動揺
「おはようございます、言葉先輩」
昇降口の前でたまたま言葉先輩に遭遇した彼は言った。
「お、おはよう、明くん」
妙な緊張感が二人の間に漂っていた。
もっと明るく、フランクに接したって構わない。むしろそうしなければいけない間柄に自分達があるような気がなんだかしていた。
言葉先輩は「言葉先輩」のままであって、「言葉ちゃん」だとか「言葉」にはなりえない。
その以前と変わらない言葉遣いが、打ち破れない距離の壁を象徴している。
そんな風に彼女が寂しさを感じていた矢先。
「こ、この間は、付き合ってくれてありがとうございました」
彼は彼女を真っ直ぐと見据えてそう言った後、すぐに目を逸らした。
「ごめんなさい、なんだか距離感がうまくつかめなくて……」
その言葉を聞いた瞬間に、彼の仕草は単なる強張りではなく、もっと愛らしいものに見えてきた。急に彼が近くに来たような気がして、彼女は一転嬉しくなった。
「ううん、私だってそうだから……全然慣れてなんかいないし……」
そういうと彼は不安がちに動かしていた視線を再び彼女に向けた。視線が交錯する。
一瞬の沈黙があった。
「「はははははは」」
二人は同時に笑い出した。
ぎこちなさはむしろ愛らしく、二人の中で親近感に変わっていった。
「……」
「……」
笑いの後には再び沈黙が起きた。
二人とも台詞が飛んでしまった役者のように、ただ棒立ちして視線を送っていた。
その舞台を歩きながら眺める人々は、口に手を当てながらじろじろ二人を見つめている。
「それじゃあ、教室に行きます」
そんな一言がどうして言えないのだろうか。
「「それじゃあ」」
声が再び重なった。
「「どうぞ」」
千日手の幕が下りる。不毛な譲り合いは、果たして誰が終わらせるのだろう。
下駄箱に敷き詰められた木の板の音だけが響いていた。
「行きましょうか、教室に」
沈黙をものにするのは彼の仕事だった。
だが、その言葉には主語は付いていないし、勧誘の形をしている。
一人で行うことさえ、最早一人のものでないのかもしれない。
「ええ」
昇降口の前で立ち尽くしていた二人はようやく上靴に履き替えた。
二人はなぜか、上靴を履いた自分達が別れなければならないことに気付いていなかった。
彼がいつものように階段の前で右折をして、彼女がいつものように階段を上ろうとするまで。
その行動に気付いた二人は、寂しそうに別れの挨拶をした。
チョークの快音が響く教室の中、生徒たちが奇妙にも全員椅子に座っている。
なんだ、普通の授業の光景じゃないか、と思うのかもしれない。
それでも、野生動物時代の人間と比べれば、大分異常なことじゃないか、と彼は思う。
なんでこんなとりとめもないことを彼が考えているのかと言えば、彼は今日も今日とて授業で上の空だからだ。
集中している(少なくともそう見える)人間がこんなに多くいる空間が異常に思えて仕方がない。
「全部先輩のせいです」
女々しい責任転嫁をして、彼は窓から空を見る。
――同じ空を、彼女も見ているのかもしれない。
「勉強、教えてもらえるかな……」
自分の中に残っていたほんの少しの真面目要素を発揮して、彼はこっそりそんなことを思った。
そう呟いた途端、不思議と頑張らないといけない気がして、彼は授業に意識を戻した。
「ごめんね、急に集まってもらっちゃって」
「いえいえ、言葉先輩の頼みですから」
地学講義室に集まった二人が会話をしている。
当然この場にはいつものように秋里先輩だっているわけだが。
秋里先輩は何の変哲もない表情で何の変哲もなく話している二人を見ていた。
「まあ、とはいってもいつものように演説会の話なんだけどね」
「そ、そうですよね」
――何の変哲もなく――そう意識していると急に距離感が分からなくなったような気がして、彼は一瞬言葉に詰まった。本当は何の変哲もなくなんてないのだ。この二人は。
