苦痛の腕
思い人であるシェリーの屋敷から追い出されたラスティは、小鬼たちの大衆酒場で荒れに荒れていた。
これも全て、あのスカーのせいだった。色っぽくこちらを焦らすシェリーと、さあこれからというとき、いきなり屋敷に現れたスカーは、彼がいつもやっているようにラスティをぞんざいに扱い、獲物を横取りした。
きっといまごろ、シェリーとスカーは……。
「――ちくしょうめ! あの野郎、昨晩もいい女と楽しんでたじゃねえか!」
ラスティは六本ある腕の内の四本を振り回し、酒瓶や料理をめちゃくちゃにひっくり返した。
「ら、ラスティさま……ここは他の囚人さまの管理される場所ですし……その、あまりご指導いただくのは……」
「何だと、てめえ、小鬼の分際で俺様に逆らおうってのか!?」
ラスティは、おろおろと近寄ってきた店主の小鬼を恫喝した。
「さ、逆らうなどとは滅相もございやせん! わたくしどもは、あくまでラスティさまにご指導をいただく身分ですので……」
「生意気だぜ、てめえ……」
狼狽える小鬼の胸ぐらを、ラスティは腕の一本で掴んだ。
「う、うう……?」
小鬼は目を白黒とさせている。
自分の身に何が起こっているのかわからないといった様子だ。
それもそのはずで、この腕は術者であるラスティにのみ視認できる魔法の腕であり、先ほど周りの料理を吹き飛ばしたのも、いま小鬼を絞り上げているのも、他のやつらには見えていないのだ。
実在しない四本の魔法の腕――それらは、本来の術者であるスカーによって『苦痛の腕』と名付けられている。
「……そうさ、こんなに使い勝手のいい力だ! てめえが調子に乗るのもわかるぜ! だが、俺がいつまでもてめえの下についてると思うなよ!」
いつの間にか、酔っぱらったラスティの目の前にいる小鬼は、スカーに変わっていた。
「てめえにも苦痛を与えてやるよ、スカー……自分の力を、自分で味わいな!」
魔法の腕が小鬼の身体にズブリと入り込んだ瞬間、小鬼は凄まじい悲鳴を上げ、ラスティは大いに溜飲を下げた。
「ハッハッハ、いい気味だぜ! ……あれ、でもなんで俺があんたに向かってあんたの力を使えるんだ?」
「何を酔っぱらっておる、この若造め! 早くその物騒な力をしまわんかい!」
酒が入って混乱するラスティを、どやしつける声があった。
見ると、そこには身体の大部分を魔法器械に交換してしまった変人技師、小人のトバルが立っていた。
背丈はラスティの胸程度までしかなく、純粋な人間なら子どもくらいの大きさだ。だが顔に何本も刻まれた深いしわと、冷たい器械の身体がトバルに妙な威厳を与えていた。
「ちっ……トバルのクソジジイか」
小老人を見て酔いが覚めたラスティは、苦痛の腕で掴んでいるのがただの小鬼であることに気づくと、気まずくなってすぐに彼を解放した。
「若造が! ワシの店でこんなに大暴れしおって。見ろ、他の客はみな逃げ出してしまっとるではないか! 商売あがったりじゃ!」
「その小鬼が俺を馬鹿にしたんだ。舐めた口を利きやがって……」
「責任を取れ」
トバルがずいっとにじり寄ってきて、ラスティは顔をしかめた。
「……今度はそういう方法かよ。あんた、何かにつけてその話にしようとするんだな……」
「何度でも言うとも! ワシは手が足りとらん。技術発展のために力を貸せ、ラスティ!」
「鬱陶しい店で飲んじまったもんだぜ……」
ラスティは、今日の自分は何とついていないのか、と心の中で悪態をついた。
ただでさえ虫の居所が悪いというのに、こんなクソジジイにつかまっちまうとは……。
「ジジイ、この店のことは悪かったよ。ちょっと気が立ってたんだ」
「座れ」
