全ての人へ、そしてあなたへ
気まずい空気と共に場は流れた。今日は全員が別々に帰っていった。
家に帰った彼は、自分と彼女の新しい関係性を強く意識した。
これは人に知られてもいいものなのだろうか。あるいは、察しの良い秋里先輩のことだから、もう知っているのだろうか。
秘めておきたい秘密のような気もするし、堂々と掲げたい自慢のような気もする。そんなアンビバレンツな感情が彼の中には渦巻いていた。
また数日後に控えた演説。彼はいつも演説の前には悩み事を抱えているような気がした。
そしていつもそういう鬱積した感情は言の葉に乗せて吐き出されるのだ。
日も随分と長くなったもので、まだまだ空は夕焼けですらなく、真っ青に明るい。
途方もなく開けているこの景色は、美しくもあり、しかしまたこの広がりが恐ろしくもあった。
彼は回していたペンをゆっくりと紙の上に置いた。
今回の演説は重要だから、ということなのだろうか。彼はまた性にもなく演説の構想を考える、ということをやろうとしていた。
しかし、やはり結局のところそういうアイディアは灰燼に帰すだけなのだ。彼も十分そういう自分を理解していたから、潔くペンを置いたのだった。
そして再び空を見上げる。
自分には何が見えているのだろう。そんなことさえも、自分が演説の舞台に立たないと分からない。
そして彼女は何を考えているのだろう。切っても切れない相手のことを思って彼は大空に思いを馳せた。
彼の世界は、気が付けばどうしようもなく美しくなっていた。
生暖かい風に輪郭を縁取られる木々の葉っぱが朝日を反射して、新鮮な光を彼の目に焼き付ける。
人の営みは不思議なくらいに壮大で、時に人々が忌み嫌うそれは、今の彼にとっては高揚感をもたらすものに変わっている。
これも全ては、彼女のいる世界で起きている出来事なのだ。
自分の見ている世界はいつの間にか変わっていた。
今まで見えなかった自分に気が付き、自分の使命を自覚した。
今まで出会うことのなかった尊いものを初めて見て、その美しさを痛感した。
何が偶然で、何が必然だったのか。あるいはそんな区別は人間が勝手に設けた枠組みに過ぎないのか。そんなことはもう彼には分からない。
ただ、今生きている世界がどうしようもなく美しいのだった。
こんなことを言うのはまだおこがましい気もしてしまうのだが、自分のお陰で彼女は変わったのだ。そして彼女のお陰で自分が変わったのだ。
世界はそんな二人を祝福しているかのようだった。
また言の葉を伝え続ければ、こんなにも素晴らしいことが起きてくれるのだろうか。
言の葉を伝えることは決して楽しいことばかりではない。他人を変える力は必ずしも善ではなく、さらには自分をも縛り付ける力を持つ。
自分の行動を写し取る鏡として言葉があるのではない。言葉が行動を規定してしまうのだ。
そういう意味で、言葉を取り消すのは難しい。だからこそ彼は足掻いた。
校門にある大木の葉っぱが、風に吹かれて舞った。
その葉っぱはひらひらと揺れて彼の頭上を漂っている。
そしてそれは彼の顔のすぐ前を通って落ちようとしていた。
彼はその葉っぱをすくい上げるようにして支えた。
受け取った、というべきなのかもしれない。
彼は空を見上げた。
心は水平線には落ちていないから。
その日の動員人数は今までと比べると頭一つ抜けて多かった。
宣伝の甲斐あってか、聞きに来る生徒は一年生だけには限られず、他の学年の生徒も多く来場していた。
いままでは講堂の前側に固まっていた聴衆が、今回は後ろの方にもまばらながらいる。
学校行事の集会には遠に及ばない人数かもしれないが、彼一人の演説のためにこれだけの人が昼休みを削って来たと考えれば、相当凄まじいことだった。
「諸君」
自信ありげな声で彼は堂々と言う。彼女を前にして動揺しているいつもの女々しい彼とは、やはり違っていた。
「内なる力を発揮するためには、自己の意識を変える必要があるということは、以前にも述べた通りだ」
今はもう綺麗事などではなくなった言葉を、彼は繰り返す。
「しかし」
「もう一つ大切なものがある」
いつものように彼の演説は逆接が展開される。そうして観客達は彼に注意を集中させていく。特に、今日初めてこの場に来た人間は彼の力に驚いていた。
「人は時に内なる力だけでは変われないことがある」
「変わることに臆病になって、どうしてもそのままそこでくすぶってしまおうという気になることがある」
「そんな時に、だ」
彼は不完全な文を言い終えると、辺りを見回した。
台詞が飛んでしまったのではないか。観客たちはそんな不安さえ抱く。それほど長い沈黙。
春山言葉も同じように彼の話術に引きつけられていた。これがわざとやっていることだということは、彼女もとっくに気付いている。
