神様のお話
『ヘッヘッヘッヘッ』
「ちょっ! はやっ! 速いって! もう少しゆっくり!」
片一方は金色の毛むくじゃらなゴールデンレトリーバー。
それはそれはご機嫌そうに尻尾を振りながら、とある人間を引き摺っていた。
もう片一方。
『万屋 矢尾』にてアルバイトをしている大学生、榮だ。
力強く引っ張られるリードをやっとのこと握り締めている。
一人と一匹が公園に差しかかった時、犬が吠えた。
前足をバネにしてピョンピョンと飛び跳ねている。
彼の犬は、大鹿さんの宅で飼われている犬。名前は我王。
愛嬌のある顔立ちの癖をして、なんとも厳めしい名前だ。
今年で十一歳になるらしい。
『バウッバウッ!』
「分かった! 分かったから! 公園だね!? ち、力強い! り、リードが!」
我王にズリズリと引き摺られ、榮は無理矢理に公園に入る。
『万屋 矢尾』からは徒歩で三十分程の公園。名前は『一本木公園』とかいうらしい。
日が長くなって来たこの季節。十八時を過ぎたこの時間でも辺りはまだ明るい。
とはいえ、小学生の何人かは自転車に乗って家路に着いている姿が見えた。
彼の目的は、公園に併設されているドッグランだ。
ひいひい言いながら簡易的な閂を外し、自分の背丈の倍はあろう柵の中に入る。扉を開ける時は伏せて黙っているのだから小憎たらしい。
ドッグラン内の全面積は数百メートルはあろう。自分の他に人の姿は見えない。
榮が首輪からリードを外すと、脱兎の如く走り回る我王。
まるで貯め込んでいた鬱憤を晴らすかのようだ。
榮はふうと一息吐き、入り口辺りにあったベンチに腰掛ける。
そんな疲れた榮の様子など気にもかけずに、我王は走り回っている。
陸上競技場のような地面のドッグランだ。ガラスを踏む心配は低いだろう。
この散歩の依頼主である大鹿さんが言うには『店員さんに散歩をしてもらうと我王も嬉しいみたい』らしい。
しかし小腹が空いた。
好き好んで買っているブドウ味のグミは空っぽだった。
近くにコンビニなどないし、我王を放っておく訳にもいかない。
ポケットを更に探ると、大鹿さんから渡された、我王のご褒美のササミジャーキーを見つけた。
今手元にある食べ物はこのジャーキーのみ。つまり…
ゴクリと、榮の喉が動いた。
―――いやしかし人間の尊厳が…
葛藤に陥る榮。
普通ならば考えに入る余地もないが、榮は人一倍食いしん坊である。
人間の尊厳を捨てるか、それとも…
―――ぐうううううぅぅぅぅ…
尊厳などで腹は膨れない。
うむ、緊急避難である。仕方ない仕方ない。
そう結論付け、一口齧る。
パサパサで脂の感じがしない。しかし香りは強く鼻を抜けた。
犬は味覚が鈍く嗅覚が鋭いと聞く。犬用なのだから当然か。
―――うん、薄味だけど中々…
「そこなキミ」
「ぴぃっ! ななななんでしょう!」
サッとササミジャーキーを隠し、声を掛けられた後ろを振り向く。
人間の尊厳を放り投げた榮だが、犬用のジャーキーを食べている所を見られ恥ずかしがる程度には羞恥心は持っているのだ。
「矢尾と名の付く店を知らないかね?」
「矢尾さん…ですか?」
声を掛けてきたのは女性だった。
パッチリと開かれた二重の両目は、黒いコンタクトでも付けているのか瞳と虹彩は黒一色。
白と黒のボーダーのTシャツを着てデニムのパンツを履いている。胸の戦闘力は強大であった。
鼻は高く肌は白く。まるで作られたお人形のような印象だ。
それを表すかのように、その表情には何もない。
喜怒哀楽も何もかもが。抜け落ちている、ではなく。最初からないと、そう思った。
「えっと…」
「禍津と呼んでね。矢尾にもそう呼ばれていてね」
「矢尾さんのお知り合いですか?」
音も立てずに、禍津は榮の隣に座った。
先ほどの反応で、知っていると悟られたのだろう。
ところで、いつの間に彼女はドッグランに入ってきたのだろうか。
扉を開ける物音一つしなかったが…
「外に出るのは久しぶりでね。人と話すのも久しぶりだね」
あの変わり者の矢尾の知り合いと言った。
類は友を呼ぶと言う。ならば彼女も変人なのだろう、きっと。
「矢尾さんのお知り合い…ですよね? どういった―――」
「古い友人」
