二度目の離脱
次の作業日はちょっと面倒臭い小森だった。
彼は理詰めで、山田に説明を求めてくる。
理論立てて説明できるなら、こんなことはしていないのだが、そういう結論に至らないのが不思議だ。
高位の僧侶で、大学教授の彼に対し、頭が悪いのかという疑念を抱いてしまい、山田は慌てた。
今日はルームランナーで走っている途中に面倒な事を言い始めた。
「君、山田君。諸法無我という言葉を知っているかね?」
「知りません」
「そうだろうね。全く今の若い者は、何も知らないままで生きているんだから。私は今、求不得苦、つまり求めても得られない苦しみをかみしめているのだよ」
「はい。すみません。何も知らないです」
素直に謝っておいた。
「君は素直なのがいいね。学生なんかさあ、わかったふりして何にもわかってないんだよ。目を見ればわかる。私ほどの眼力を持つとね、何を考えているかなんて、だいたいお見通しなんだ。それにね……」
彼は語り続けた。
「はい、全く知りません。でも、走りながらそれだけ喋れるとは、さすがに修行僧は肺活量がすごいですね」
ルームランナーから降りた小森は、ぜえぜえと辛そうな息をしていた。
「修行は若い頃にするもので、今は運動不足と酒の飲みすぎで、よたよただよ。肺活量は、お経や説法、大学の講義で鍛え続けているから大丈夫だけど、倒れそうだ」
お気の毒ではある。
毎回こんなふうに仏教と愚痴を混ぜた話を聞かされて、毎回、「知りません」か、「わかりません」と答える。
残念ながら山田は、仏教に興味がなかった。
四人のうち、唯一宗教に無関係な山田が、離脱体験を覚えているのは皮肉な話だと、いつも思っている。
「これは馬の耳に念仏というのでしょうか」
そう言ったら、きょとんとして、「うまい事言うね」と初めて褒められた。
そして立花は別格だ。
彼の事は尊敬している。文句も愚痴も、説教も垂れず、ひたすら黙々と実験指示に従ってくれる人格者だ。
「僕、立花さんが、その人だと思っています。ですから頑張ってくださいね」
そう言うと、あの素敵な微笑みを山田に向けてくれる。
「私は、実は君が本物ではないかと思っているのだけど、自覚は全くないの?」
山田は笑いだしてしまった。
「まさか。ありえませんよ」
「なぜ?」
なぜって。……考えるまでもない。
「絶対に僕ではありません」
「謎の、強め断定だね」
立花は、う~ん、と唸りながら何か考えている。
それにしても、どの瞬間も格好のいい人だ。この人に決まっていると山田は確信していた。
今日は会社に出社の日だ。離脱研へは今週は水、木に行く予定。仕事内容についてたまに聞かれるが、話す事は出来ない。
そのせいで多少敬遠されるのか、最近確実に同僚たちの接し方が変わってきていた。
全く変わらないのは松岡主任だ。
「おい、山田。忙しいか? たまには飲みに付き合えよ」
「そうですね。行きましょう」
久しぶりに定時後に飲みに行く事になった。
今日は焼鳥の予定。炭火焼きの軽く焦げたネギを思い、気分が上がる。
一時間の残業の後、松岡主任と二人、会社近くの美味しい焼鳥屋に向かった。
オフィス街の人込みの中で、目が合った女性がニコッと微笑んだ。山田も反射的に微笑んだ。
たったそれだけのことなのだけど。そういえば、今までこういうことは無かった。
「あれ?」っと小さく声を出していた。そして山田は自分が少し変わったのかもしれないと気付いた。
最近みんなによく言われる。
松岡主任はその様子を目敏く見ていて、「ふ~ん」と言う。
「山田、何があった? 言えよ」
「わからないですよ。でも僕、少し変わったのかもしれませんね。自覚しました」
焼鳥屋で、ネギマとレバーを前に、ビールの最初の二口で、唸る。
ああ、最高!
「お前の事をさ、少しカッコよくなったんじゃないか? とか言う女子社員がいてさ。俺には以前と同じに見えるんだけどなあ」
(気になる。その女子社員って誰?)
