第205話 抗えない取引
執務室に残されたのは、私とナミスの二人だけとなった。
私は外套を脱ぐこともせず、執務机の前まで歩み寄る。
冷え切った指先を開き、先ほど金貨十四枚と引き換えに受け取った小さな硝子の瓶を、磨き上げられた天板の上に置いた。
硬質な音が室内に響き、そして完全な沈黙が降りた。
瓶の中には、鈍い金色を帯びた丸い錠剤が十四個、身を寄せ合うように収まっている。
私の視線は、その小さな粒から離れない。
十銀貨から、金貨一枚への価格高騰。
男が口にした南方の情勢や流通の滞りという説明が、私の頭の中で反復される。
それが真実である可能性は低く、意図的な価格の操作であることは明白だ。
私は、あの男に、あるいはあの男を遣わした闇の組織に、すでに格好の獲物として見定められている。
机の端に置かれた、タロシア公爵家の紋章が刻印された封蝋の箱に視線が移る。
私の手元には、ガーナー領の全権と、タロシア家の精鋭である私兵たちが存在する。
私兵の部隊を動かし、あの男に関わった全員を捕縛して拷問にかければ、薬の出所も、価格高騰の真の理由も、半日と掛からずにすべてを吐かせることができる。
私にはその力があり、彼らを徹底的に壊滅させるだけの権限がある。
しかし、その絶対的な権力は、今の私には一切行使できない。
私が彼らに手を出せば、公爵令嬢である私が禁薬に依存し、精神を崩壊させているという致命的な事実が、白日の下に晒される。
カシリア殿下が私に向けた称賛の眼差しも、領民からの狂信的な支持も、すべてが崩れ去る。
私自身が築き上げた『完璧な聖女』という虚像が、私の両手首をきつく縛り上げ、その権力の行使を完全に封じ込めている。
私は目を伏せ、机の縁を両手で強く握り込んだ。
木の硬い感触が掌に食い込む。
私は彼らに反撃することも、交渉を打ち切ることもできず、ただ言われた通りの金額を無言で差し出すしかなかった。
彼らの要求の前に平伏し、金貨を貢ぐための機能を持っただけの存在。
薬がなければ、私はあの幻聴と絶望の底へ引きずり込まれ、呼吸すらできなくなる。
私の最も脆く致命的な弱みが彼らの手に握られ、その事実が冷たい刃となって私の尊厳を削り取っていく。
屈辱が、胸の奥底からゆっくりと這い上がり、血流を冷やしていく。
今日、価格は十倍の金貨一枚となった。
もし次の取引で、彼らが金貨十枚を要求してきたとしたら。
いや、金貨百枚を要求してきたとしても、私はそれを支払う以外の選択肢を持たない。
私には、彼らに抗う術が何一つ残されていない。
しかし、そういう強い不安すら、あっという間に、薬の効力で全てを薄められてしまった。