多少食い気味に禍津は言う。
まるで予めそう言おうと決めていたかのように、淀みなく。
「ずっと独りだった私を救ってくれた恩人。一緒に居てくれた恩人。ところで―――」
キシリ、と。
まるで機械仕掛けのように、その首をゆっくりと榮に向ける。
真っ黒い双眼は、まるで何もかもを呑み込むように榮を見つめていた。
「キミは、矢尾の、何だね?」
八百の何か。
そう聞かれても、アルバイトと答える他ないだろう。
榮はほとんど考える事なく返す。
「アルバイトですよ。時給九百円くらいの」
「助手をしてるって聞いたけどね。どうなんだね?」
「助手、ですか? えっと…助手と言われるほどお仕事に詳しくありませんし、全然違いますよ」
「ふーん…嘘じゃないみたいだね」
どうやら禍津は納得したようだ。
アルバイトと言った事が良かったのだろうか。
しかしなぜ、助手やら丁稚やらと呼ばれるのだろう。
矢尾の店に来るお客様には度々そう言われ、その度に訂正をして来たのだ。
禍津は首を正面に戻し、走り回って遊んでいる我王へ視線を向けた。
「この辺りは疎くってね、随分前と違って入り組んでいてね」
「はぁ…」
「それで、矢尾の店はどこだね?」
「随分入り組んでいるので口で説明するのが難しくて…散歩が終わったらご案内しますけど」
「いいよ別にね。どうせ暇なんだからね。それじゃ、よろしくね」
禍津が手を差し出した。
日に当たっていないのか、不気味なほどに白い肌だ。
握手をしようと、そういうことだろう。
特に抵抗もなく榮もしようとする。
『バウッ!』
「うわお!」
いつの間にか足元に来ていた我王がいきなり吠えた。
滅多な事では吠えない我王なのだ。榮は変な声を出して驚いた。
「どしたのさ我王」
『グゥルルルルルルゥゥ…』
まるで敵でも見つけたかのように、禍津へ向けて威嚇をしている。
牙を剥き出しにし、目を大きく見開いていた。
いつもは愛嬌のある笑顔をしているのに、威嚇をする姿など初めて見た。
大鹿さん宅へ姿を見せると尻尾をブンブン振り回して愛想を振りまき、散歩をしている時も自分の横を礼儀正しく歩いているのだ。
公園に近づくと我先にと先を行くが、優しく頭の良い犬なのだと思っていた。
「すみません、いつもは人懐っこいんですけど」
「昔から動物には嫌われていてね。好きな生き物に嫌われる事ほど苦しい事はないよね」
そう言って禍津が我王に手を近づけると、尻尾を巻いて後ずさる。
その姿は嫌うというよりも、怯えているようにも見えた。
我王は一通り走り回り満足すると、こうして榮の所に来ておやつをねだるのだ。
脇に置いておいたササミジャーキーを千切り、我王の鼻先へと近づける。
何やらクンカクンカと鼻を鳴らしている。まさか齧った事がバレたのだろうか。
怪訝な顔をした後、榮を睨みつけるような気がしたが気のせいだろう。
パクリと食べ、モグモグと口を動かす。
すると我王が自分から伏せた。
撫でろ、という事だ。まったくもってけしからん。
頬を挟むようにしてブニブニと撫で、フサフサの喉毛を掻くように撫でまくる。
―――こいつめこいつめ、愛い奴め。
まるで気持ち良さそうに目を細め、グルグルと喉を鳴らしている。
撫で繰り回しているとぐるりと身体を仰向けにし、腹を撫でろと催促してきた。
―――おらおら、おりゃおりゃ。
ガシガシと撫でていると、前足でペシリと撥ね退けられた。
またもクルリと身体を戻すと、次は頭を擦りつけてきた。
ポンポンと頭を軽く叩くと、我王はスクリと立ち上がる。
榮は動物が好きである。撫でて喜ぶ程度には。
自転車に乗っている最中に、散歩をしている犬や塀の上を歩いている猫を見ると、自然と目が行ってしまう。
そのせいで電柱にぶつかって痛い思いをしたのは良い思い出だ。
残りのササミジャーキーを鼻先に近づけると、パクリと食べた。
首輪へリードを繋ぐ。すると後腐れもなくスタスタとドッグランの出口へと歩いていく。
「頭の良い犬だね。初めて見たね」
「ええ、私もそう思います」
大鹿さん宅までは二十分ほど。
榮の左を歩く禍津。そしてその間を歩く我王。
我王は、まるで榮を守る騎士のように振る舞っていた。
