第223話 自己保身
私は黒檀の机の前に立ち、赤く揺らめく炎をただ見つめていた。
羊皮紙が完全に形を失い、黒い粉へと変わる。
美しい文字で綴られた脅迫の言葉は視界から消え去ったが、その内容は目に焼き付き、私の思考を支配し続けている。
両手の指先が冷え切り、感覚が鈍くなっている。
自分の弱さと愚かさの事実が、重い鉛塊となって胃の底に沈む。
己の首を繋ぐためだけに、領民の血税ではなく、遠く離れた侍女の無垢な忠誠を利用しようとしている。
私という存在の核にあるのは、自己保身と欺瞞。
背後の分厚い樫の木の扉から、控えめなノックの音が三度鳴らされた。
「リリス様、ガロスです。宴の準備状況の報告に参りました」
扉越しに聞こえる声は、敬意と活気に満ちている。
私は暖炉から視線を外し、深く息を吸い込んだ。
冷え切った指先を強く握り込み、爪を掌に食い込ませる。
微かな痛みが意識を覚醒させ、薬の効果と混ざり合う。
口角を計算された角度に引き上げ、背筋を伸ばし、顎を引く。
瞳から恐慌と絶望の色を完全に排除し、穏やかで慈愛に満ちた光を宿す。
「入ってください」
私の声は平坦ではなく、鈴の音を響かせる高さと滑らかさを持っていた。
重い扉が開き、ガロスが姿を現した。
日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その目は純粋な信頼で私を見つめている。
彼は机の前に進み出ると、深く頭を下げた。
「お忙しいところ申し訳ありません。広場の設営は予定通り進行しております。隣領から追加の木材も届き、仮設の舞台も完成間近です」
彼は手元の羊皮紙を広げ、声高らかに続ける。
「騎士たちへ振る舞う酒と肉の手配も完了いたしました。領民たちも、リリス様が開催してくださるこの宴を心から楽しみにしており、労働の熱意がさらに高まっております」
ガロスの言葉には、一切の疑念がない。
彼にとって、この宴は領地の復興を祝う純粋な祭典であり、私は彼らを正しい道へ導く完璧な聖女なのだ。
「素晴らしい働きですね、ガロス卿」
私は微笑みを深め、彼の報告書に視線を落とした。
数字の羅列を瞬時に読み取り、頭の中で物資の配分を計算する。
「酒の配給については、騎士と領民で場所を分けた方が混乱を避けられます。広場の東側を騎士の区画とし、西側を領民の区画として設営を変更してください」
「承知いたしました。すぐに手配いたします」
「それから、隣領からの商人の出入りも増えるはずです。関所の警備を通常の二倍に増員し、不審な者の流入を完全に防ぎなさい」
私は次々と的確な指示を出す。
領地の統治者としての私の言葉は、ガロスを深く感服させている。
だが、その言葉を発する私の内側では、冷たい汗が背中を伝い落ちていた。
関所の警備を強化するのは、領地の治安維持のためではない。
あの闇組織の別の使者が、突然この領地に現れる可能性を少しでも減らすため。
私はガロスの純粋な瞳を見つめ返し、ただ優しく微笑み続けた。
王都のタロシア公爵邸。
朝日が差し込む厨房の片隅で、ロキナは一通の手紙を両手で大切に握りしめていた。
彼女の指先は微かに震え、瞳には涙が滲んでいる。
手紙の封蝋には、見慣れたタロシア家の紋章。
そして差出人の名は、彼女が心から敬愛するリリス・タロシア。
「リリス様から……お手紙が……」
ロキナは手紙の文面を何度も読み返す。
ガーナー領での復興の成果。
そして、それを祝う宴の開催。
そのためのドレスと装飾品の準備の指示。
遠く離れた地で、主人が立派に政務を果たし、こうして自分を頼りにしてくれている。
その事実が、彼女の心を温かい歓喜で満たした。
ロキナは足早にリリスの私室へと向かった。
厳重に鍵がかけられた衣装部屋の扉を開け、薄暗い室内に入る。
彼女は丁寧に並べられたドレスの中から、宴の主役に相応しい服を選び出した。
布地を傷つけないよう、慎重に木箱へと納める。
次に、重厚な宝石箱を開く。
大粒の宝石があしらわれた首飾りと、それに一対となる髪飾りを取り出す。
光を反射して冷たく輝くその宝石の価値を、ロキナは深く理解しているわけではない。
ただ、これがリリスをさらに美しく飾るための大切な品であると信じている。
「リリス様、必ず間に合わせます」
ロキナは装飾品を柔らかい布で幾重にも包み、木箱の隙間を埋めていく。
主人の期待に応えることだけを考え、彼女は額に汗を浮かべながら梱包作業を続けた。