トバルはひっくり返った椅子を二つ元に戻し、一つに腰かけた。
「もう勘弁してくれよ。俺は行くぜ……」
「いいから座れと言うとるんじゃ!」
「うるせえ! てめえなんかいつでも殺せるんだぜ! 俺のお情けで生きてるようなやつが、偉そうな口を叩くんじゃねえ!」
「何を馬鹿なことを! ワシが貴様のような若造に負けると思うのか!」
ラスティは苦痛の腕を伸ばし、トバルの身体にそっと触れた。
「ぐ、ぐううおおおおおおおおおお!」
途端にトバルは苦しみだし、椅子から転がり落ちてバタバタと床を転がる。
「ほら見ろ、クソジジイ! 説教は俺に勝ってからにしろっていつも言ってるだろうが! ボスが、あんただけは殺すなって言ってるから手加減してやってるだけだぜ! 身の程を知りやがれ!」
「ま、待てラスティ……お前の力は貴重じゃ。こんなしょうもない苦痛の力を借りていては、人類の損失じゃ……」
ぜいぜいと肩で息をしながら、トバルは呻いた。
「……俺は兄貴の力が気に入ってんのさ。この力で兄貴はここでのし上がった。俺もそうしてみせる」
「じゃが、スカーは超えられんぞ……そんな低い位置に天井を固定するな。お前はもっと優れた力を得るべきじゃ」
ラスティの魔法とは、他の人間の許可を得て、その人間の魔法を使うことができるというものだった。
借りる魔法は一つしか選べず、いまはスカーの『苦痛の腕』を借りている。
スカーはかつてこの監獄で囚人奴隷時代のラスティを買った主人だったが、便利な力を持つラスティに目をつけ、囚人奴隷の身分から一級身分の囚人に格上げしたのだ。
そうしてスカーはラスティに自分の力を貸し与え、意のままに動く家来を作り出した。その関係は、いまも続いている。
「……俺は兄貴には逆らえねえ。逆らう意思もねえ」
先ほどスカーのことであんなに荒れていたにもかかわらず、ラスティは抜け抜けとそう言い放った。
「ワシの魔法を貸してやる! それでええじゃろうが! ああ!?」
「うるせえ! てめえは俺に勝てねえだろうが! てめえの力なんて借りちまったら、兄貴に殺されるだろ!」
「ではワシがお前を打ち負かせば、その考えを改めるな? ワシの魔法で、スカーの力を圧倒すればええわけじゃ!」
「そうさ、負かしてみろ、クソジジイ!」
叫び返すラスティの声は震えていた。
自分にとって、スカーはずっと恐怖の対象だった。その恐怖の力を身につけることで強くなれた気でいるが、本当のラスティはスカーに生かされているだけの弱い存在なのだった。
トバルがもっと強ければ……。
しきりに勧誘してくるこのクソジジイが、スカーの力を打ち負かすほど強い力を持っていれば……。
何度そんなことを考えたかわからない。
「やりたきゃ、またやってやるぜ! ほら、かかってこいよ、クソジジイ!」
「ま、待て……うう、いまのたうち回ったときに腰をやられた……」
情けないことを言い出すトバルを見て、ラスティは無情に恥ずかしくなった。こんなクソジジイに、少しでも期待してしまったなんて……。
「ちょっと待ってくれ。いま、ギアをはめ込むから……よいしょ……ああああああああ!」
「お、おいどうしたよ……?」
いきなり絶叫する小老人を、ラスティはつい心配してしまった。
「い、いかん! 変なところにパーツが食い込んでしまった! ラスティ、ワシの工房までワシを運んでくれ!」
「うるせえ、そのまま死ね!」
「れ、礼はするから! 頼む!」
涙目で懇願してくるトバルが哀れに見えて、ラスティは彼を担ぎ上げた。
「……じゃあその礼代わりに、もう俺のことを勧誘するな。わかったな、クソジジイ」
「ううむ……おかしいぞ、何も聞こえん。ギアのかけ違いで、何か聴覚に異常が……」