―――
「矢尾さん、ただ今戻りました」
「ご苦労様、榮。麦茶出しといたわよ」
我王の散歩も終わり、大鹿さん宅から『万屋 矢尾』へと戻ってきた榮。
一週間前から『万屋 矢尾』の二階の一室へ部屋を借りている。ある意味では我が家に戻ってきたのだ。
机に置かれていた、氷の入った麦茶を一息に飲み干す。
熱くなった体を冷ますこの感覚。癖になってしまう。
「あ、そうだ。矢尾さん、お客様ですよ」
「客? 今日は予約なんて入ってなかったと思うけど…」
今月の予定表に目をやる矢尾。
榮も同じく目をやるが、予約者の欄は空白である。
月に数回ほど予約が入るが、空欄の方が多い事が常だ。
「我王を散歩している時に会ったんですよ。矢尾さんの古いご友人と言っていましたけど」
「友人、ね。そう言うのは勝手だけれど。名前は聞いた?」
「禍津、と言っていました。表にご案内しましたけど…」
榮がそう言うと、ピタリと矢尾の動きが止まった。
「禍津って本当に? アイツに触られた?」
「え?」
そう言えば。
握手をしようとする直前に我王が吠え、それきり我王を愛でていた。握手はしていない。
何かまずかったのだろうか。
「いえ、そんな事はないと思いますけど…」
「そう? ま、触られなかったのなら良いわ。今日はもういいから、部屋に戻っていなさい」
矢尾は立ち上がり、古物買取受付の扉を開けた。
隙間からは禍津の顔が見えた。
その顔は先ほどまでの無表情とは程遠い、まるで恋い焦がれている少女のような笑顔だった。
―――
次の日。場所は大学の食堂。
榮は岡谷と一緒にうどんを啜っていた。
岡谷はいつもと変わらぬ素うどんを。榮は油揚げを乗せた狐うどんを。
諏訪はもう少しかかるらしい。岡谷の携帯電話にメールがあったと言っていた。
榮は携帯電話は持っていない。二人の連絡先はメモしてあるが、掛ける用事も特にないのだ。
「そう言えば今日さ、大学に来る前なんだけど」
「うん? 何かあった?」
ひたすらにうどんを啜っていた岡谷に、榮が話しかけた。
彼女の今日のシャツには、うどんを啜るグレイが描かれていた。
「トラックに轢かれそうになってさ、死ぬかと思った」
「トラックぅ? 大丈夫だった…って、無事じゃないならここにいないか」
『万屋 矢尾』を出て大学に行く時、数回ほど国道を横断する。
その一つ目の国道を横断する時の事だ。
横断歩道の自転車横断帯を渡ろうとした時、横から猛スピードのトラックが突っ込んできた。
目の前を物凄いスピードで通り過ぎたのだから、流石に肝が冷えた。
たまたま散歩していた我王にズボンの裾を齧られ、離そうと撫でていなければ追突されていた。
大鹿さんは『危ないわねえ』と言っていたが、実に危なかった。
我王は撫で繰り回しておいた。何か誇らしげな表情だったのは気のせいではないだろう。
「いや、我王には助けられたよ、ホントに」
「頭の良い犬もいたもんだね。今度テレビにでも投稿してみれば?」
動物を取り上げる番組で、視聴者から投稿を受け付けるというと『動物珍百景』か。
視聴者から寄せられた、動物の珍しい光景を取り上げる番組だ。
実家にいた時は毎週見ていたが、大学へ通うようになってからはさっぱりだ。今もテレビは無い。
今でも放送しているのだろうか。
「それでさ、駐輪場に停めようとしたら自転車が壊れちゃって。車に突っ込まれたんだよ」
「車に? 怪我一つないみたいだけど」
後ろから聞こえた猫の鳴き声に釣られて、鍵も掛けずに急ぎ自転車から離れた途端、後ろから物凄い音が轟いた。
見ると、自転車に車が突っ込んでいたのだ。
あと数秒離れるのが遅ければ、壁には綺麗な赤い花が咲いていた事だろう。
轟音に驚いたのか、周りを見ても猫の姿は影も形もなかった。残念であった。
それに…
「階段は何度も踏み外すし、エレベーターの扉に挟まれそうになるし、植木鉢が降って来るし、忘れ物はするしで、なんかツイてないんだよね、今日は」
「何かに呪われてるんじゃないの? お祓いでもしてもらえば?」
「お祓い、ねえ…」
以前の件で『呪い』について懐疑的ではあるが、仕方なく信じる事にした。
