(二二)正義の定義、悪の把握。
一面の窓から午前の苛烈な太陽光が射し込んでいる。無我夜は背後でエプロンの紐を結びながら、外を見て目を細めた。
ドアを開けるとまだ冷えている外気がカフェ内へ雪崩れ込んでくる。通りに出て見上げた空には真っ白な太陽が燦燦と輝いていて、昨夜の大盤の月はあの四人組と共にもうどこかへ行ってしまった。
「すみません、少々お時間よろしいですか」
しゃがれた声。目を落とすと、深緑のコートを羽織り、側頭部の臙脂色のリボンを指し示す敬礼姿の老熟した女性が通りに立っていた。界護団だ、と無我夜は些か眉間に皺を寄せる。無我夜の無表情に毛が生えた程度の怪訝な表情を察知し、女性は発話を続ける。
「失敬、私は世界保護団捜査課の桜田と申します。昨夜、この通りで不審な女性四人を目撃した、家に訪ねてきたと通報がありまして、それについて聴き込みを行っているのですが、お宅にも現れませんでしたか」
「ああ、来ましたよ」
「本当ですか━━」
「と、言ったら、どうするつもりですか」
無我夜の冷えた刃のような目は桜田の目を射貫く。桜田は身動ぎ一つ見せなかったが、静かに鼻から息を吸い込んだ。
「いただいた情報を元に捜索を進めます」
「見つけたら、どうするつもりだ」
桜田は黙る。無言で目線を刺し交わす二人に降り注いでいた陽光は、いつの間にか現れた薄ら雲に遮られている。桜田は息を吸う。鼻腔を刺す朝の埃臭い大気。
「守秘義務がありますので」
「……へえ」
無我夜は僅かな沈黙の後、溜息のように返答する。
「……協力できず申し訳ないですが、不審な女なんて来なかったですよ」
目の端で桜田を捉える無我夜を、桜田は凝視している。しばらく二人は動かなかったが、桜田は空気を揺らさぬように空気を吸った。
「そう、ですか。お時間頂戴しまして、誠にありがとうございました。それでは失礼いたします」
堅固な敬礼姿を披露し、桜田は通りの彼方へ去っていった。彼女の残影ごと吹き飛ばす突発的な突風が、無我夜のエプロンの裾を翻した。
銀色の巨大な角塔は、突風を受けても揺るがない。世界保護団本庁は無言で、苛烈な太陽光の鎖帷子を纏っている。
始末課の扉を潜ると、潮騒のような喧騒が廊下へ流れ出す。
「おぅ、官長~、おかえりなさいませえ、ヒック」
扉から静寂を携えて入室した迷を見るや否や、缶ビールをゆらゆら揺らしている酒井はご機嫌にふにゃふにゃと敬礼した。周囲の他職員もそれに続く。しかし、迷はそれに気づいていない様子で、引き摺られるように部屋の最奥の自分のデスクに向かい、腰を落とした。酒井は首を捻る。
「何かあったんスかね、官長」
大袈裟なほどにビシッと敬礼していた筧は、心配そうな顔をして小声で酒井に問い掛ける。一応その場で立ち上がっていた酒井は改めてどさっとデスクに崩れ、ゆっくり首を捻る。
「まさか上から怒られちゃったとかっスか……?」
「それはないんじゃない……?」
苦笑いしながら筧に答える咲街。眉を顰めて心配そうに迷を眺めていた迫田は、咲街に囁く。
「オイ咲街、官長に何があったのか聞いてこい」
「えっ、なんで僕なんですか……!」
「お前は官長の右腕だろうが」
「そ、そんなことないですって……!」
二人の会話を小耳に挟んだ酒井は、デスクに伏せながらそちらにぎゅるんと顔を向ける。
「迫田あ、俺が聞いてこようじゃねェか」
「イヤ、酒井先輩はやめてください。事がややこしくなるんで」
ふらふら立ち上がりかけた酒井は「何だよお、酒の一杯でもご馳走して差し上げようと思ったのによォ」とうだうだ言いながら再び座した。苦笑いする筧。
ガタ、と音がして、皆そちらを見る。デスクに肘を突き、指を組んでいた迷が、突如立ち上がった。つかつかと歩いてどこへ行くかと思えば、扉へ向かって、再び部屋を出て行ってしまった迷。何事もなかったかのように閉まる鉄扉を、始末課の皆が見つめていた。
世界保護団本庁、各フロア端にある休憩スペース。自動販売機の鼻息を覆い隠す、携帯電話の呼び出し音。迷は居心地悪そうに立ったまま、右往左往していた。俯いた表情には影が降りている。
「あ、もしもし、日暮? 今、大丈夫?」
スマホの向こうから、じりじりな音質の、低い声が返ってくる。電話相手は無我夜のようだ。
『迷。ああ、ちょうど休憩時間だ。電話なんて珍しいな、どうかしたか』
「休憩中なのに、急にごめんね。ちょっと、話したくて」
電話の向こうから音が一瞬消えるが、すぐに『いや』と返ってきた。
『別に構わない。むしろ、声が聞けて良かった。で、何かあったのか』
一瞬たじろいだ迷だが、すぐに本旨を思い出す。空いている片手を握り込む。
「日暮、探心学の事件って言って、伝わる?」
『……ああ。人体実験のことだろう』
「そう。で、さ、廃遊園地殺人事件、知ってる?」
『……輝から聞いた。被害者のパートナーの精神治療を依頼されたそうだ』