秋里先輩は相変わらず表情を動かすことがない。
「えっと……」
春山先輩は春山先輩で、言うべき言葉が分からなくなっている。
二人の間には確かに不思議な雰囲気が流れていた。
「……何かあった?」
秋里先輩は小さな、しかし鋭い声で尋ねた。
「「いやいや、なんでも」」
二人の声は変にシンクロしてしまって、逆に口裏を合わせているかのような違和感が生まれる。
「ふーん、なるほど」
何が「なるほど」なんだろう、二人の頭の中でそんな疑問が重大な問題として駆け巡ったが、それをなんとか押し殺した彼女は、話の本題に入った。
「えっと、今回の演説会も基本的にはいつもと変わらないけど、ちょっと宣伝の仕方を変えようかな……と」
「具体的には放送部と広告サークルに協力を頂けることに……」
「広告サークル?」
彼には聞き慣れない名前だった。
「学内広報とかキャッチコピーの大会への出場とかをするところ。尤も、この学校の団体に実績なんてないから、今の所そういうことになっているらしい、としか言えないけどね」
秋里先輩が助け舟を出す。
「そんなものまであるんですか……それにしても、そこまでして広報をするって中々大胆なことなんじゃ……」
自分がただ話したいことを喋っているに過ぎない場に、こんなにも壮大な宣伝がなされる予定になっていることが彼には信じがたかった。
「なんだか緊張してきました……」
そう言って彼は机の上に上げた手をもじもじと動かしている。
「らしくないね、舞浜くんにしては」
秋里先輩はその様子を見て言った。
今更自分が凡人だと主張する気も彼にはないが、それでもやはりこういう場に本来立つはずの人間ではないのだ。
「ははは、すみません」
特に悪いことをしているわけでもないのに儀礼的な謝罪の言葉が漏れてしまう。彼は、傍から見ても自信が無さそうだ。
「だ、大丈夫、私だって応援するから!」
彼の左斜めの席に座っている彼女が、机の上の彼の手を握った。
突然の出来事に彼は驚く。
普段は緊張にまみれてためらってしまうのに、なぜか突発的に発せられる恋の勇気。そうして後で冷静になって、またそれに恥じ入ってしまう恋の病人。
「あ、ありがとうございます」
動揺は本心の声を引き出す。彼は本当にしみじみと「ありがとうございます」と言った。
そして無言の時間が流れる。この空間は、まるで二人に支配されたようだ。
この三人の空間が、二人に支配されているようだ。
春山言葉と舞浜明と秋里美咲の空間が、春山言葉と舞浜明に支配されたようだ。
二人はお互いを見つめ合う。これも、突発的な勇気の現れか。
心の中で、なんだかほわほわとしたものが漂っていた。それはとても甘い。見ているだけなのに、味覚までが働いてしまうほど強烈だ。
それに包まれていると、何も考えられないような気がした。無論言葉など発することはできないから、ただその空気の中に包まれたままでいよう。そう二人は思った。
「えっと、そろそろ終わった?」
平常心の一人の声が教室の中に響いた。
「はっ」
「あっ」
「ごめんなさい、美咲」
夢から目覚めたかのように、二人は飛び上がる。
「いや、やっぱり続けててもいいよ」
秋里先輩は少しにやけながらそんなことを言った。
「えっ、えっと……」
続けたいと答えるかを迷っているのだろうか。いや、そんなはずはないだろう。
「続けないよ!」
春山言葉は顔を赤くして言う。
気が付けば、その現象に「続ける」という言葉が与えられていた。そしてそれを春山言葉本人が使ったことの重大さに、彼女は気が付いていない。
「ちなみに、続けるって何のことだろうね?」
意地悪な表情で秋里先輩は質問した。
二人はただ閉口するしかなかった。




