第222話 破滅の脅迫状
ナミスが執務室を退出し、分厚い樫の木の扉が閉まる音が石造りの壁に響いた。
手紙を託された伝令が、最も速い馬を駆って王都へと出立したはずだ。
私は黒檀の机に両肘を突き、指先を組んで口元を覆った。
ガーナー領からタロシア公爵邸まで、片道で約七日はかかる。
ロキナが指示通りに装飾品を選び出し、荷物を厳重に梱包して発送する時間。
そして、その重い荷馬車が王都からこの辺境まで到達する日数。
順調に進んだとしても、優に二週間は消費される。
さらに、届いた装飾品から宝石を抜き出し、ナミスが秘密裏に遠方の闇市へ持ち込んで換金する数日間。
三十日という期限の中で、手元に三百金貨の現金が揃うのは、まさに首の皮一枚で繋がっているぎりぎりの日程だ。
途中の街道で雨が降り、車輪が泥に足を取られれば、それだけで致命的な遅れとなる。
浅い呼吸が繰り返され、組んだ指先に力がこもる。
私は己の首に巻き付いた見えない縄が、一日経つごとに確実に締まっていく感触を、常に喉の奥で味わい続けていた。
翌日からも、私は極めて平穏に、そして有能な支配者として振る舞い続けた。
朝に半錠の金色の薬を飲み込み、くすんだ視界のまま、的確な数字を弾き出す。
ロキナへ送った「宴」の口実を真実のものとするため、私はガロスとザロを執務室へ呼び出した。
経営改善の第一段階が完了したことを祝い、領民に更なる労働の意欲を抱かせるための祝祭。
私は彼らに予算を配分し、広場の飾り付けや、騎士たちに振る舞う酒の手配を細かく指示した。
ザロは私の采配に深く頭を下げ、ガロスは目尻に皺を寄せて領民の喜びを代弁する。
彼らの称賛と絶対的な信頼を浴びながら、私の頬の筋肉は完璧な角度で微笑みを形作った。
だが、その笑顔の裏側で、私の胃は冷たく重い石を飲み込んだかのように硬直している。
彼らが手配する酒や肉の代金など、私の背負った三百金貨という莫大な負債に比べれば、砂粒にも満たない額。
私はこの領地のすべてを欺き、己の秘密と生命を買い取るための時間稼ぎに彼らを巻き込んでいる。
数日後の昼下がり。
通常の書簡に紛れ込ませて、一通の封筒を私の机に置いた。
差出人の名はない。
封蝋は一般的な無地のものが使われている。
私は羽ペンの先で封を切り、中から上質な羊皮紙を取り出した。
書かれていたのは、洗練された美しい文字。
『先日の取引より日が経過いたしました。公爵家におかれましては三百金貨など些末な額と存じます。つきましては、滞りなく早期の清済をお願い申し上げます。万が一期日を過ぎるような事態となれば、当方といたしましても商売の都合上、タロシア公爵家へ直接請求書を送付せざるを得ません』
丁寧な時候の挨拶から始まるその文章の羅列は、私の目を直接焼き切るような強烈な脅迫であった。
私は羊皮紙を持ったまま動きを止め、視線を文字の並びに固定した。
指先から急速に熱が奪われ、末端が白く変色していく。
心臓が不規則に跳ね、冷や汗が額の表面に浮かび上がる。
ただの牽制かもしれない。
あの拷問と軍事報復の脅しを受け、彼らも焦りを感じて念を押してきただけかもしれない。
だが、その可能性に賭けるだけの度胸は、私には完全に欠落している。
私が期日に一日でも遅れれば、彼らは本当にカスト・タロシアの元へ、私の薬物依存の事実と共に請求書を送りつけるだろう。
その結果もたらされる、公爵家からの廃嫡と破滅。
『三百金貨はすぐには用意できない。分割払いにしてほしい』
そう返事を書き、懇願したいという衝動が喉元までせり上がる。
しかし、私は奥歯を強く噛み締め、その言葉を胃の底へと飲み込んだ。
そんな弱音を吐けば、あの計算高い組織は私の資金繰りが完全に限界を迎えていることを見抜く。
公爵令嬢という看板がただの虚仮威しであると悟られれば、彼らはその足元を見て、さらに過酷な条件を突きつけ、私を骨の髄まで搾取し尽くすに違いない。
強気で、冷酷で、金に糸目をつけない傲慢な令嬢。
その仮面を少しでも剥がせば、私は完全に彼らに喰い殺される。
私は手の中の羊皮紙を無言のまま暖炉の火の中へ投じた。
炎が紙の端から舐めるように燃え広がり、美しい文字を黒い灰へと変えていく。
赤く揺らめく光が、私の冷たい顔を照らし出す。
金色の薬がもたらす僅かな安定すら、この絶対的な現実の前には無力だった。
領地の税収を操作すれば即座に解決する問題。
だが、それを実行する覚悟もなく、ただ時間という見えない敵に怯え、遠く離れた侍女の忠誠心を利用して自分の首を繋ごうとしている。
何が聖女か。
何が公爵令嬢か。
私の本質は、薬なしでは生存すらできず、暗闇で怯えながら震えるだけの無能な欠陥品だ。