でも聞けない、へたれな山田は健在だ。
少し期待して松岡主任を見たが、彼の興味は『お品書き』に移っていた。
じっくり真剣に読んで、皮を二本とつみれを注文した。
山田は梅紫蘇巻きと砂ずりと、手羽を選ぶ。
「離脱研には、話題の立花さんとか、その他色々な人が来るだろ? 何かいい事ないのか?」
そう聞かれて、ふと串を持つ手を途中で止めた。
「立花さんがカッコいいです。憧れます。ああいう人を真近に見ているから、いつの間にか影響されているのかも」
「そういうものか? そういえば、お前のあれって副業? 出向?」
「出向が近いですかね」
その後は、仕事の話や、同僚の噂話なんかをして過ぎていった。
お会計をする時に、金額に負担を感じなくなったのも嬉しい変化だ。
高給取りは良いものだ。期間限定だけど、と加え、山田は自分を戒めた。
水曜日の朝、離脱研に着くと、いつもとは違う状況が山田を待っていた。
今日の被験者は立花のはずなのに、その立花がサポート役として、実験の準備をしている。
「これ、一体どういうことですか? 立花さん」
「君が本物かもって先日言ったでしょ。私の勘だけど、ぜひ一度だけでも試してみたいと実験メンバーに頼んでみたんです。今日だけ特別に交代させてもらったから、今日は私が君のサポートをしてみるよ」
山田に対する実験は既に終わっている。無駄だと思うがと山田は首を傾げた。
宇宙人との会合の日が迫るのに、何の成果も上がっていないため、最近、離脱研全体に焦りが見えてきている。
今では、実験の対象は最初の三人以外にも広がっている。自己申告者の中から、見込みのありそうな人物を選んでいるのだ。
その人数は、日を追うごとに増えていく。
残念ながら、どの被験者も、いまだに何の反応も示していない。
「山田さん。何にも考えなくていいですよ。離脱した時も、あれこれ考えていなかったでしょ。気楽にやってください。出来るだけサポートしますよ」
立花にそう言われると、何でもやろうという気になる。
山田は彼に全てをゆだねた。
苦しいけど、どこか楽しい気分でぼんやりと苦行を続けている内に、再び山田に異変が起こった。
気づくと、山田はまた、体中から響き渡る虫の音の中に居た。今回は周囲がほの明るい。
そして、ぼんやりした透明な何かの向こうに、立花が見えた。
他のスタッフの動きが激しくなり、ビデオカメラが三台も実験室内に運び込まれる。自分はどうしたらいいのだろうかと、しばらく迷った。
その時、何かが山田を呼んだ。
次の瞬間、山田は3Dの真っ黒な世界に居た。以前と同じくゴージャスな光のリボンが見える。位置関係は少し違うようだ。
呼ぶものの方へ向かおうとして、今回は意識してスピードを緩めてみた。
ところが、スピードコントロールは、そう簡単に出来るものではないようだ。
ビューっと流れるか、止まっているかの二択。
呼びかけの中心を挟んで、ジグザグに動くような軌跡になってしまう。
止まる前に少しゆっくりの時間があるが、せいぜい数秒だ。
つまり、コントロール不可能らしい。
帰ろうかなと考えた途端に、山田は自分の体で目を開けた。
「あれ、ここは?」
立花が、「大丈夫ですか」と声を掛けてくれた。すごくホッとする。
「お疲れ様。ゆっくりと、今の体験を話してもらえますか?」
穏やかな笑顔で立花が言う。その後ろに重なるように研究員が集まって、のしかかっている。圧迫感が半端なかった。
「ちょっと、起き上がらせてください」
そう言って、実験用の椅子から立ち上がり、周囲を見回すと、薄暗い実験室の隅に、コオロギがたくさん入ったガラスケースが並んでいる。
そちらに移動し、座っていた場所を見ると、アングルは一緒だった。
山田はこの場所から見た立花と研究員たちの様子を話した。
研究員の一人が聞いてきた。
「そこにいるとき、君はどんな形をしていたの?」
「自分の事は見えないので、分からないです。ただ、ケースのガラス越しに見ていたようなので、ケースの中にいたのだと思います」
研究員たちは、ケースの中に居た時の僕の形状に付いて、議論を始めた。
「君、見え方がいつもと違ったり、色が違ったりしなかった?」
「今と同じ感じです」
女性研究員が、「細部は後ですよ。進めましょう」と言い、その後の体験を話すよう促された。
「離脱に気付いた後、自分の体に戻ろうと思いました。皆さんが僕の周囲に群がっているのが見えたし、これで十分だと考えたのです」
研究者たちは必死でメモを取り、録画し、マイクで音を拾っている。
「その時、誰かに呼ばれたような気がしてそちらの方を向くと、同時にあの黒い空間にいました。一瞬の内にです」
「黒い空間って、宇宙空間?」
ゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
「わかりませんが、風景は前回と同じような感じです。呼んでいる場所に近付こうと試しましたが、速度の調整がうまくいかず、行き過ぎてしまいます。どうも高速で移動するか、停止するかの二択みたいです」
「呼ばれるってどんなふうに?」
「耳に聞こえるわけではないけど、凄く気になる感じがします。経験のない感覚です」
そうやって、聞き取り調査は続いた。




