を握った。
鳴らすには、まだ早い。
そう思いたかった。
けれど、足裏が先に答えを出していた。
床が、震えている。
小さく。
長く。
こちらへ向かって。
*
獣人の第九文化圏では、地を読む者を「匂い番」と呼ぶ。
鼻がいいからではない。
耳がいいからでもない。
もちろん、それもある。
だが本当に見るのは、匂いだけではなかった。
干し肉の脂がどちらへ曇るか。
井戸桶の水面がどんな輪を作るか。
犬の尻尾が何度下がるか。
鶏の足が横木を掴む強さ。
吊るした骨札が、風もないのに鳴る向き。
地面に座った子どもが、急に立ち上がる時の顔。
そういうものを全部まとめて、地の機嫌を読む。
ミカは、里の匂い番だった。
狩人ではない。
戦士でもない。
長老でもない。
勇者でもない。
ただ、里の端にある干し肉小屋、井戸、燻し場、毛皮干し場、子ども穴、骨札台を見て回る係だった。
若い戦士たちは、匂い番を少し馬鹿にしている。
鼻を鳴らして歩くだけの仕事だと。
地面に耳をつけて、土と話しているつもりかと。
ミカは言い返さない。
言い返すより、骨札の紐を替える方が大事だったからだ。
地は、怒ってからでは遅い。
水と違い、流れているところが見えない。
火と違い、煙が上がるとは限らない。
風と違い、頬で受ければ分かるものでもない。
来る時は、下から来る。
足の裏から、腹の底へ来る。
そして、逃げ遅れた者を、まとめて噛む。
だから、匂い番はいつも笑われる。
何も起きなければ、騒ぎすぎだと言われる。
何か起きれば、なぜもっと早く言わなかったと言われる。
そういう仕事である。
*
ミカは、干し肉小屋を出て、井戸へ走った。
井戸桶の水面を見る。
丸い輪が、三つ。
一つ目は大きい。
二つ目は小さい。
三つ目は、北東へ寄っている。
風は南から吹いている。
なのに、水の輪は北東へ寄る。
ミカの耳が、ぴくりと動いた。
遠くで、低い音がした。
雷ではない。
荷車でもない。
山崩れでもない。
もっと平たい音。
大きな石臼を、地面の下で誰かが回しているような音。
ごう。
ごう。
ごう。
間隔は長い。
だが、一定ではない。
近づいている。
ミカは井戸の横に膝をつき、地面へ手を当てた。
指の腹。
爪の根元。
手首。
肘。
そこへ、細い震えが上がってくる。
ミカは数えた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
ごう。
次。
一。
二。
三。
四。
五。
ごう。
縮んでいる。
ミカは立ち上がり、鳴子札を引いた。
からん。
からん。
からん。
里の者が振り向いた。
干し場の女たちが手を止める。
鍛冶場の槌が止まる。
子どもたちが耳を立てる。
ミカは腹の底から声を出した。
「地鳴りです!」
広場に沈黙が落ちた。
次の瞬間、若い戦士の一人が笑った。
「またか、ミカ」
牙飾りをつけた青年、ラグである。
狩りでは強い。
足も速い。
だが、強い者ほど、地面が相手ではないことを忘れる。
「昨日も骨札が鳴ったと言って、干し肉を下ろしただろう。何も来なかった」
「昨日のは風穴の詰まりです。もう直しました」
「今日は?」
「下から来ています」
「何が」
ミカは答える前に、足裏の震えをもう一度数えた。
一。
二。
三。
四。
ごう。
短くなっている。
喉が乾いた。
「カイジュウです」
その言葉で、広場の空気が変わった。
カイジュウ。
王立学術院の分類帳では、大型モンスターと書かれる。
だが、獣人の里ではそう呼ばない。
あれは獣ではない。
狩るものではない。
倒すものではない。
名誉になるものでもない。
カイジュウは、災いである。
地震。
津波。
噴火。
暴風。
