楔山の麓
約束の日、僕は憂鬱な気持ちで自転車を漕ぎ、神崎家の前に来た。いくら昼間で、しかも幽霊さんが悪霊じゃなくても、怖いものは怖い。だが、なりふり構わず逃げ出したくなるほど怖くもないので、二人の誘いを断る踏ん切りも付かない。
こちらの気を知ってか知らずか、既に家の前にいた神崎君と菅原君は楽しそうに話している。
「おはよう菊池君」
菅原君が爽やかに挨拶する。
こちらに気づき、神崎君の肩にいる幽霊さんも手を振った。既に死んでいる人間は気楽なものだ。
「おはよう……」と、小さな声で挨拶を返す。
「なんか暗いね。どうしたの?」
神崎君が溜息をついて言う。
「どうせ怖いからだろ。まったく、なんでこんな雲一つ無い快晴で怖がってんだか。しかもまだ朝の10時だぞ。朝でこれなら夜はどうなるんだよ」
「夜はいつも電気とテレビをつけっぱなしにして寝てるよ」
「マジかよ。さすがにそこまで来ると少し可哀想だな」
「あと、トイレに行くのは怖いから、おしっこは部屋にあるペットボトルにしてる」
「汚えな! トイレくらい行けよ!」
「でも、霊は不浄な物を嫌うって言うでしょ? だから一石二鳥なんだよ」
「一石二鳥じゃねーよ。三鳥くらい失ってんだろ」
「でも、いいよね」と菅原君。「そんなに怖がりなら、ちょっとしたことでも怖がれるからお得だよ。羨ましいな」
「酒弱い奴なぐさめる時みたいに言うな。お前はお前で変人だからな」
三人が言い合っていると、幽霊さんがぱしぱしと神崎君の肩を叩いた。どうやら早く行けと言いたいらしい。
「あの、幽霊さんが早く行ってほしそうです」
神崎君が自転車にまたがって言う。
「そうだな。バカ話はこの辺にしといて、さっそと楔山に行こう」
「レッツゴー」
菅原君が楽しそうに言った。まるで旅行にでも出かけるようなテンションだ。
反面、僕は憂鬱な気持ちで二人の後に続いた。
目的地である楔山までは5キロある。僕達は20分間、黙々とペダルを漕いだ。
楔山の麓に到着し、駐車場に自転車を停める。
今は五月で、山には緑色の草木が生い茂っている。気温は暑くも寒くもなく、ハイキングには丁度良い季節だ。
だが当然、今日の予定は楽しいハイキングではない。美しいはずの景色が、憂鬱な僕の目にはまったくそう映らず、もったいない気持ちになった。
神崎君が自分の肩を親指でさして言う。
「じゃあ菊池、こいつに首がどこにあるか案内させてくれ」
「うん、分かった。幽霊さん、首がどこにあるか案内してください」
だが、幽霊さんは神崎君の肩から降りると、両手でバッテンをつくった。
「えっ、どこにあるか分からないんですか?」
「おい、マジかよ。山の中全部探してたら下手すりゃ遭難するぞ」
神崎君は悩ましそうに額に手を当てた。
だが、幽霊さんは神崎君の方を向き、また両手でバッテンをつくった。
「何か考えがあるんですか?」
そう尋ねると、今度は両手で丸をつくった。そして、右手を本来は口がある部分に持っていく。その手で何かを摘まむように、指先を前方に向かって閉じると、それを開き、また閉じるという動作を繰り返した。
僕はそれを見て尋ねた。
「鳥のクチバシってことですか?」
すると、幽霊さんの前蹴りが腹に飛んできた。不正解らしい。
「ぐはっ」僕は尻餅をつくと、必死で謝った。「ごめんなさいごめんなさい。頭あるのにバカでごめんなさい」
やはり幽霊さんが手でバッテンをつくる。正解とはほど遠い回答だったようだ。
菅原君が僕に尋ねる。
「ねえ菊池君、霊はどんなジェスチャーをしてるの?」
「えっと……」
僕は霊と同じ動作をした。
すると、菅原君はすぐに何かを閃いた様子で言った。
「なるほど、そういうことか。山の中にある首に声を出させるんだ。それを菊池君が聞けば首の在処が分かる」
幽霊さんは手で丸をつくった。
「正解らしいよ」
神崎君が幽霊さんに言う。
「よし。じゃあ幽霊、とびきりデカい声を出して菊池を呼んでくれ」
幽霊さんは人差し指と親指を丸め、OKサインを出した。
「……菊池君、何か聞こえる?」
「うーん……」
僕は両手を耳に添え、目をつむった。全神経を音に向ける。車の音や風の音、梢が揺れる音が聞こえる。その中に、わずかだが人の声が混じって聞こえた。
「……こ……き……」
しかも、何となく生きた人間の物理的な声ではないと分かった。この声は、霊の気配を帯びている。
「幽霊さんの声が聞こえる」
菅原君が興奮して言った。
「おお、どこから?」
「こっち……だと思う」
僕は山の麓に広がる森を指さした。
楔山の麓には大きな森がある。富士の樹海ほど広くはないが、もし携帯電話や方位磁針が無ければ、遭難してしまってもおかしくない。
「おい、山の中にあるんじゃないのか?」
神崎君が登山道の入り口を見て言う。
「ううん、山の方角じゃない。首は山じゃなくて、麓の森の中にあるんだよ」
「そうか……。じゃあ、とりあえず行ってみるか」
「いやぁ、首との対面が楽しみだねぇ。フフフフッ」
菅原君が不気味に笑う。
つくづく物好きな人だと思いつつ、僕は霊の声が聞こえる方へと歩いた。