しかし今日起こった事故は全て、機械の不具合だったり人間の不注意だったりと、偶発的なミスだ。
「ほら、諏訪って神社の跡取り娘じゃん。私も何度かお世話になったし」
「神社? 初耳だけど…」
この県では知らぬ者のいない、有名なお家のご令嬢とは聞いたが、神社の跡取りとは初耳だ。
確かに神社の跡取りならば、呪いを祓う祈祷や祈願をする事も出来るのだろう。
「お祓い、か。ちょっと相談してみようかな」
「やっほ~ さ~かえ~」
噂をすれば。
声のした方を見ると、黒髪の大和撫子。諏訪である。
今日の着物は萌葱色の爽やかさを感じさせる色だ。
岡谷の隣。榮のはす向かいへ座り、巾着からアルミ箔に包まれたおにぎりを取り出し、はむはむと食べている。
うむ、小動物の様で実に可愛らしい。
「岡谷から聞いたけどさ、諏訪の家って神社なんだって」
「うん、そうだよ~ 大変だけどね~ やりがいはあるよ~」
二つ目のおにぎりをペロリと平らげ、グッと背を伸ばした。
「榮さ、今日は悪い事ばっかり起きるんだって。少し見てあげなよ」
「悪いこと~? いいよ~」
そう言い、榮の後ろへ目をやる諏訪。
数秒、そのまま見つめていただろうか。
「え…そんな…こんな、事って…」
目は大きく見開かれ、諏訪の顔色は見る間に真っ青になってしまった。どうかしたのだろうか。
「そ、それ…」
「それ?」
榮は諏訪の指差す方を見る。自分の後ろだ。
首を回してそちらを見るが特におかしい所はない。
再び諏訪の方を向き、言う。
「どれ?」
「み、見えて、ない、の…?」
「何が?」
首を傾げる榮。
諏訪には一体何が見えているのだろうか。
「…ヤバいのが憑いてる感じ?」
岡谷が諏訪に問いかける。
オカルトマスター(自称)として、その好奇心が刺激されたのだろう。
以前の『コトリバコ』の時、首を突っ込んで酷い目に遭ったのだが。懲りてはいないようだ。
「う、うん…手を出すと呪い殺されそう…」
「うげ。この前の『コトリバコ』みたいな?」
岡谷の言葉に、諏訪はふるふると首を振る。
「ううん、神様。それも、すっごく高位な」
「神様? 神様って、あの神様?」
青褪めた顔色のまま、諏訪はコクコクと頭を縦に振る。
榮は諏訪の言った『神様』という言葉を反芻する。
『神様』とは、人間が創り上げた崇拝の対象だ。
救いを求め祈りを捧げ、自然を敬い崇め奉る。
何百年も昔には、気象現象を神様の偉功と断言し、災害を妖怪の所業と断定していた。
今も敬虔な者は熱心に『神様』を信仰し、崇め敬い奉る。信仰の自由だ、好きにすればいい。
榮は『神様』を信仰しない。ほんの僅かの欠片でさえも。
いくら願おうが崇拝しようが信仰しようが、意味はない。
いないから無駄だと。そう感じ取ってしまったからだ。
だから、榮はこう思っている。
「神様なんて、いるわけないよ」
「さかえ…?」
「いないよ、絶対に」
「榮…? なんか怖いよ?」
食べ終わった器をお盆ごと持ち上げ、返却口へと歩いて行く。
ご馳走さまと声を掛け、出口辺りで二人を待つ。
ついむきになってしまった。これは反省しなければいけない。
『神様』などいるわけはない。それが、榮が至った結論だ。
「はぁ…」
深く溜め息を吐く。
神社の跡取り娘の諏訪の前で、あの態度をしてしまったのは失態だ。
「ご、ごめんなさい、さかえ…」
自己嫌悪に陥っていると、諏訪が謝ってきた。
諏訪に落ち度など欠片もないのに。
「ううん、私もちょっとむきになっちゃった。ごめんね。諏訪は悪くないよ」
「いや、けど私、てっきり榮が神様を信じてるものだと思ってたよ」
「どうして影も形も分からないのを信じなきゃいけないのさ。そんな物よりお金を信じるよ、私は」
「俗物だねえ。ま、そんなもんだろうけどさ」
岡谷はケラケラと笑って言う。
オカルトマスター(自称)としては、神秘的な存在をも寛容しているのだろう。いるハズのない神様でさえも。
榮にはとんと理解できないが。
「榮はもう終わり? 暇なら本屋行こうよ。買いたい本があるんだ」
「今日はもう終わり。バイトも夕方からだから問題ないよ。自転車も買わないとだし」
今朝の出来事で自転車が大破してしまったのだ。
