第243話 狂った姫、迷った騎士
深夜、冷え切った自室のベッドに横たわっても、眠りは一向に訪れなかった。
目を閉じれば、腕の中に残る、鳥の骨のように軽くて薄っぺらいリリス様の感触が蘇る。
そして、虚ろな瞳で笑いながら、己の尊厳を薬代として売り飛ばそうとした彼女の声が、耳の奥にこびりついて離れない。
僕は薄闇の中で、自分の両手を見つめた。
剣ダコで分厚くなったこの手は、何の役にも立っていない。
心の奥底の、見ざるを聞かざるで蓋をしてきた暗く醜い部分が、チリチリと疼いていた。
王太子カシリアとの婚約解消。
それは、彼女が次期王妃という絶対不可侵の座から降りることを意味する。
それはつまり、一介の騎士でしかない僕が、堂々と彼女に愛を打ち明け、彼女をこの手で囲い込むことが「可能」になるということだ。
だが、そんな自分勝手な感情に身を委ねるほど、僕は愚かではない。
喜ぶべきなのか? 冗談じゃない!
激しい自己嫌悪が胃の腑を焼く。
薬物に脳を支配され、自己判断能力を失い、ただ薬欲しさに縋り付いてくるだけの抜け殻を抱きしめて、それを「愛」と呼ぶのか?
そんなものは、相手の弱さに付け込んだ醜悪な依存のすり替えに過ぎない。
薬が僕という人間に置き換わっただけの、まやかしの愛情だ。
そんな形で彼女からの感情を受け取ることを、僕自身の騎士としてのプライドが、男としての誇りが、絶対に許さない。
リリス様は、最初からあのように壊れていたわけではなかった。
美化するつもりはない。
彼女は元々、他者に対して無慈悲なほど厳格だった。
しかしそれは、己にも等しく厳しい、気高く完璧な公爵令嬢としての矜持によるものだった。
努力を重ね、次期王妃にふさわしい知識と教養を身につけ、誰よりも学生会長の座を目指して邁進していたはずだった。
いつから、彼女の歯車は狂い始めたのか。
答えは明白だ。
あの日だ。
彼女が突如として、あれほど固執していた学生会長への立候補の取り消しを、自ら教師に申し出たあの日。
今にして思えば、あれが彼女の精神が完全に折れた瞬間だったかもしれない。
その後も、領地で支援金が削られ、王都からの嘘に傷つけられ、重圧と孤独が彼女の理性をすり潰し、
ついには、大切にしていた亡き母親の形見すら、換金してしまった。
気高かった令嬢が、這いつくばって泥水を啜るような無惨な姿へと転落していく様を、僕はただ見ていることしかできなかった。
薬という暴力は、彼女から道徳も、誇りも、愛への未練さえも奪い去り、ただ「次の錠剤」を求めるだけの獣へと作り変えてしまったのだ。
「とっても素晴らしい考えでしょう?」と彼女は言った。
狂っている。
完全に正気の沙汰ではない。
己の人生を金貨に換算し、それを薬に変えて幻覚の中で死んでいくことを「幸せ」だと定義するなど、論理が根底から破綻している。
しかし、その破綻した論理を前にして、僕はどうすればいい?
千二百金貨、そして深く根を張る巨大な裏組織のネットワーク。
剣の腕も、親衛隊長という権力も、この奥深い闇の前では、赤子の手首ほどにも役に立たない。
圧倒的すぎる無力感。
僕は、この両手で彼女を守ると誓ったはずなのに、彼女の脳を蝕む毒を抜くことも、組織の脅迫から彼女を切り離すこともできない。
前向きな解決策など、どこにある?
精神を正常に戻すための強制的な隔離治療?
千二百金貨という負債の強引な帳消し?
それを誰が、どうやって実行する?
カシリア殿下を巻き込むか?
いや、それは彼女を処刑台に送るに等しい。
答えは、どこにあるのだろうか。
闇を見つめる僕の目に映るのは、血を流しながら沈んでいくリリス様の幻影と、その傍らで立ち尽くす、惨めで無能な自分自身の姿だけだった。
奥歯を噛み締める口の中から、鉄の味がした。