天と地が、形を持って通るもの。
剣で斬れる相手ではない。
牙を立てる相手でもない。
来たら、逃げる。
通り過ぎるまで、死なない場所にいる。
それだけだ。
だが、ラグは槍を持ち直した。
「地のカイジュウか」
「はい」
「見えたのか」
「まだです」
「なら、なぜ分かる」
「塩壺が北東へ寄りました。井戸の輪も北東です。骨札はまだ鳴っていませんが、床板が長く震えています。音の間隔も縮んでいます」
「難しいことを言うな」
「地が近づいています」
「地は最初から下にある」
誰かが笑った。
笑いはすぐ消えた。
遠くで、また音がしたからだ。
ごう。
今度は、全員に聞こえた。
子どもの一人が泣き出した。
毛皮干し場の老婆が、耳を伏せた。
鍛冶場の炉の灰が、ふっと沈んだ。
ミカは声を張った。
「石屋根の家から出てください! 干し肉小屋、鍛冶場、井戸壁、穀倉、爪輪倉には入らないでください! 荷は捨てて、南の骨なし原へ!」
骨なし原。
里の南にある、低い草地である。
岩が少ない。
大木もない。
古い穴も少ない。
水場からは遠い。
普段なら不便な場所だ。
だが、地が暴れる時、そこがいちばん死ににくい。
そう、古い匂い番の札には書かれている。
長老穴から、白い尾の長老が出てきた。
「ミカ」
「骨なし原へ。今すぐです」
「確かか」
「近づいています」
「どのくらい」
ミカは耳を伏せ、地面を踏んだ。
震えはもう、足裏だけでなく膝に届いている。
一。
二。
三。
ごう。
「半刻ありません」
広場がざわめいた。
「半刻もないだと」
「干し肉は」
「毛皮はどうする」
「鍛冶場の火を落とせ!」
「子どもを集めろ!」
「爪輪倉の鍵は誰が」
声が重なる。
獣人は耳がいい。
だから、混乱すると、声が多すぎてかえって何も聞こえなくなる。
ミカは鳴子札をもう一度鳴らした。
からん。
からん。
からん。
「持つものは三つだけ!」
声を切る。
短く。
匂い番の避難声は、歌ではない。
命令でもない。
耳に刺すための音である。
「子ども!」
「水袋!」
「火種!」
ミカは指を三本立てた。
「それ以外は捨ててください!」
「干し肉は!」
「捨てます!」
「冬前だぞ!」
「死んだら冬は来ません!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
広場が一瞬止まる。
その隙に、長老が杖を振った。
「ミカの言う通りにしろ! 子ども、水袋、火種! 骨なし原へ!」
ようやく人が動き出した。
女たちは子どもを抱く。
老人は水袋を渡される。
鍛冶場の男たちは炉へ砂をかける。
若い者たちは、干し肉小屋へ走ろうとして、ミカに止められる。
「干し肉は後です!」
「でも」
「小屋の梁が落ちます!」
「まだ落ちていない!」
「落ちてからでは遅い!」
ラグがミカの前に立った。
「俺たち戦士は残る」
「何のために」
「里を守る」
「何から」
「カイジュウからだ」
「守れません」
ラグの目が鋭くなった。
「戦う前から負けを言うのか」
「これは戦いではありません」
「地のカイジュウにも核があると聞いた。そこを突けば」
「誰に」
「旅の討伐屋だ」
「その人は、生きて帰りましたか」
ラグは答えなかった。
ミカは続けた。
「カイジュウは地震です。槍を立てる相手ではありません。足元が割れます。石屋根が落ちます。井戸壁が崩れます。炉が倒れます。あなたの槍が届く前に、道がなくなります」
「逃げるだけか」
「はい」
「獣人の誇りは」
「骨なし原に持っていってください」
ラグが言葉に詰まった。
ミカは彼の槍を見た。
「その槍で、老人を支えてください。子どもを運んでください。水袋を持ってください。今、強い者がする仕事は、それです」