このままでは通学に支障をきたしてしまう。本屋の近くには自転車屋もあったハズだし、丁度良い。
「諏訪は?」
「うーんと~ 今日はもう終わりにしたよ~」
岡谷が聞くが、諏訪は終わりにした、と言った。
つまり、だ。
「ダメだよ諏訪。サボったら岡谷みたくなっちゃうよ」
「そんなに授業サボってないからね私!?」
「だって、留年してるじゃないですか岡谷先輩」
「いや、だからそれは…てか敬語と先輩呼ばわりはやめて!」
岡谷の眼が泳ぐ。
何かを考えているようだったが、少し間を置いて一つ溜め息を吐いた。
「面倒だからいいや。諏訪、授業にはちゃんと出なさいな。おじさんもおばさんも、そこら辺はきっちりしてるでしょ」
諏訪とは幼馴染だという岡谷の言葉。
少なくとも、小中と同じ学校でご近所同士。幼い頃から近くで育った気心の知れた仲なのだろう。
頼りになるお姉さん、という風でもないが。
「だ、だって~ 私も一緒に行きたいから~」
「確か諏訪、それに岡谷も。明日はお昼で終わりでしょ? その時にしようよ。岡谷もそれでいい?」
「別にいいよ。本屋は逃げないからね。メジャーな本だから売り切れもしないだろうし」
「け、けど~ さかえ、自転車は…」
「歩いたってそんなに変わらないよ。諏訪が気に病む事じゃないって」
「う、うん…ありがとう…さかえ」
お礼を言われるような事でもない。
友人と一緒に遊びに行く事で喜ばない程狭量ではないのだ。
食堂の出口から離れる。
諏訪は講義棟へ、榮と岡谷は
「それじゃあ諏訪、授業頑張って!」
「それじゃあね~ さかえ~ おかや~」
手を振りながら二人の下を離れる諏訪。
「けど、神様が憑いてるかぁ…榮、罰当たりな事でもしたんじゃない?の」
「失礼な。私ほど清廉潔白な人間はいないよ」
「清廉潔白、ねえ。金の亡者で食欲に負けてると思うけど」
む、痛い所を突く。
確かに、お金は有れば有るほど良いと思っているし、好物がコロコロ変わる。
しかしそれは、誰でもそうではないか。
欲が有るからこそ、人間は人間でいられるのだ。
過ぎたるはなお及ばざるが如し、という諺がある。
人間、有り過ぎても無さ過ぎても良くはないという事だ。
欲の全く無い人間など、それは生きているだけの、人間の形をした何かだ。
「うわ、っと」
岡谷の方を向いていたせいか考え事をしていたせいか、段差に足を取られ、ふらりと姿勢を崩して前のめりになる。
その瞬間。
―――ズガン!
大きな音に後ろを振り向く。
すると、榮の元いた場所に何かが突き刺さっていた。
巨大な鉄骨だった。
確かに、この大学は新しい講義棟を建てる為に工事をしている。遠くからでもクレーンが見えるほどには大規模な工事だ。
この鉄骨はそのクレーンから落ちた物だろう。うむ、納得だ。
岡谷のすぐ隣を歩いていた榮の代わりにと、突き刺さっている鉄骨を見て、今更ながら実感が湧いてきた。
死んでいた。足を取られなければ。
「…やっぱり榮、お祓いした方がいいんじゃない?」
「…うん、私も思った。その内死ぬかも」
ザワザワと集まってきた野次馬を余所目に、榮は急いで学校を後にする。
岡谷には事情の説明を頼んでおいた。
こんな時に頼りになるのは、ただ一人。
榮の住処でもある『万屋 矢尾』の店主、矢尾だ。
―――
「た、ただ今戻りましたぁ…」
日が沈みかけ、闇が幅を利かせてきた頃。
榮はようやく『万屋 矢尾』へと戻ってくる事が出来た。
玄関を上がり居間へと入る。古物買取の受付へも続く部屋だ。
榮は普段からもこの部屋で寛いでいる。自分の部屋を間借りしているが、そちらは寝る為だけの部屋になっている。
「あら、おかえりなさい。珍しく遅かったじゃない。どうかしたの?」
夕刊を見ているのだろう矢尾は、そちらに視線を下ろしたまま榮に声を掛けた。
いつもと変わらぬ、黒いドレスのような衣裳に身を包んだ女性。
『万屋 矢尾』の店主、矢尾だ。
「えっと、引ったくりに遭いまして…」
大学を後にして十分ほど後。国道を少し過ぎ、近道をする為に路地に入った時の事。
後ろから近付いてきた、原付に乗るフルフェイスのヘルメットを被った人間に鞄を引ったくられてしまったのだ。
