第208話 薬の奴隷
部屋の中央に置かれた円卓の上には、ナミスが厨房から運ばせた特別な食事が並べられていた。
銀の皿に盛られた柔らかい白パン、香草を添えて丁寧に焼かれた鳥肉、そして澄んだ琥珀色をした野菜の汁物。
騎士たちと共に囲んだあの黒パンと泥混じりの根菜とは違う、公爵令嬢である私に相応しい洗練された品々だ。
私は椅子に深く腰を下ろし、銀の匙を手に取った。
匙の先で琥珀色の汁物をすくい、静かに口へと運ぶ。
舌の上に広がるはずの複雑な旨味や、香草の芳醇な香りは、私の感覚を微塵も刺激しなかった。
口内に広がるのは、ひどく無機質で冷たい液体の感触のみ。
私は咀嚼を諦め、ただ喉の奥へ流し込む作業を繰り返した。
胃の底に落ちた温かな食事は、私の体に一切の活力を与えず、むしろ重い鉛となって内臓を引き下げる。
視線を落とすと、自分の白く細い指先が微かに震えているのが見えた。
私は銀の匙を皿の横に置き、両手を膝の上で強く組み合わせた。
私は、薬の効力がなければ、騎士たちと粗末な食事を共にすることすらできない。
彼らに称賛の言葉を掛け、微笑みで応えるという、支配者としての最も基本的な行為すら自力で遂行できない。
私は背もたれに体を預け、天井の木組みを見上げた。
視界の色は褪せ、室内の空気はひどく冷たく重い。
タロシア公爵家の長女として、次期王妃候補として、私はこれまであらゆる重圧に耐え、完璧な虚像を作り上げてきた。
しかしその実態は、半錠の薬がなければ日常の振る舞いすら維持できない、完全に壊れた存在だ。
美しい食事を受け付けないこの体が、私の本質を明確に証明している。
私は、誇り高き貴族などではない。
依存の鎖に繋がれ、思考を放棄して薬に縋るだけの、みすぼらしい廃人だ。
自己否定の波が胸の奥から湧き上がり、冷たい血流となって全身を駆け巡る。
私は両手で顔を覆い、深く息を吸い込んだ。
掌に触れる皮膚の温度が、異常なほど低い。
昨日、あの古い屋敷で対峙した若い男の顔が脳裏に浮かぶ。
仕立ての良い暗色の外套、無駄のない所作、そして金貨一枚という十倍の価格を平然と言い放つ冷酷な瞳。
私の最も致命的な弱点、すなわち精神の崩壊と薬物への完全な依存を、彼らは完全に掌握している。
顔を覆った指の隙間から、卓上に置かれた小さな硝子の瓶を見る。
鈍い金色を帯びた十三錠の丸薬。
これが私の救いであり、同時に私を永遠に縛り付ける鎖だ。
私の人生は、公爵家の栄誉や王太子の婚約者という立場によって守られているのではない。
名前も知らぬ闇の組織、裏社会を這い回る者たちの意思によって完全に支配されている。
彼らが価格を百倍に引き上げれば、私は金貨を差し出すしかない。
彼らが薬の供給を絶てば、私は幻聴と狂気の中で自らの喉を掻き毟り、破滅を迎える。
私にはタロシア家の精鋭である私兵がおり、ガーナー領の全権を握っている。
しかし、その強大な武力も権力も、彼らに対しては一切行使できない。
私が反撃に出た瞬間、彼らは私の秘密を白日の下に晒し、私の築き上げた完璧な聖女の虚像を粉砕するだろう。
私は、自分のすべてを彼らの掌の上に置き、彼らが指を握り締めるのを待つことしかできない。
「私には、何もできない……」
声に出した言葉は、誰に聞かせるためでもなく、ただ冷たい空気に溶けて消えた。
薬の量を減らし、自らの意志で依存から抜け出そうとした試みは、数時間で無残に失敗した。
多幸感を削り落とし、理性を保とうとした結果、私は食事すら摂れず、騎士たちの前で微笑むこともできなくなった。
薬を断てば、幻聴と絶望が私を完全に狂わせる。
薬に頼れば、私はあの者たちの言いなりとなり、延々と金貨を貢ぎ続けるだけの財布となる。
どちらの道を選んでも、その先には確実な破滅が口を開けて待っている。
私をこの地へ送り出し、愛を語ったカシリア殿下も、私を無条件で肯定し寄り添うナミスも、この根本的な絶望を解決することはできない。
私は膝の上で両手をきつく握り締め、爪を手の甲に食い込ませた。
皮膚が微かに裂け、鈍い痛みが走る。
逃げ道はない。
ただ静かに、金色の錠剤に魂を削り取られていく時間を待つことしか。




