第240話 婚約を、売る
手から滑り落ちた羊皮紙が、木の机の上でカサリと乾いた音を立てた。
一ヶ月以内に用意しなければならない金額は、千二百金貨。
どう足掻いても、素直にその途方もない大金を差し出す以外の道はない。
あの組織の裏にいる人間は、タロシア公爵家がどれだけ豊かなのかを知り尽くしている。
私が指先一つ動かせば、千金貨なんてすぐにかき集められると思い込んでいるんだ。
もしくは、違法な薬に溺れているなんて致命的な弱みを握られた私が、公爵令嬢の立場を悪用してでも、なりふり構わず金を作って口塞ぎにくると踏んでいるのか。
他の領地の商人から借金を重ねろと?
領地の税金をちょろまかして詐欺を働けと?
それとも、公爵家の宝物庫から由緒ある品を盗み出せというの?
彼らは私に、誇りを泥水に捨てて、正真正銘の犯罪者に成り下がれと迫っているのだ。
右手の爪が、無意識に左手の甲を強く掻きむしっていた。
真っ白に冷え切った肌に赤い筋が引かれ、じわっと血が滲む。
私が、泥棒や詐欺師の真似事をするなんて。
そんな想像が頭をよぎった瞬間、私の中に残っていた公爵令嬢としての最後の誇りが、悲鳴を上げて拒絶した。
そんなこと、私にできるはずがない。
私は誰よりも完璧な令嬢として、この王国の頂点に立つために育てられたのに。
お母様の愛の証だったあのドレスを切り刻んでしまった罪悪感だけでも、心はもう限界をとうに超えている。
これ以上、自分自身を貶めるような真似をしたら、私は私でなくなってしまう。
どうすればいいの。
どこから、こんな大金を用意すればいいの。
誰か、私をこの底なしの泥沼から引き上げて。
膝から力が抜け、ドレスの裾が冷たい石の床に力なく広がった。
私は大理石の床にへたり込む。
胃の奥で溶けた金色の錠剤がくれていた幸せな酔いが、みるみるうちに冷めていく。
薬が作ってくれた嘘の安らぎは、あまりにも重い現実と恐怖の前に、あっけなく引き裂かれてしまった。
目の前の景色から色が抜け落ちて、世界がまた、冷たくて薄暗い灰色に染まっていく。
『お前は、結局すべてを失う運命なのよ』
『どんなに完璧を装っても、お前の本性は卑しい犯罪者だ』
耳の奥で、聞こえるはずのない声が幾重にも重なって響き始める。
お父様の氷のような視線。
エリナの無邪気で残酷な笑み。
裁判所で私をゴミのように見下ろした、カシリア殿下の冷たい声。
恐ろしい記憶の欠片が、鋭い刃物みたいに頭の中をめちゃくちゃに切り裂いていく。
私は両手で耳をきつく塞ぎ、床の上で体を丸めてうずくまった。
息をするたびに胸が締め付けられて、手首の傷跡がドクドクと脈打つように痛む。
私はこのまま一人ぼっちで、誰の手も届かない暗闇の中で破滅を待つしかないの?
冷たい石の床が、私の頬から容赦なく体温を奪っていく。
絶望と恐怖でどうにかなってしまいそうだった頭の隅で、ふと、ある一つの恐ろしい閃きが走った。
きつく閉じていた目を見開き、私は床の冷たい石目を見つめる。
私にはまだ、切っていない手札がある。
公爵家の金庫にも、領地の税金にも手をつけずに、莫大なお金を動かせる、とびきり高価な『権利』。
まだ手をつけていない、絶対的な価値を持つカードが一つだけ残っている。
私が持っている、この世で一番価値のあるもの。
それは、メニア王国の王太子、カシリア殿下との『正式な婚約』という事実そのものだ。
いずれエリナの素性が公になって、私がこの薬のせいで破滅すれば、どうせカシリア殿下の方から婚約破棄を突きつけられるのは目に見えている。
彼に惨めに捨てられて、一方的にすべてを奪われるのを、ただ待っている必要なんてない。
私の方から、その権利を手放せばいい。
「……どうせ、婚約破棄されるのなら」
私の声は、ひどく掠れていたけれど、不思議なほどはっきりと部屋の空気を震わせた。
「私から、婚約を……売ればいいのよ」
王太子カシリアとの婚約。
次期王妃という、約束された輝かしい玉座。
私が血を吐くような思いで、何よりも大切に守り抜いてきたその場所を、私自身の手で、取引のテーブルに載せるのだ。