一瞬呆気にとられてしまったが、次の瞬間には全力で追いかけた。
カバンの中には財布や漫画本が入っているのだ。逃がすわけにはいかない。
路地ではあるが、この辺りは散歩ついでに通った事もある。地の利はあった。
塀を上り庭を抜け屋根を走り抜け、更に細い路地を全力で駆け抜け、追いかけ続ける事、数分。
大通りに出る道路に出る直前に、原付の正面に出る事が出来た。
さて、どうやって捕まえようかと考えていた時、自分の姿を視認した犯人は十字路を右折した。
そっちは袋小路だ! と追いかけると、犯人が宙に吹き飛んでいる瞬間を見た。
人が吹き飛ぶ光景を見る事など初めてだったので慌てていると、車の運転手が車から降りて電話を掛け始めた。
犯人は呻き声を上げていたが、逃げる様子はなかったので放っておいた。
数分すると、サイレンを鳴らした救急車とパトカーが到着した。
犯人が搬送されて行く姿を眺めていたその後、警察で事情聴取を受ける事になった。
追いかける事になった事情を説明するとなんだか渋い顔をされた。
念のため、被害届を提出しておいた。ついでに、犯人は凄いスピードを出していた事、運転手の方は引ったくりを阻止した事も言っておいた。
運転手の方が罪に問われない事を祈るばかりだ。
そんなこんなで夕方になってしまった。
途中、猫の溜まり場で和んで来た事は関係ないだろう。きっと。
「引ったくり、ね。犯人は?」
「殆ど無傷みたいですよ。道路を転がってましたから、擦り傷くらいかな?」
「この近くでよくやるわね。ま、その犯人もツイてなかったんでしょうね」
確かに。
十字路を曲がった所で、停まっていた車と正面衝突するなど。
榮に追いかけられて焦っていたのだろう。結局は引ったくりをした自業自得なのだろうが。
ツイている、ツイていない、といえばだ。
「今日、本当にツイてなかったんですよ。運が本当に悪くって、参りました」
「良い日もあれば悪い日もあるわよ。今日運が悪かったなら、明日はツイてるわ」
「そうですよね。こんな日はそうそう続きませんよね」
「ま、そんな事よりも。今日のお夕飯は?」
「肉じゃがとほうれん草のお浸しですよ。急いで作りますね」
「いいわよ、そんなに急がなくても」
そう言われるが、家賃の代わりに朝夕の食事を作る事になっているのだ。
自分の料理の腕を磨くためにも、手を抜くわけにはいかない。
米を研いで炊いて置き、味噌汁は鯖の水煮の缶詰と筍を切った物。
肉じゃがは野菜と肉を切り味を付け煮込む。
ほうれん草は軽く茹で、食べやすい大きさに切って小皿へ盛る。
全てを一時間ほどで済ませ、お盆に乗せて居間へと持っていく。
矢尾と一緒の食卓で、矢尾と一緒の食事をとる。一週間ほど経つが、もう慣れたものだ。
「肉じゃが、どうですか?」
「良いわね、私好み。美味しいわ」
以前、茅野さんから頂いた肉じゃがの味を思い出しながら作ってみた。
自分なりに上手くできたとは思うが、やはりまだ茅野さんの味には程遠い。
やはり、小娘にあの味を再現するのには難しいのか。
食器も片付け終わり、今は食休みの時間だ。
矢尾は何やら書類を書いている。今日はお客様が古物買取に来ていたようだし、その関係だろう。
榮は榮で、漫画を読んでいた。
家族全員が神様で、その奇跡や偶然を諾々と受け入れて学校生活を謳歌するという物だ。
それを読んでいるとき、ふと思い出した。
今日のお昼に、諏訪に言われた事を。
「そういえばなんですけど…」
パタリと漫画を閉じ、矢尾に声をかけた。
矢尾はもう書類を書き終っていたらしく、恒例の晩酌をしていた。
時々で日本酒、ウィスキー、ワインと変わっているが、どうにもお酒が好きらしい。
肝臓を壊さなければいいのだが…
「どうしたの? お酒でも飲みたくなった?」
「いえ、未成年なので遠慮します。それでなんですけど、神様が憑いているって言われました」
上機嫌に杯を傾けていた矢尾だったが、榮の言葉にその手を止める。
「…それ、誰に言われた?」
「諏訪ですよ、同級生の」
「諏訪の跡継ぎ、それなら…」
何やらブツブツと呟いているが、その内容は聞き取れない。
「殺しておけばよかった」と聞こえたが、何の事だろうか?