ごう。
地鳴りが、また近づいた。
今度は、広場の土がはっきり揺れた。
干し場の竿が鳴る。
吊るした毛皮が一斉に震える。
鍛冶場の壁に掛けた爪輪が、しゃらしゃらと鳴った。
ラグの顔から血の気が引いた。
彼は槍を背負い直し、近くにいた老人を抱え上げた。
「骨なし原へ!」
その声はよく通った。
戦士の声である。
混乱していた若者たちが、ようやく動いた。
*
避難は、整っているようで、整っていなかった。
子どもを探す母。
母を探す子ども。
水袋を取りに戻ろうとする老人。
毛皮を背負おうとする娘。
炉の火を気にする鍛冶師。
鍵束を持ったまま震える倉番。
そして、どうしても荷を捨てられない者。
「これは嫁入り毛皮なんだ!」
若い女が、重い毛皮包みを抱えていた。
「置いてください」
「一生に一度のものなの!」
「命も一度です」
「ひどいことを言わないで!」
女は泣いていた。
ミカは、毛皮包みの紐を見た。
立派な紐。
重い染め皮。
水を吸えば、さらに重くなる。
揺れれば転ぶ。
転べば、後ろが詰まる。
ミカは包みを奪わなかった。
代わりに、短刀で紐を切った。
女が悲鳴を上げる。
毛皮が地面へ落ちた。
「何をするの!」
「あなたを運びます」
「返して!」
「骨なし原で生きていたら、拾いに戻れます」
「盗まれたら!」
「盗む者も逃げています!」
女は泣きながら、しかし包みを拾わなかった。
ミカは彼女の手を引いた。
次の角で、子ども穴から泣き声がした。
「まだいます!」
ミカは耳を伏せる。
子ども穴は、里の北側。
浅い遊び穴だが、入り口に石枠がある。
地が揺れれば、すぐ塞がる。
「誰か!」
ミカが叫ぶより早く、ラグが走った。
「俺が行く!」
「一人ではだめです! 紐!」
ミカは骨札台の避難紐を投げた。
若者二人に端を持たせる。
「三十数えたら引いて! 出てこなくても引いて!」
「出てこなかったら?」
「引いて!」
ラグは文句を言わなかった。
子ども穴へ飛び込む。
ミカは数えた。
一。
二。
三。
地鳴り。
四。
五。
土が震える。
六。
七。
子どもの泣き声。
八。
九。
ラグの怒鳴り声。
十。
十一。
遠くで、何かが折れる音。
十二。
十三。
ごう。
今度は近い。
腹の内側を撫でられるような震え。
十四。
十五。
ミカの毛が逆立つ。
十六。
十七。
十八。
穴から子どもが一人押し出された。
十九。
二十。
もう一人。
二十一。
二十二。
二十三。
ラグが出てこない。
二十四。
「引いて!」
若者たちが紐を引く。
中からラグの声。
「まだ一人!」
「引いて!」
二十五。
二十六。
紐が重い。
二十七。
二十八。
子どもがもう一人、土まみれで出てきた。
二十九。
ラグの腕。
三十。
その瞬間、子ども穴の石枠が落ちた。
どん、と鈍い音。
土煙。
ラグは半身を外へ出したところだった。
若者たちが紐を引く。
ミカも飛びつく。
ラグの肩が石に擦れ、血が滲む。
だが、抜けた。
子ども穴は、そのすぐ後に潰れた。
子どもたちは泣いている。
ラグは咳き込みながら笑った。
「三十は短いな」
「長いくらいです」
ミカは彼の肩を見た。
「走れますか」
「走る」
「なら、走ってください」
ごう。
今度の音は、もう遠くではなかった。
里の北東の森が、ざわりと揺れた。
風ではない。
木々が、根元から順番に震えている。
鳥が飛び立つ。
いや、飛び立つというより、空へ投げ出されたように見えた。
地面の下を、何か大きなものが通っている。
見えない。
だが、確実に近づいている。
逃げても逃げても、背中の下から追ってくる。
ミカは、初めて恐怖を声にしそうになった。
飲み込んだ。
