第207話 崩れかけた聖女
長方形の木製テーブルには、タロシア家から派遣された私兵たちと、カシリア殿下の側近であるザロが同席していた。
卓上には、硬く焼かれた黒パンと、少量の塩で味付けされた根菜の煮込みが並べられている。
私は長机の上座に腰を下ろし、背筋を伸ばして木製の匙を握った。
周囲の騎士たちの視線が、私の一挙手一投足に注がれている。
彼らの瞳に宿るのは、絶対的な忠誠と、領地を劇的な復興へと導いた『完璧なる聖女』への熱烈な崇拝だ。
共に食卓を囲むという私からの提案は、彼らの士気を高めるための計算された政治的行為であった。
しかし現在、その約束が重い枷となって私の身体を縛り付けている。
朝に飲み下した半錠の薬。
その効力はすでに薄れ、私の視界から極彩色の輝きを完全に奪い去っていた。
石壁の冷たさ、木製テーブルの傷、油の燃える匂いが、何の覆いもなく私の感覚を直接刺激する。
極度の倦怠感が全身の筋肉を硬直させている。
私は木製の匙で根菜の煮込みをすくい、口へ運んだ。
舌に触れた煮込みの味は、泥と灰を混ぜ合わせたかのようにひどく無機質で、一切の旨味を感じない。
喉の奥が痙攣し、飲み込むことを拒絶している。
だが、私はここで顔を顰めるわけにはいかない。
私は口角を微かに上げ、咀嚼を繰り返し、力任せに根菜を胃へと流し込んだ。
「リリス様。本日の市場でのご采配、誠に見事でありました。税率の調整により、隣領からの物資流入がさらに加速しております」
私の右側に座るザロが、熱を帯びた声で語りかけてきた。
私は彼へ視線を向け、瞬きを一つした。
「ええ、ザロ。皆の働きがあってこその成果ですわ。このまま気を緩めず、領地の安定に努めましょう」
私の声は平坦にならないよう、意識的に高さを調節して紡ぎ出される。
ザロは深く頷き、黒パンを手に取った。
私は再び匙を動かす。
二口目の煮込みが口内に入った瞬間、胃の底から強い反発がせり上がってきた。
全身の血の気が引き、指先が微かに震え始める。
それでも私は、手元の黒パンをちぎり、口の中の煮込みを押し流すための栓として口へ入れた。
口内の水分がすべて奪われ、乾燥したパンの欠片が喉の粘膜を削る。
呼吸が浅くなり、胸の奥で心臓が不規則な拍動を始めた。
斜め後ろに立つナミスの気配が、わずかに動いた。
彼は私の背中の筋肉の強張りや、匙を動かす速度の低下、そして呼吸の乱れを正確に読み取っていた。
騎士たちが領地の防衛体制について語り合っている隙を突き、ナミスが一歩前へ進み出た。
「リリス様」
彼の低く落ち着いた声が、食堂の空気を切り裂く。
私は咀嚼を止め、匙を木製の器に置いた。
ナミスは周囲の騎士たちへ視線を向け、深く一礼した。
「申し訳ありません。リリス様は本日、長時間の視察により少々ご無理をなさいました。これ以上の同席は、お体に障ります。お食事は後ほど、私がお部屋までお持ちいたします」
ザロと私兵たちの会話が止まり、彼らの表情に一斉に懸念の色が浮かぶ。
「リリス様、ご体調が優れないのであれば、どうかすぐにお休みください」
ザロが椅子から立ち上がり、右手を胸に当てて頭を下げた。
私は膝の上で両手を重ね、ゆっくりと立ち上がった。
「せっかくの皆との食事の席を中座することになり、申し訳ありませんわ。ナミスの言う通り、少し休ませていただきます」
私は完璧な角度で頭を下げ、顔の筋肉を硬直させたまま、微かな微笑みを形作った。
「私の分まで、どうかゆっくりと食事を楽しんでちょうだい」
私兵たちも一斉に立ち上がり、敬礼の姿勢をとる。
私は彼らに背を向け、ナミスと共に食堂の出口へと歩みを進めた。
重い木扉が背後で閉まり、喧騒が遮断される。
冷たい石造りの廊下に出た瞬間、私が維持していた顔の筋肉が完全に弛緩した。
姿勢を支えていた力が抜け、歩幅が極端に狭くなる。
ナミスは即座に私の隣へ移動し、私の左腕を自身の右腕で静かに、しかし力強く支え上げた。
「お辛い中、よく耐え抜かれました」
彼の声は周囲に誰もいないことを確認するほど低く、ただ私にだけ届くように発せられた。
「部屋まで、すぐです」
私は彼に体重を預け、冷たい石床を無言で踏みしめた。
極彩色の輝きを失った私の世界で、彼が腕から伝えてくる確かな熱量だけが存在していた。
「……ナミス」
私の声は掠れ、ひどく乾燥していた。
「ありがとう。貴方がいなければ、私はあの場で倒れていたわ」




