第237話 王都近郊へ
机の上に置かれた羊皮紙の束を、指先で静かになぞる。
最初は領地経営を学ぶという建前で、この辺境のガーナー領までやってきた。
ここを離れて王都方面へ向かうには、お供の騎士たちを納得させるだけの、もっともらしい理由をでっち上げなければならない。
頭の中には、あの鈍い金色の錠剤がくれる偽りの幸せがまだ燻っている。
けれど、その薬の力に頼っても、王都の公爵邸にいるエリナの、あの眩しすぎる光を直視することは耐えられなかった。
彼女が剣術指南役として持て囃されている王立学院の門をくぐるなんて、今の私には到底できない。
おまけに、カシリア殿下からの婚約破棄の知らせが、いつ、どんな形で突きつけられるのか。
それがわからないという事実が、私の神経を休むことなく削り続けている。
だから、今回は王都の屋敷には直接帰らず、王都近くの商業都市へ向かうことにした。
各地の有力者や商人たちと直接会って、領地経営の知識を深める。
そんな立派な大義名分を掲げて、表向きは『一時的な視察』として動き出す。
執務室の木の椅子に腰を下ろし、ピンと背筋を伸ばした。
目の前には、ガーナー領主のガロス卿、カシリア殿下の親衛隊員であるザロ、それにタロシア家の私兵騎士たちがずらりと並んでいる。
「一時的に、王都近郊の都市へ視察へ向かいます」
声は、上に立つ者として完璧に作られていた。
「領地の復興をより確かなものにするために、外の知識と資金の流れを直接この目で確認する必要があるのです」
机の上の分厚い羊皮紙の束を手に取り、ガロス卿の前に差し出す。
「『ガーナー領中期改善計画書』です。私がこの地を離れた後、領地を治める道しるべとなるでしょう」
ガロス卿が、震える両手で恭しくそれを受け取る。
「そこに書かれた手順通りに進めれば、少なくとも冬を越すための食料と燃料は、確実に確保できるはずですわ」
言葉に嘘はない。
その紙の束には、私の血も涙もない計算がびっしりと書き込まれている。
徹底的に無駄を省き、領民同士を競わせて生産性を上げる仕組み。
弱い者は切り捨てられ、結果を出した者だけに生きる糧が与えられる。
これまでこの領地にあった、貧しいけれど穏やかな暮らしは、これで完全に終わる。
私が作った新しいルールの下で、領民たちは『豊かな競争社会』という名目の、過酷な労働地獄に放り込まれるのだ。
ガロス卿の頬が微かに震えた。
彼は手にした羊皮紙を胸に大事に抱きかかえ、私の前で深く、深く頭を下げた。
「なんと……感謝申し上げてよいか。このご恩、生涯忘れることはございません」
ガロス卿の声は、感動で重く震えている。
「リリス様は、我々の救い主です」
救い主。
なんて笑える響きだろう。
私はただ、自分の命を繋ぐためのお金を搾り取り、安全な逃げ場所を確保するために、彼らのささやかな生活を焼き払い、無理やり労働の道具に変えただけだというのに。
薬漬けになっていることを隠し、闇組織からの終わらない脅迫から逃げ延びるため。
ただそれだけのためにやったことが、彼の目には尊い救済として映っているのだ。
「どうか、頭を上げてくださいませ」
私は立ち上がり、数歩前へ進み出た。
そして右手を伸ばし、羊皮紙を抱える彼のごつごつとした硬い手を、両手で優しく包み込む。
手の温もりが、彼の冷えた手にじんわりと伝わっていく。
「領民を思う、貴方のそのお気持ちがあったからこそ、私もここまで尽力できたのですのよ」
唇には、聖女のような慈愛に満ちた微笑みを貼り付けて。
彼の手を力強く握りしめながら、裏では領地の資金を横領し、そしてこの領地を無責任に見捨てる。
ただ、それだけだ。
「ナミス。出発の準備を進めなさい」
すべては、私自身が生き延びるための金を手に入れるために。