「そう、なんだ」
迷は口篭もる。自販機の唸り声が、遠い廊下の白ぼけた会話を呑み込んで喰い尽くす。
「その、さ。廃遊園地の犯人について、分かってきたの。遺体の異常な切断面と、目撃者の証言から、犯人は━━」
『人体実験の被害者』
鼓膜と耳小骨を射貫かれた感覚。脳幹を射抜かれたように、迷は無我夜に言葉を奪われる。
「な、なんでそれ、」
『勘だ』
無我夜の恐ろしい勘の良さに心臓が暴れている。迷は息を整えて、生唾を呑み込んだ。
「その通り、なんだけど、さ。……ねえ、日暮」
『どうした』
迷は再び口篭もる。何と言っていいのか、何を言いたいのか、息を整えて整理するが、中々まとまらない。結局、口から言葉が漏れていた。
「私は、世界保護団始末官長、芽ノ長迷。私は、正義だと思ってる。でもさ、正義って、一体何だと思う。悪って、何だと思う。彼女たちは間違いなく、身勝手に身体を弄られた被害者で。でも、間違いなく、一人の命を奪った加害者で。彼女たちは、悪なの。それを裁く私は、本当に正義だと言えるの」
携帯電話が押し黙る。相手に問い掛けるというより、己を問い質すような語り口の迷。握り締めた掌には、爪の痕が付いている。頬の古傷は痛みも熱もなく、ただそこに、静かに存在しているだけだった。
『この世に、万物普遍の絶対悪は存在しない、のかもしれないな。悪というのは、誰かが誰かに勝手に与えるもので、悪を付与する者たちが正義と、そう名乗っている、のだろうか。あいつらが正義かどうか、それはあいつらが決めることだが、少なくとも、そう自問できる迷は、悪ではないんじゃないか? それに、俺は容赦なく悪は悪だと断言する。どうしようもない悪というのは、確かに在る。そうだろ。……まあ、分からないな。俺は今思いついたことを話しているに過ぎないから、あまり真剣に受け取らないでくれ』
「そっ、か」
いつの間にか、迷の手は脱力している。二人の空間に静寂が訪れる。
『……大丈夫か?』
珍しく心配そうな声音の無我夜に、思案の海に沈んでいた迷はハッとする。
「あ……ごめん、大丈夫。そう、だよね。ありがとう、話を聞いてくれて。私、思い出したよ。私のこと」
『……何かあったのか』
迷の発言が引っ掛かったのか、無我夜は改めて問うてくる。迷は「あ」と声を漏らしたが、口の端を噛んで口を濁した。
「……多分、すぐ分かると思う。そっちに連絡が行ったはず。後、頼むね。急に電話掛けてごめん。そろそろ休憩時間終わりだよね? 私も事務仕事残ってるから、切るね」
迷の発言の意図が理解できていない様子の無我夜だが、どうやら時間を確認したようで『ああ』と声を漏らす。
『そうだな。じゃあ、また。電話でも何でも、いつでもくれて構わないからな』
「あっ、うん、ありがとう! じゃあ午後のお仕事も頑張ってね!」
『ああ、そちらこそ。……美味いスイーツ屋、厳選しておいたから、誘うからな。じゃ』
プツ、ツーツー。無機質な音がして、沈黙が休憩室に降り立つ。無音になった携帯を当てながら、ぽかんと何を見るでもなく目を見開いている迷の頬は、窓から射した昼の陽で、仄橙に染まっていた。
陽が沈み切ると、途端に闇が街を覆う。営業終了後、掃除や仕込み等の明日の営業の準備を終えて、無我夜はメニュー表を見下げながら静かに唸っている。新たなメニューの開発について、思考を巡らせているようだ。
突如、ポケットの中でスマホが微振動を始める。昼間の一件があったため、また迷からの電話だろうかと細やかな期待を持ちながら取り出す。見ると、画面には「マールム」と白文字が浮かんでいた。落胆と共に、何故月初めでもない今連絡が来るのか、と訝しみながら電話に出る。
「はい、無我夜です」
『日暮無我夜様ですね。夜分遅くに失礼いたします。只今、お時間よろしいでしょうか』
「ああ、大丈夫ですよ。何かありましたか」
液晶の向こうからは流麗な女性の声が聞こえる。マールムの事務職員の誰かだ。創造神ではなかったので、一先ず息を吐く。
『急なご連絡になり、大変申し訳ございませんが、創造神様から緊急の任務のご連絡がありまして』
嫌な名前を聞いた、とでも言うように、ゲッという顔をする無我夜。
『突然ではございますが、明日午前九時に、武器を携帯してこちらまでおいでください』
「分かりました。輝にも伝えた方が良いですか」
『いえ、今回の任務は無我夜様のみで行っていただくものですので』
いつの間にか無表情に戻っていた無我夜だが、その職員の発言に眉を顰める。昼の迷の言葉が心臓の中で突如凝固し、ざらついた感覚がする。
「……そうですか。分かりました」
『それでは、失礼いたします』
無機質な機械音だけを残して切れた電話。ふと見上げた窓越しの月は、欠け始めていた。
大盤の月は欠け、夜雲は粟立ち、空の暗幕を覆う。夜が明けても、街は雲陰で闇に沈んでいる。
次回「害虫、益虫。」




