一話 始まりの朝
夢を見た。
子供の頃の夢。
決して愉快とは言えない、夢……。
新学期を迎えてまだ日が浅い朝。
誉志 佳澄はスマートフォンに設定された目覚ましのアラームが鳴る前に目を覚ます。
時刻は午前六時。いつもより早い起床だが、既に庭からはざっ、ざっという擦れる音が聞こえてくる。長男が庭で掃き掃除を行っているのだろう。
そんなことを頭の片隅で思いながら起き上がると、寝間着を脱いで壁に掛けられた制服に手を掛ける。
しっかりと折り目の付いたシャツに袖を通し、慣れるのに苦戦したネクタイを結ぶ。
身支度を整え終えると、ある部屋の前で足を止め、板張りの床に膝をつく。
そのまま眼前の襖に手をかけ開いていくと、見慣れた仏間が広がっている。
失礼しますと一声かけて手をついてから室内へ入ると、洗練された所作で仏前へ進み、目を閉じて手を合わせる。
この瞬間、周囲の音が消えるような錯覚を覚える。
朝の挨拶を終えると、仏間を後にした。
一息ついてから部屋に戻り、カバンとスタンドに掛けられた眼鏡を手にして、ようやく階下へとおりていく。
居間に入ると、食卓には既に味噌汁や魚が並んでいた。
「おはよう佳澄、朝早くから大変だな」
父の誉志 桔梗が手にしていた新聞から顔を上げて佳澄に笑いかける。
「おはようございます。毎月とかじゃないからこれくらい平気だよ」
言いながら座卓の定位置につくと、それを見計らったように桔梗と佳澄の前に、それぞれ茶碗が置かれた。
顔を上げると、長男の妻、桃花が「おはようございます」と笑っている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。お弁当ここに置いておくから、忘れないように持って行ってね。
生徒会を頑張ってる佳澄君に、今日は特別にチョコレート入れておいたわよ」
最後は声を潜め、まるで悪い作戦を行っているように笑う彼女につられて笑うと、佳澄も小さく「ありがとうございます」と返した。
「緒元はまだ終わらないかしら。遅くなっちゃうし冷めちゃうから、お父さんと佳澄は先に食べちゃいなさい」
母、雪子の言葉にふと時計を見やると、長男の緒元が戻る時間によっては慌ただしくなってしまうと気づいた。
ありがたく「いただきます」と手を合わせ、炊き立てのご飯を口に運んでいく。
軽く今日の帰り時刻などを話して食事を済ませると、桃花からの弁当と水筒をカバンに入れて立ち上がった。
「もう行くの?」
桔梗の言葉に、佳澄は眼鏡を掛けながら頷いた。
「うん、ちょっと早いけど、その分生徒会室の掃除でもしておくよ」
「そうか。あまり気負いすぎずに、気を付けて行ってくるんだよ」
「はい、行ってまいります」
頭を下げてから玄関に向かい靴を履いていると、丁度タイミングよく緒元が玄関の引き戸を開けた。
「おはよう佳澄、もう行くのかい?」
「おはよう緒元兄さん。うん、ちょっと早いけど支度も終わったしね」
「そう、お弁当は持った? ハンカチは? 教科書とか、忘れ物はないね。スマホや鍵は?」
「大丈夫だって。桃花さん達おなかすかせてるよ」
「あ、もしかして待ってるの? いけないいけない、行ってらっしゃい」
「行ってまいります」
*****
いつもの通学路を自転車で走る。
『区立第一高校』に到着すると、まっすぐ一階にある職員室に顔を出した。
職員室は既に軒並み教師が揃っており、その中の一人が笑顔で声をかけてきた。
「おはよう誉志、早いな」
「おはようございます、吉村先生。生徒会室の鍵お借りしてもいいですか?」
「そう言うと思ったよ、ほら」
生徒会顧問の吉村 哲雄は、佳澄の手に鍵を乗せる。
『生徒会室』と書かれているタグが付いた、見慣れた鍵だ。