しかしそれでも、言葉が発せられない焦れったさは相変わらず彼女の注意を引いた。
「言葉先輩」
「え?」
彼女は確かにそう聞いた。でもその声は、囁かれているかのごとく、彼女の頭に優しく響いていた。
だから彼女にはその声が自分の幻聴なのか、はたまた本当の声なのかの判別さえつかない。
文脈から外れすぎたその声が、現実のものだと気が付くのにしばらくかかった。
「春山言葉先輩、壇上に上がっていただけますか」
彼は再び言う。
他の観客よりももう一歩近い、ステージ下の脇で彼を見ている彼女に、彼は体を向けた。
そう言われて、彼女は当然に戸惑った。
「ほら、行きなよ」
彼女の少し後ろから演説を聞いていた秋里美咲が、文字通り言葉先輩の背中を押す。
押し出されるような形で、ステージ下の階段の前まで出た。
観客はいまだ沈黙に沈んでいる。これから何が起きようとしているか分からないからだろう。
しかし呼び出された本人が一番分からない。意外と緊張感の張り詰める壇上まで、彼女は戸惑いながら上った。
「僕の素晴らしい先輩を紹介します」
彼女が彼と並んだ時、彼は素朴な声で言った。
それは無理に飾り立てた言葉だとかその類ではなく、率直な本心の発露のようだった。
「言霊愛好会会長、春山言葉先輩。成績優秀、容姿端麗」
「でもそんな表面的な素晴らしさだけではありません」
「先輩は影で僕を支えてくれています」
素朴な口調で彼は続けた。
「今僕がこの場に立っていて、皆さんに自分の言葉を伝えられるのも、先輩の存在あってのことなのです」
場の雰囲気にハイライトされたたった一人の言葉が、この会場にいる多くの人々のもとへと届く。
「かつてどうしようもなく遠かった、そして今はどうしようもなく近い人です」
講堂の高い窓の外に輝いている空の色が、より一層鮮やかな青色に染まっていた。
スポットライトなど要らない。彼の言葉は、そのライトとなって彼女の姿を途方もなく明るく照らしている。
「近寄りがたいような雰囲気ももしかするとあるのかもしれません。ですが皆さんにも本当の言葉先輩の姿をご覧に入れましょう」
彼女は戸惑っていた。感動や照れくささが混ぜこぜになって、その感情はステージの位置エネルギーをも持った。
「言葉先輩」
一歩歩み寄った彼は下の名前で彼女を呼んだ。
彼女はマイクを向けられる。
「は、はい」
少し跳ねた声を彼女は返した。
彼女は、「私はあなたみたいに即興に向いている人間じゃないのに」とでも言いたげな表情をしていた。
「言霊愛好会、その名前の由来を教えて下さい」
彼女はやはり意表を突かれた。反射的に、「突然そんなことを聞かれても……」と言いそうにもなった。
それでも、一呼吸した後に彼女は気が付いた。
――自分の中には、その答えは明確にある。
自然が震える――そんなことが起こり得るのだとしたら、それはこの瞬間なのだろう。
きっと外では、風が自然に新たな息吹を吹かせて、また新たな始まりを告げているのだろう。
「こ、言霊というのは、言葉の中に込められた霊的な力のことで、私達はしょ、しょれを……」
……噛んだ。
彼女は猛烈に恥ずかしかった。
「ご、ごめんなさい」
誰にも迷惑などかけていないはずなのに、ペコペコとして慌てふためいてる。
入学式でスピーチをしていたお高く止まっている優等生の姿は、そこにはなかった。
彼は内心で思う。
「卑怯だよな……」
どう考えたって図ったようにしか見えないミスだった。
しかしそれは、単に格好をつけることに失敗しただとか、そんな意味ではない。
優雅な少女が、小動物的な動きをしている姿は、反則的に可愛らしく見えた。
「これは僕の負けかな」
彼はマイクにも拾われない小声で呟いた。
「言葉先輩ごめんなさい、急な無茶振りをしてしまって」
「いえいえ、こ、今度こそは決めますから!」
「どうか私にもう一度チャンスを!」
後輩の舞浜明に対しても恭しく彼女は振る舞っている。そのたどたどしい感じは、二年生の中で培われてきたお高い彼女のイメージからはかけ離れていた。
そのイメージを知る人も知らない人も、皆その魅力に惹き込まれていた。
「ええと、それでは」
マイクを完全に手渡された彼女は言う。
「言霊愛好会とは――」
「風に流れる想いの言の葉が、そのまま彼方に消えてしまうのではなく――」
「伝えられるべき誰かに伝わることを願う、そんな会です」
言い終わると、彼女は恐る恐る聴衆を見回した。
予想だにしなかった大歓声が、そこには上がっていた。
彼は思う。
「少々時間はかかったかもしれないけれど、僕にはきちんと伝わりましたよ、言葉先輩」
「願わくは僕の言葉も、あなたのもとへしっかり届いていますように――」
その瞬間、確かに二人は繋がっていた――