匂い番が叫び崩れれば、里は止まる。
止まれば、地が噛む。
*
骨なし原までの道は、普段なら短い。
子どもでも駆ければすぐ着く。
だが、その日は遠かった。
道の途中、穀倉の横を通る。
穀倉は石積みだ。
古い。
重い。
崩れれば道を塞ぐ。
「穀倉から離れて!」
ミカは叫んだ。
だが、一人の男が穀倉へ走った。
「種袋だけ!」
「戻って!」
「春の種だ!」
男の言うことは正しい。
種がなければ春が死ぬ。
でも、今戻れば男が死ぬ。
ミカは走った。
間に合わない。
その時、ラグが男を横から突き飛ばした。
男が転ぶ。
ラグも転ぶ。
直後、穀倉の壁が鳴った。
石の間から、白い粉が噴く。
ひびが走る。
重い音を立てて、壁の一部が道へ崩れた。
種袋は石の下になった。
男は呆然とした顔でそれを見る。
「種が」
「生きていれば、借りに行けます!」
ミカは男の腕を引いた。
「死んだら、借りにも行けません!」
男は泣きながら走った。
背後で、穀倉の残りが崩れる。
土煙が追ってくる。
獣人たちは走る。
子どもを抱えて。
老人を背負って。
水袋を抱えて。
火種壺を守って。
尾を伏せ、耳を伏せ、牙を噛みしめて。
骨なし原の草が見えた。
広い。
何もない。
隠れる場所もない。
それが、今は救いだった。
「中央へ! 木から離れて! 固まらないで! 家族ごとに膝をついて!」
ミカは叫び続けた。
「立っていると倒れます! 子どもを腹の下へ! 水袋を抱いて! 火種壺は土へ半分埋めて!」
誰かが言われた通りにする。
誰かが泣く。
誰かが祈る。
誰かが里の方を見て、動けなくなる。
ミカも見た。
見てしまった。
北東の森が、波打っていた。
地面が波のように上下している。
木が一本、音もなく傾く。
次の瞬間、根ごと跳ね上がる。
森の下を、見えない獣が走っているようだった。
いや、獣ではない。
地そのものが、背骨を震わせて近づいている。
カイジュウ。
地震のカイジュウ。
姿はない。
だが、確かにいる。
大地の下に。
里の下に。
今、こちらへ。
ごう。
音が、腹の中で鳴った。
骨なし原の草が、一斉に伏せる。
地面が持ち上がる。
ミカは膝をついた。
世界が横にずれた。
誰かの悲鳴。
水袋が転がる。
火種壺が跳ねる。
子どもが泣く。
ラグが老人を抱えて伏せる。
長老が杖を手放す。
ミカは地面に爪を立てた。
爪の間に土が入る。
足裏の毛が土を掴む。
体が浮きそうになる。
地が、下から殴ってくる。
骨なし原でこれなら、里は。
ミカは里を見た。
見たくなかった。
でも、見た。
干し肉小屋の屋根が落ちた。
鍛冶場の煙突が折れた。
穀倉が沈む。
井戸壁が崩れる。
毛皮干し場の竿が折れ、毛皮が空へ舞った。
長老穴の石口がずれた。
子ども穴は完全に潰れた。
もし、あそこにまだ子どもがいたら。
もし、干し肉を取りに戻っていたら。
もし、毛皮包みを背負っていたら。
もし、種袋の下敷きになっていたら。
考えるな。
今は数えろ。
ミカは歯を食いしばった。
揺れの間隔。
強さ。
方向。
一。
二。
三。
強い。
一。
二。
少し弱い。
一。
また強い。
まだ終わらない。
「頭を上げないで!」
ミカは叫んだ。
「まだです!」
「もう過ぎた!」
誰かが立とうとする。
「まだ!」
その直後、二度目の揺れが来た。
最初より短い。
だが鋭い。
立ちかけた男が転ぶ。
ラグが引き倒して伏せさせる。
骨なし原の端で、地面が割れた。
細い割れ目。
そこから、冷たい土の匂いが噴いた。
ミカの鼻が焼けるように痛んだ。
深い土。
鉄の匂い。
古い水。
カイジュウの息だと思った。
姿はない。
目もない。
牙もない。
それでも、息だけが地の割れ目から上がってくる。
