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第339話 獣の愛

タロシア公爵邸、東棟の角部屋。


豪華な家具が並ぶその部屋は、本当なら大事なお客さんをもてなすための客室だ。


でも今、そこはまるで一匹の猛獣の遊び場になっていた。


怪我が治ったエリナ・タロシアは、部屋の真ん中で椅子にふんぞり返っている男を見下ろした。


ラペオ帝国の第三王子、コリンダだ。


彼は行儀悪く足をテーブルに乗せ、カゴから取ったリンゴをかじりながら、ニヤニヤと笑っている。


「……おい。なんだその顔は」


エリナは低い声でうなった。


手には、練習用の木剣を握っている。


コリンダはリンゴをごくりと飲み込むと、鼻で笑った。


「いやなに。……剣の達人気取りの公爵令嬢様も、ずいぶん腕がなまったなと思ってね」


彼はエリナの構えをアゴで指した。


「腰が浮いてるぜ。……妹の心配ばっかりして、肝心の剣の練習をサボってたんじゃないか?」


「なっ……!」


エリナのこめかみにピキッと青筋が浮かんだ。


図星だったのだ。


リリスのこと、お父様のこと、それにこの男との「契約」のことで頭がいっぱいで、剣の練習をする時間はすっかり減っていた。


コリンダは面白そうに目を細め、さらにチクチクと嫌味を言った。


「どうせ、女としての幸せを捨てて剣に生きていくつもりだろうけど。……その剣すらダメになったら、お前には何が残るんだ?」


彼は立ち上がってエリナの目の前まで歩み寄ると、わざと挑発するようにささやいた。


「ただの、行き遅れの筋肉ダルマか?」


プツン、と何かが切れる音がした。


エリナの中で、我慢の糸がブチッと切れたのだ。


「……上等だよ」


彼女はそうつぶやくと、握りしめていた木剣を床にポイッと放り投げた。


カラン、と乾いた音が響く。


コリンダは目を丸くした。


剣士が剣を捨てるなんて、思ってもみないことだったからだ。


「あ?」


「筋肉ダルマだと? ……だったら、その筋肉の恐ろしさを教えてやるよ!」


エリナは叫ぶと、ケモノみたいに吠えながら地面を蹴った。


剣の技も、貴族のマナーも、お嬢様らしさも、全部かなぐり捨てた体当たりだ。


それはまるで、獲物に突進するイノシシのようだった。


「おい、まっ……!?」


コリンダが身構えるヒマもなかった。


エリナの肩が、彼のみぞおちにズドンと突き刺さる。


「ぐふっ!?」


コリンダの口から息が漏れ、二人はもつれ合って床に倒れ込んだ。


高価なじゅうたんの上をゴロゴロと転がり、テーブルの脚にぶつかって止まった。


「この野郎! 離せ!」


「離すもんか! お前が泣いて謝るまで、絞め落としてやる!」


エリナはコリンダの上に馬乗りになって、胸ぐらをつかんで激しく揺さぶった。


コリンダも負けじとエリナの腕をつかみ、ひっくり返そうとバタバタ暴れる。


それは立派な戦いなんかじゃなくて、ただの子供のケンカか、野良犬同士のじゃれ合いみたいだった。


でも、エリナの力は普通の人よりずっと強い。


彼女は暴れるコリンダを力ずくで押さえ込むと、自分の頭を大きく振りかぶった。


「星でも見てな!」


ゴチンッ!!


鈍くて重い音が、部屋中に響き渡った。


エリナの全力の頭突きが、コリンダの鼻にモロにぶつかった瞬間だった。


「ぎゃあっ!!」


コリンダは悲鳴を上げて、両手で顔を押さえながらのたうち回る。


エリナもまた、自分のおでこを押さえてうずくまった。


「い、いったぁ……! 硬すぎだろ、お前の頭!」


「お前の石頭が……凶器なんだよ……ッ!」


コリンダは涙目でエリナをにらみつけたけど、その鼻からはツツーッと血が流れている。


エリナのおでこも赤く腫れ上がって、まるでツノが生えたみたいになっていた。


二人はお互いのみっともない顔を見合わせて、数秒黙った後、どちらからともなく吹き出した。


「ぶっ……あはははは! なんだその顔! 鼻血出てるぞ、王子様!」


「うるせえ! お前こそ、お岩さんみたいに腫れてんぞ!」


コリンダもお腹を抱えて笑い出した。


「くくっ……ははは! まさか剣を捨てて頭突きしてくるとはな。……とんだお姫様だ」


「うるさい。……勝てばいいんだよ、勝てば」


エリナは笑い涙を拭いて、床に大の字に寝転がって天井を見上げた。


胸のモヤモヤがすっかり晴れたみたいに、心が軽い。


隣ではコリンダも同じように大の字になって、息を整えていた。


「……悪くないな」


コリンダがポツリとつぶやいた。


「お前みたいな女、国にもいなかったぜ。……退屈しなさそうだ」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


エリナはニカッと笑って、ズキズキ痛むおでこを撫でた。


部屋には、二人のバカバカしい笑い声だけが、いつまでも響いていた。

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