「そう、ね。明日になったら解決してるわ。安心して」
「え? あ、はい。分かりましたけど…」
「少し、酔いを醒ましてくるわ。鍵、閉めておいてね」
そう言うと、残っていた酒を一息に飲み干し、矢尾は部屋を出て行った。
どうしたのだろうか? と思うが、店主である矢尾の奇行は今に始まった事ではない。
心配せずとも大丈夫だろう。
玄関の鍵を下ろした後、居間の灯りを消した。
薄暗い廊下を抜けて階段を上がり、自室に入って電気を点けた。
丸い蛍光灯が白い光で室内を照らす。
部屋は畳敷きで十畳ほどの広さ。
引き出しの付いた小さめの座卓には座椅子。座卓の上には漫画本と共にカメラが置かれ、大きめの窓からは暗い景色が望めた。
壁際には大きめの箪笥。榮は服を持っている方ではないから、肥やしになる衣料品はないが。
これらの家具は、部屋に元々置かれていた物だ。元いた借家にも家具は余りなかったので、これくらいが丁度よい。
襖には布団が仕舞われている。もう少し寛いだら早めに寝てしまおう。
反対側の襖の向こうにはもう一部屋、同じ位の大きさの部屋がある。覗いてみたが、この部屋とそう変わらない間取りだった。
『なあなあ、明日は何を切るよ? 大根か? 人参か?』
そんな風に包丁が話しかけてきた。
料理をする時や使い終わり洗った後は台所に置いておくのだが、普段は自室に置いている。
榮が好き好んで置いているわけでは無い。この包丁は切れ味を自在に変えられるのだ。つまり、包丁の匙加減ひとつで料理が出来るか出来ないかが決まってしまう。
一度、台所に置きっぱなしで寝てしまった時があったが、次の日の朝食の用意に苦労した。
ヘソを曲げたのか、切れ味を最低まで落として無言の抗議をしてきたのだ。あの時は豆腐を切るのにも難儀した。
さっさと捨てればよいのだが、手入れ要らずの包丁など世界のどこを探してもないだろう。
時々野菜を切る、寝る時は部屋に置く。その二つを守れば問題はないのだ。
しかしまったく。
夜な夜な包丁を研いでいると誤魔化してはいるが、これでは矢尾に変人と思われてしまう。
部屋に包丁を置くなど、全くもって不自然だ。
「使ったタマネギが残ってるから味噌汁に入れて、それにお麩とジャガイモ。あとは残った肉じゃがかな」
『玉ねぎか。ありゃあ体に染みて良い。スッキリする』
包丁の事など知った事ではない。
布団を敷きシーツを被せて寝転がる。包丁は座卓の上に置いておいた。
「それじゃあおやすみ」
『おうよ』
紐を引っ張り電気を消し、毛布をかける。
窓からは僅かな月明かりが漏れ射し込んでくる。
離れた場所にある田んぼからだろう、カエルの合唱が聞こえて来た。
静かでいい。祖母の家を思い出す。
山の中で、小さな家で、一人で寝ていた時の事を。
なんだか無性に寂しくなる榮。毛布を顔まで被り目を瞑る。
うつらうつらと眠気に襲われ、いつの間にか眠りに就いていた。
―――
「そんで。どうにかなった?」
うどんを食べ終わった岡谷が話しかけてきた。
今日のシャツは、横に書かれた『UFO』と、縦に書かれた『UDON』の文字。
その頭文字Uが重ねられL字型に並べられ、中央には底の深い器が逆さに浮かんでいる。
もしかしてUFOのつもりなのだろうか?
