第204話 十倍の代価
ガーナー領の端に位置する、放置された古い屋敷。
壁の漆喰が剥がれ落ちた薄暗い広間に、私とナミスは立っていた。
私は灰色の簡素なドレスを身に纏い、顔の半分を厚いヴェールで覆っている。
地方の小貴族の娘という偽装を完璧に維持するため、装飾品は一切外していた。
冷たい風が隙間から吹き込み、床に積もった埃を微かに舞い上がらせる。
約束の時刻を少し過ぎた頃、木製の重い扉が軋む音を立てて開いた。
現れたのは、前回薬を売った中年の闇医者ではなかった。
仕立ての良い、しかし目立たない暗色の外套を着た若い男。
その歩みは音を立てず、背筋は伸び、指先には一切の無駄な動きがない。
男は私の数歩手前で立ち止まり、深く、洗練された角度で一礼した。
「お待たせいたしました、お嬢様。本日は私が薬をお届けに参りました」
声は低く穏やかだが、前回の男が持っていた卑屈な商人らしさは微塵も感じられない。
ナミスが私の斜め前に進み出て、腰の剣の柄に右手を添える。
男はその動きを一瞥し、微笑みの形を作ったまま視線を私に戻した。
「お嬢様、少々失礼いたします」
男は革鞄を床に置き、歩み寄って私の右手首に指を当てた。
冷たく、しかし確かな圧迫を伴う指先の感覚。
数秒間、男は視線を落とし、私の脈拍を測る。
「……ええ、薬は非常に良く効いているようですね。血の巡りも安定しております」
男は指を離し、再び一歩後退した。
「しかし、一つお伝えしなければならないことがございます。お求めの『幸せの果実』ですが、取引価格を改定させていただきました。本日より、一錠につき金貨一枚となります」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の呼吸が完全に停止した。
十銀貨から金貨一枚。
価格が正確に十倍に跳ね上がっている。
ヴェールの下で、私の目が見開かれ、唇が硬く引き結ばれる。
ナミスの右手が剣の柄を強く握り込み、革の擦れる鈍い音が広間に響いた。
「金貨一枚。それはいくら何でも度を超えていますわ」
私は声を低く抑え、男の目を見据えた。
「前回の十倍です。明確な理由を説明してちょうだい」
男は少しも動揺を見せず、再び滑らかに頭を下げた。
「お嬢様のご懸念は尤もでございます。しかし、現在、主要な原材料である南方の特殊な植物の輸入経路が完全に遮断されております。流通網の再構築、関所の厳格化への対応、並びに精製過程における触媒の枯渇が重なり、原価が暴騰している次第です。我々としても、品質を維持するための苦渋の決断でございます」
男の口から次々と専門的な単語と複雑な情勢の羅列が飛び出す。
その言葉の表面は滑らかだが、具体的な事実は何も提示されていない。
煙に巻くための計算された台詞回し。
私は目を細め、男の衣服の僅かな皺や、靴の泥の付き具合を観察する。
この男は、ただの使い走りではない。
だが、価格が十倍になったところで、タロシア公爵家の令嬢である私にとって金貨一枚は容易に支払える額だ。
この先も薬が途切れる恐怖に怯えるくらいなら、ここで一気に確保しておくべきだ。
胃の底に残る薬の効力が、私の思考を大胆な方向へと推し進める。
「理由は分かりましたわ。ならば、金貨を支払います」
私は外套の内側に手を入れた。
「前回お伝えした通り、一年分を用意なさい。三百六十五錠、金貨三百六十五枚。すぐに手配を」
私が言葉を発し終える前に、ナミスの手が私の肩を強く掴んだ。
指の力が肩の骨に食い込み、私の動きが強制的に止められる。
「お嬢様、お待ちください」
ナミスの声は低く、警告の響きを帯びていた。
「金貨三百六十五枚です。我々のような地方の家の資産で、親に無断で動かせる額ではありません。今回も、二週間分に留めておくべきです」
ナミスの言葉が脳裏に響き、私は自分の重大な失態を即座に認識した。
地方の小貴族の娘が、現金で金貨三百枚以上を即座に支払えるはずがない。
公爵令嬢としての価値観が、完全に偽装を破綻させかけていたのだ。
男の視線が、僅かに細められ、私とナミスの間で静かに動いた。
私は肩からナミスの手を外し、小さく息を吐き出した。
「……ええ。貴方の言う通りね、少し取り乱してしまいましたわ」
私は声の震えを抑え、男に向き直った。
「今回は、二週間分で結構ですわ。十四錠、金貨十四枚。これでよろしいかしら」
私は小さな革袋を取り出し、中から金貨を数えて男の前に差し出した。
男は恭しく両手で金貨を受け取り、革鞄の中から小瓶を取り出して私に渡した。
「確かに。十四錠でございます。また二週間後、お会いいたしましょう」
男は深く一礼し、踵を返して重い扉の向こうへと消えていった。
私は手の中の冷たい小瓶を強く握り締め、ナミスと無言で視線を交わした。