「ありがとうございます、軽く掃除したら校門行きますね」
「ああ、こっちも一段落したら向かうから」
「わかりました」
生徒会室は二階の一番奥にある。
会議机にホワイトボード、書類棚と事務的な空間だが、佳澄はこの整頓された空間は嫌いではない。
時計を見ると、やはりまだ時間に余裕がある。
ロッカーからほうきを取り出すと、そのまま掃除を始めた。
そうこうしていれば当番の生徒が登校し、時間を見て校門へ向かう。
今日は年に数回ある挨拶運動の日だ。
多くの生徒は素通りするものの、挨拶を返してもらえると嬉しく感じる。
始めは恥ずかしそうにしていた当番も、次第に楽しそうに挨拶をするようになっていった。
その時、佳澄の視界に一人の生徒がとまる。
「山里 観月!」
突然の名ざしに、近くの生徒達も呼ばれた本人も驚いて佳澄に視線を向けた。
山里 観月は、第一高校でも目立つ生徒の一人だ。
主だったものはその容姿で、百八十より高い身長に金色ツーブロックの髪、時代外れの腰パンスタイル。強面も手伝い、近寄りがたい雰囲気を放っている。
そのため教師からも目を付けられやすく、よく吉村から叱責を受けている姿を目にした。
「なに?」
「なにじゃない。どうしていつまで経ってもその格好のままなんだ。髪も服装も、前に吉村先生から注意されただろう」
「あー? 別にお前に迷惑かけてねぇだろ。クラスも違ぇんだから」
「関係ない。というより、俺と同じ学年なのになんでそんなに頭は中学生のままなんだ、恥ずかしくないのか」
「なんにも」
あっけらかんと言ってのける様子に、佳澄は眉間を押さえる。
一緒に挨拶していた生徒がおろおろと二人を見ていると、面倒くさそうに山里が頭を掻いた。
「ってかさぁ、お前だって髪の毛長いじゃん。ケツよりなげぇ癖に、なんでガタガタ言ってるわけ」
その言葉に佳澄は別の意味で眉間にしわが寄る。
「髪の長さは関係ない、吉村先生にも確認済みだ!」
「吉村吉村って、なんだよお前、あいつのフンかよ」
「話をすり替えるな、後ろめたいから話題を変えようとしても無駄だ!」
「んなつもりねぇよ。……んだよさっきから、俺はダメなのにテメェの髪はそんなに大事ですか。女かよ」
瞬間、佳澄の手が観月に向かいかけたが、ぐっと拳を握って抑え込む。
うつむいて何度も大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと顔を上げる。
その顔に、思わず観月の顔が強張った。
「……俺は、男だ」
「お前たち、なにやってる!」
佳澄と観月の間に吉村が割って入る。
「誉志、大丈夫か?」
「は、はい」
「おい山里、お前何をしている!」
「はぁ? 何もしてねぇよ」
一触即発の吉村の空気に、佳澄が慌てて口を開く。
「せ、先生違います! 暴力とかそういうのじゃなくて、俺が注意をしていただけです!」
佳澄の言葉に吉村が顔を向ける。
まだ怒りの感情が残っているようだが、先程よりも少し雰囲気が軟化したように感じた。
「本当か?」
「は、はい……」
「……そうか。だが山里、お前は問題を起こしすぎだ。明日の放課後、生徒指導室に来るように」
チ、と小さく舌打ちをすると、返事をしないまま観月は校舎へと歩きだした。
*****
昼。佳澄は桃花が持たせてくれた弁当を机に広げていた。
特別と入れてくれたチョコレートパイを真っ先に口に入れる。
その様子を見て、前に座ってパンの袋を開いていた男。佐藤 和義が苦笑した。
「あららぁ、随分荒れてるねぇ、佳澄」
「そんなことないよ」
と言いながら手を合わせて弁当を食べ始める。苛立ちを見せるものの、相変わらず綺麗な食べ方を崩さない観月に、佐藤はパンを頬張りながら感心していた。