ごう。
音が、南西へ抜けていく。
遠ざかっている。
ミカはまだ動かなかった。
遠ざかったように聞こえて、戻ることがある。
地は一度では済まない。
匂い番の札に、そう書かれている。
数えろ。
終わったと思うな。
ミカは数えた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
揺れは弱い。
九。
十。
長い。
十一。
十二。
遠い。
十三。
十四。
小さい。
十五。
十六。
ミカはようやく息を吐いた。
「まだ立たないで」
声がかすれていた。
「でも、顔は上げていいです」
獣人たちが、ゆっくり顔を上げた。
誰もすぐには喋らなかった。
骨なし原の草は倒れている。
火種壺は、土に半分埋まって無事だった。
水袋はいくつか破れたが、全部ではない。
子どもは泣いている。
老人も泣いている。
ラグは肩から血を流している。
長老は杖をなくし、地面に座り込んでいる。
里は、半分崩れていた。
けれど、骨なし原にいる者は、生きていた。
全員か。
ミカは立ち上がった。
膝が震える。
でも、数えなければならない。
匂い番の仕事は、逃げろで終わらない。
通り過ぎた後、誰がいるかを数える。
誰がいないかを数える。
戻ってよい道を決める。
戻ってはいけない場所に札を立てる。
「家族ごとに返事!」
ミカは声を張った。
「一組ずつ!」
返事が始まった。
名が呼ばれる。
いる。
いる。
いる。
いない。
ひとつ、声が止まる。
ミカの胸が冷えた。
「誰ですか」
「婆のナナが」
病み足の老婆。
避難の時、誰が背負った。
ミカが見回す。
ラグが首を振る。
長老が顔を伏せる。
その時、骨なし原の端で声がした。
「ここだよ」
老婆ナナは、草の中に転がっていた。
背負っていた若者ごと倒れ、草に埋もれていたのだ。
生きている。
広場に、泣き笑いのような声が広がった。
ミカはまた数えた。
今度は、全員いた。
全員。
その言葉が、すぐには信じられなかった。
*
日が傾くまで、誰も里へ戻らなかった。
ミカが止めたからである。
「まだ余震があります」
「荷を取りに」
「だめです」
「火を見に」
「だめです」
「家族の寝床を」
「だめです」
「何ならいいんだ!」
「生きていることです!」
怒鳴った後、ミカは自分の声に驚いた。
周りも驚いていた。
だが、誰も逆らわなかった。
カイジュウが通った後では、強い言葉より、正しい手順の方が強い。
夕方、揺れが小さくなってから、ミカはラグと若者数人を連れて里へ戻った。
全員ではない。
戻る道も一つだけ。
井戸には近づかない。
鍛冶場にも近づかない。
穀倉は封鎖。
子ども穴は封鎖。
干し肉小屋は、梁が落ちているので入らない。
火種は骨なし原にある。
水は南の浅流れから取る。
今夜は骨なし原で寝る。
そう決めた。
ラグは何も言わずに札を立てた。
危険。
入るな。
戻るな。
戦士の手で、逃げるための札が立てられていく。
それを見て、ミカは少しだけ胸が詰まった。
里の中は、土の匂いでいっぱいだった。
深い土。
割れた地面。
崩れた石。
こぼれた塩。
干し肉小屋の床には、あの塩壺が倒れていた。
白い粒が、床一面に散っている。
ミカは壺を起こした。
中身はほとんど失われていた。
だが、壺は割れていない。
ミカはそれを抱えた。
「何を持っていく」
ラグが聞いた。
「塩壺です」
「塩はないぞ」
「次に見るためです」
ラグは黙った。
それから、短く言った。
「俺にも見方を教えろ」
ミカは彼を見た。
肩に血。
泥だらけの毛。
折れた牙飾り。
槍は背にある。
だが、彼はもう槍で地を突こうとはしていなかった。
「塩だけでは分かりません」
