第216話 どうして、私の名前を……
何事もない平穏な日々を過ごしていた。
そして、いつものように闇医者から薬を買う日が訪れる。
正体を隠したまま、決められた場所で相手を待つ。
外套を深く被り、顔をヴェールで覆い隠した私は、湿った土の匂いが立ち込める室内で静かに息を潜めていた。
私の斜め後ろには、同じく身なりを偽装し、剣の柄に右手を添えたナミスが直立している。
この薄暗い空間で二週間分の平穏を買い取る行為は、私の壊れた魂を現世に繋ぎ止めるための不可欠な儀式となっていた。
風が朽ちた木の扉を揺らし、軋む音を立てる。
足音が近づき、扉がゆっくりと内側へ押し開かれた。
私は外套の下で姿勢を正し、視線を入り口へと向ける。
そこに現れたのは、前回や前々回の男ではなかった。
年齢の若いやせぎすの男。
彼の背中には、不釣り合いに巨大で膨れ上がった布製の背嚢が括り付けられていた。
男の視線は定まらず、肩を細かく震わせながら、私たちの姿を認めるなり後退りしそうになる。
私が知る闇の住人たちが持つ冷酷さや計算高さの欠片もない、ただ怯えきった小動物の眼差し。
違和感が私の皮膚を撫でたが、裏社会の掟を私は知らない。
私は顎を引き、声を極端に低く押し殺して言葉を紡いだ。
「……いつもの薬を。二週間分よ」
男は両手で背嚢の肩紐をきつく握りしめ。
「も、申し訳ございません。薬の原材料が高騰しておりまして……価格改定が行われました。本日から、一錠につき十金貨となります」
男の口から発せられたその数値が、私の聴覚から脳髄へと到達した瞬間。
私の思考は一瞬の空白を迎え、次いで激しい血液の沸騰が全身を駆け巡った。
「なんですって!?」
私が声を荒らげたのと同時に、私の背後から鋭い金属の摩擦音が響いた。
ナミスが抜刀し、一足飛びで男の間合いを詰め、その鋭利な刃先を男の首筋の薄い皮膚にピタリと押し当てていた。
「動くな」
ナミスの声は氷のように冷たく、一切の感情を排した殺意だけが込められている。
男の膝が震え、その場に崩れ落ちそうになるのを、首筋の刃が辛うじて支える形となった。
十銀貨から一金貨へ、そして一金貨から十金貨へ。
最初の取引から数えて、百倍への跳ね上がり。
一ヶ月で三百金貨。
一年間で三千六百五十金貨。
弱小貴族であれば領地を売り払っても到底用意できず、タロシア公爵家の金庫から引き出すにしても、即座に父の耳に入るほどの莫大な財の流出。
私は彼らに翻弄され、搾取されるだけの存在に成り下がったという事実が、私の内にある公爵令嬢としての矜持を激しく刺激する。
私は男へ歩み寄り、覆ったヴェールの隙間から彼を睨み下ろした。
「もう死ぬ気かしら。その身の程知らぬ口を物理的に引き裂いて、薬の製造元と情報を直接聞き出した方が、遥かに早くて安上がりだわ」
私の声は低く、怒りで微かに震えている。
男は首筋に刃を当てられたまま、涙目を必死に見開いて首を横に振ろうとした。
「ど、どうかお許しを! 僕は何も知らされてないんです! ただ、上の者から言われた通りにしてるだけで!」
男の声が裏返り、狭い小屋の中に反響する。
「十金貨一錠の代わりに、今から1ヶ月分の薬は、この背嚢にすべて持っております! お金は今すぐ払わなくてもいい、一ヶ月の猶予を設けるから、その間に支払ってくれれば大丈夫だと……! そして、今後も価格改定は一切行わないと、そう伝えろと言われました!」
1ヶ月分の薬。
三百金貨の債務。
それを一ヶ月で用意しろという宣告。
私は目を細め、目の前の怯えた男を観察する。
彼をここで斬り捨てたところで、私の精神を保つための金色の錠剤が手に入るわけではない。
「私に三百金貨が、たった一ヶ月で出せるとでも思ってその戯言を口にしているの!?」
男は鼻をすする音を立て、視線を足元の湿った土へと落とした。
「も、申し訳ございません……僕、上の者から……『リリス様なら確実に出せる』と、そう言われました」
小屋の空気が、完全に凍りついた。
私の呼吸が止まり、全身の毛穴が瞬時に閉じる。
視界の端が暗く沈み、立っている地面が急激に傾いたかのような錯覚が私を襲う。
「……りり……ス……!?」
私は自分の口から漏れたその音の響きを、ひどく遠くで聞いた。
私の身体を覆う外套。
顔を隠すヴェール。
一切の痕跡を残さないよう徹底して偽装を重ねてきたはずだった。
にもかかわらず、この名もなき末端の男の口から、タロシア公爵家の娘であり王太子婚約者である私の本名が、極めて自然に紡ぎ出された。
彼らは私の正体を、私が抱える致命的な病理を、私の財力を、すべて完全に掌握している。
私が反抗できないことを見越した上での、1ヶ月分の薬の押し付けと莫大な借金の強要。
逃げ場など最初から存在しなかった。
私は見えない巨大な手によって首を絞め上げられ、完全に支配されている。
「……どうして、その名前を……」