「そうだね。トラックに轢かれそうにもなってないし、植木鉢も落ちてこないし。いつも通りかな」
「まあ、それが普通なんだけどさ。戻ってよかったじゃん。何かしたの? お祓いとか」
「別に何も? 普通にしてただけだよ」
矢尾が昨日『明日になったら解決してるわ』と言っていたが、その通りになった。
まさか矢尾は、未来でも見通す事でもできるのだろうか。
「やっほ~」
ザワザワとした食堂でもよく通る、このホワホワした声。
そちらに目を向けると、青藤色の鮮やかな色のお着物が見える。諏訪に違いない。
いつも通り岡谷の隣、榮のはす向かいに座って巾着からおにぎりを取り出した。
「あ、そうそう諏訪。榮、もう大丈夫みたい」
「大丈夫~?」
そう言い、諏訪は榮の後ろへと目を向けた。
少しの間。
そして諏訪は、目を点にして数回瞬きを繰り返し、グシグシと目を擦っている。
「さか…え? どうやって…」
「どうやって、って…なにも?」
榮が何かをした覚えはない。
矢尾の言葉が引っかかるが、一般論を言っていたのだろう、きっと。
「やっぱり居なくなってる? 昨日言った『神様』」
「う、うん、何もいない…」
岡谷と諏訪が話している声が聞こえてくる。
それのよると、昨日諏訪の言った『神様』はいなくなっているようだ。
『神様』なぞいるはずはないが、それが消えたのならばいい事だ。
「よし、それじゃ行こうか」
お盆を持ち、立ち上がる榮。
昨日の約束。駅前の本屋へ行く事と自転車を買う事だ。
「お、ノリノリだね榮」
岡谷が茶化してくるが、友人と出かけるのが楽しくないわけがない。
「そうだ、ついでにカラオケに行こうよ。諏訪、大丈夫?」
「わたしはいいよ~ カラオケなんて久しぶり~」
諏訪はカラオケに行ったことが無いと思っていたが、どうやら経験があるようだ。
外見も内面も完全な大和撫子なのだから、勘違いをしていた。
「お、榮その顔。諏訪は上手いよ~ ヘタな歌手よりもずっとね」
「イヤだな~ 私なんて全然上手くないよ~」
いつもの笑顔を浮かべて言う諏訪であったが、榮はその笑顔に背筋が震えた。
謙虚でありながらその実自身に満ち、他を寄せ付けない実力を持つ。強者特有の余裕。
―――諏訪…恐ろしい子!
榮は驚愕しつつ食器を返却口へと戻し、二人と共に大学を後にした。
その後、次の日が休みだったことも手伝い、夕方を過ぎてもまだしばらく、三人でカラオケを続けたのだった。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:ササミジャーキー
設定:
至って普通の大学生。
我王には懐かれているらしく、度々散歩を依頼されている。時給は九百円らしい。
ダイ・ハード的な一日を過ごした。諏訪曰く『神様』が憑いていたらしい。
動物は大体好き。
『神様』なんて居ない派。
好きな曲は昭和五十年代の落ち着いた物。
・名前:我王
性別:オス
職業:犬
好物:ササミジャーキー
設定:
大鹿さん宅で飼われているゴールデンレトリーバー。十一歳。
度々榮に散歩されており、リードを引っ張ったりワンワン吠えたりするが、本人(?)は彼女を信頼しよく懐いている。頭がとても良く、榮や主人にはとても忠実。
『悪意』にはとても敏感で、何度か榮を救った。
何度も何度も転生してそうな名前だが、きっと関係ない。
・名前:禍津
性別:女
職業:呪い師
好物:酒・矢尾
設定:
創られた人形のような、とても美しい女性。
ドッグランで休んでいた榮の前に現れ、矢尾との関係を詰問した。
その後、矢尾と何やら話し合っていたようだが、内容については不明。
禍災の師。その腕は特級品。
・名前:岡谷
性別:女
職業:大学生
好物:うどん
設定:
短髪で陽気な大学生。
オカルトとSFが大好き。そして珍妙なTシャツを着る事に定評がある。今回は『うどんを啜るグレイ』Tシャツと『UFO×UDON』Tシャツ。
敬語と先輩呼ばわりは嫌いな人。
『神様』はそれなりに信じる派。
得意な曲は流行りの物。
・名前:諏訪
性別:女
職業:大学生
好物:御御御付け
設定:
大和撫子な大学生。
実家は神社。本人も、生家に関連した修行をしているらしい。お祓いとか。
榮に憑いている『神様』を霊視した。彼女曰く『手を出すと呪い殺される』程に高位な『神様』らしい。
榮や岡谷と遊びに行くため、授業をサボろうと画策するが岡谷に宥められた。
頑固な彼女だが、岡谷の言う事は尊重するなど、岡谷との付き合いはかなり長い。
神様はいるよ派。
好きな曲は演歌。岡谷曰く『そこらの歌手よりも上手』
・名前:『神様』
性別:不明
職業:不明
好物:不明
設定:
榮に憑いていた『神様』
諏訪を呪い殺せるほどに高位であるらしく『手を出すと呪い殺される』と諏訪は断言した。
榮に憑いていた理由は不明だが、彼女がダイ・ハード的な一日を送ったのは、確実にこの『神様』のせいだろう。
次の日には榮から離れていたらしく、諏訪は困惑していた。
『悪意』の塊。その霊威は本物。