「なら、全部だ」
「時間がかかります」
「次が来る前に、少しでも」
ミカは頷いた。
「では、まず覚えてください」
「何を」
「地鳴りは、戦う相手ではありません」
ラグは、里の崩れた景色を見た。
それから、低く答えた。
「分かった」
*
その夜、骨なし原に小さな火が並んだ。
火種壺は無事だった。
水は少ない。
食べ物も少ない。
干し肉は多くを失った。
毛皮も、種袋も、爪輪も、いくつも土の下になった。
明日からが大変だ。
家を直さなければならない。
井戸を掘り直さなければならない。
穀倉を片づけなければならない。
冬の食べ物を数え直さなければならない。
でも、数える者が生きている。
運ぶ者が生きている。
掘る者が生きている。
叱る者も、泣く者も、怒る者も、生きている。
骨なし原の中央で、長老が言った。
「ミカ」
里の者たちが、こちらを見た。
ミカは身構えた。
また、なぜもっと早く言わなかったのかと言われるのかと思った。
あるいは、なぜ干し肉を捨てさせたのかと。
毛皮を切ったことを責められるのかと。
種袋を諦めさせたことを。
だが、長老は深く頭を下げた。
「生かした」
その言葉で、ミカの膝から力が抜けそうになった。
ラグも頭を下げた。
「俺は、カイジュウを相手だと思っていた」
彼は言った。
「違った」
ミカは首を振った。
「わたしも怖かったです」
「怖くても、鳴子を鳴らした」
「塩壺が先です」
そう言うと、何人かが小さく笑った。
笑える者がいる。
そのことが、ありがたかった。
遠くで、まだ地が鳴っていた。
ごう。
ごう。
南西へ去っていく音。
完全に消えたわけではない。
あれはまた来る。
明日かもしれない。
十年後かもしれない。
別の里かもしれない。
同じ場所かもしれない。
カイジュウは、恨んで来るのではない。
腹を空かせて来るのでもない。
誰かを罰しに来るのでもない。
ただ、来る。
地震のように。
地の下から。
確実に。
近づいていると分かった時には、もう迷っている時間はない。
ミカは、抱えた塩壺を火のそばに置いた。
白い粒は、もうほとんど残っていない。
それでも、次の震えを拾うには足りる。
匂い番の仕事は、里を勇敢にすることではない。
逃げるべき時に、逃げろと言うことだ。
捨てるべき物を、捨てろと言うことだ。
生きていれば拾えるものと、死んだら拾えないものを分けることだ。
ミカは空を見た。
骨なし原の上には、邪魔する屋根がない。
星が見える。
その下で、里の者たちは身を寄せ合っている。
家は壊れた。
倉も壊れた。
井戸も崩れた。
でも、声は残っている。
名を呼べば、返事がある。
それだけで、今夜は足りる。
ミカは、鳴子札を膝の上に置いた。
もう鳴らさなくていいことを、祈りはしない。
祈っても、地は止まらない。
ただ、次に鳴らす時、誰も笑わずに走れるように。
そのための札を、明日から作る。
干し肉小屋の床に、塩壺を置く。
井戸桶の輪を見る。
骨札の紐を替える。
子ども穴に石枠を使わない。
穀倉の横を避難路にしない。
骨なし原までの道に、赤い爪跡を刻む。
戦士には、老人を担ぐ順を教える。
子どもには、持つもの三つを覚えさせる。
子ども。
水袋。
火種。
それ以外は、捨てる。
討伐依頼ではありません。
ただ、地鳴りが近づいているだけです。
だから、逃げます。
逃げて、生きて、通り過ぎたあとに、また数えます。
誰がいるか。
誰がいないか。
何を失ったか。
何を拾えるか。
次にどこへ逃げるか。
カイジュウは、また来る。
けれど、こちらもまた、耳を伏せ、足裏で地を読み、塩の震えを見て、鳴子を鳴らす。
戦うためではない。
生き残るために。
獣人オブ・ラグナロク。