「でもさぁ、佳澄がそんなにピリつくなんて珍しいねぇ」
「……そんなにわかりやすい?」
「多少ね」
そう言いながらあーんと開いてきた佐藤の口に、弁当の中に入っていた卵焼きを小さく切って摘まみ、器用に入れる。
佐藤と佳澄はまだ物心つく前からの幼馴染だ。互いのことはほぼなんでも知っているからか、ちょっとした仕草でも言わんとしていることは分かる。
佐藤は咀嚼し終えると、うーんと唸りを上げた。
「挨拶運動の時、なんかあった?」
いつになく真剣な佐藤に小さくため息をつくと、佳澄は重い口を開く。
「山里観月と、ちょっとモメた」
「あー、なるね」
山里は良くも悪くも目立つ存在だ。名前を聞くだけですぐに分かる。
「ま、佳澄はああいうタイプ苦手だろうしねー」
「そういうこと」
また今朝のやり取りを思い出し眉間にしわを寄せる佳澄の前で、パック牛乳を飲み干しながら、佐藤がまた唸りを上げた。
「でもさ、山里って髪と服装以外これといって違反してないんだよね」
思ってもみない言葉に、思わず佳澄の手が止まる。
「どういうこと?」
「あ、これあくまで俺の印象ね。合同学習とかになった時に見たモンだから、たまたまかもしれないけどさ。
山里、授業ちゃんと聞いてたし掃除もしっかりしてるし、下手な男子生徒よりもずっと真面目そうなんだよな」
「……」
黙り込んでしまった佳澄に小さく笑うと、佐藤が務めて明るく続けた。
「何度も言うけど、あくまで俺の印象ね。そもそも佳澄がそんなに怒る理由なんて『いっこ』しか浮かばないし。向こうも無神経なとこはあったと思うよ。ほんとにそうならね」
再度念を押してから今度はパックのミルクティーを開封する幼馴染を見ながら、佳澄も弁当に箸をつけた。
*****
同日十七時半過ぎ。
同市内のファミリーレストランのバックヤードで、観月はドリンクバーから貰ったコーラを片手に、同じアルバイターの織田 ちえみに今日あったことを愚痴っていた。
「――ってことがあってさ。ほんとなんなんだよ。確かに俺も言い過ぎたかもしれねぇけどさ」
織田は手にした鏡でメイクの最終チェックをしながら、小さく息をつく。
「うーん、でももしかしたらさ、女みたいって言われるのが地雷だったのかもよ」
思ってもみない言葉に、観月の眉間のしわがより一層深くなる。
「地雷ぃ? あんくらいで?」
「そういうとこだよアンタ。人によって導火線とか地雷とか違うんだから、今回は多分アンタが悪いよ」
鏡から顔を上げる織田を見て、観月はなんとなく「あ、説教だ」と察した。
茶色のカラーコンタクトをはめ込んだ瞳が、まっすぐに観月を見据える。
「そもそもさ、そのカイチョーサマは生徒会長として正しいことしてたんでしょ?
カイチョーサマも口が悪かっただろうけどさ、アンタが校則守ってないんだから注意されるのは当たり前でしょうに」
ここまで言われているが、観月と織田は、観月がアルバイトを始めてからの付き合いなので、一年そこそこの関係だ。
彼女の容姿は腰ほどまである緩く巻いた茶色の髪に、整えられたネイル。まさに『今時』というものだが、頭がよく真面目なところがある。
さらにサバサバとした性格で、観月にとって、とても心地の良い友人だ。だがその性格だからこそ、彼女の発言には閉口することも多い。
「破ってねーし」
「それあんま通じないぞ~。ま、アタシがどうこう言うことでもないけど。アンタ達、多分根本的に合わないだろうし。
でもま、アタシならどんなヤツであれ、やっちまったなら一言謝るだろうけどね」
さ、そろそろ引継ぎ聞きに行かないとね~、と軽く言いながらメイク道具をしまう織田の背を見ながら、観月は口を強く結んだ。