「誤魔化すんじゃねえ! 工房まで運ばねえぞ!」
ラスティは、小柄な割にずっしりと重いトバルを背負って夜のペッカトリアを歩きながら、もう二度とあの酒場では飲まないと固く誓うのだった。
※
『苦痛の腕』自体には、それほど力はない。その腕で巨人種が振るうような重いハンマーを持ち上げることはできないし、小人種のように器用さを備えているわけでもない。
ただ他の者に視認できないという点と、十メートルほど伸ばせるという点、あとは物質を自在にすり抜けられる点が、この魔法を極めて強力なものにしていた。
特に、最後のすり抜けのあるべき使い方に気づいたとき、スカーはこの力が自分にぴったりの魔法だと思って、脳天に痺れのような快感を得た。
たとえば見えない腕を伸ばして獲物に近づき、輪郭を構成する皮膚をすり抜けたあと、その奥にある神経や骨に触れたら……。
初めての獲物は、些細なことで喧嘩した弟だった。
彼は『苦痛の腕』に内臓を握りつぶされると、絶叫しながら死んでいった。しかも、目に見えた外傷がないまま……。
次の犠牲者は、弟の変死体を見て狼狽える両親だった。彼らはまた同じく外傷の見えないまま、それぞれ脳と心臓を握りつぶされて死んだ。
以来、他人の苦痛はスカーの快楽に変わり、それはこの監獄にスカー自身が落ちてからも変わらなかった。
むしろ、外の世界ほど我慢せずにいられる分だけ、監獄は居心地のいい空間だった。
ボスのドグマや、怪物リルパにだけ手を出さなければ、自由に他者の苦痛を楽しむことができた。
あの女に手を出すまでは……。
いま、自分の家の地下牢に閉じ込められているスカーは、いまだにそのことを悔やんでいた。
苦痛の腕に掴まれ、叫び声を上げると思っていた囚人奴隷の女は、しかし平然とスカーに近寄ると、彼にその痛みを返してきた。
おそらく、受けたダメージを他の者に移してしまう魔法を使えるのだろう。
いわば彼女は、スカーの天敵だった。
(メニオール……愛しいあんたの名前はメニオール……)
スカーの楽しみを邪魔したそのハーフエルフは、美しい顔をしていた。そして、いまでは妙な生き物を被り、スカーに成り代わってこの監獄の中で生活しているらしい。
どう演じるべきか、どういう囚人と交友関係があるか……彼女はスカーに拷問を加えて情報を聞き出し、それを使ってこの荒れた監獄世界で、巧みな立ち回りを演じているようだ。
(だが、あんたは俺を甘く見てる……ここでずっと、俺が大人しくしてると思ったかい?)
スカーは心の中でメニオールに問いかけ、そっと苦痛の腕を伸ばした。
この腕に力強さはない。硬く塗り固められた石の壁を壊すことなどできないし、あまりにも強度のある物質の中で実体化してもすぐに外へと弾き返されてしまう。
しかし、この地下牢の壁には秘密があった。
過去、スカーが死体置き場を管轄していなかった時代、つい殺してしまった他の囚人所有の奴隷を、どこかに隠さなければならなかったのだ。
特にゴスペルのやつはうるさく、奴隷の数が合わなくなると、真っ先にスカーを疑った。もちろん、それが言いがかりでない場合がほとんどだったが……。
ともかく、死体の処理に困ったスカーは、この壁に死体を塗り込んで隠していた。
そのときの苦肉の策が、いまになって功を奏している。
壁の奥に隠された死体は、いまとなって腐り落ち、手を入れられるくらい柔らかな空間を作り出していた。そこには人骨があり、削って尖らせれば壁の奥を掘る道具が出来た。
骨で壁を掘るうち、壁が崩れて手ごろな石を手に入れることができれば、今度はそれに持ち替えてさらに奥を掘った。
今日もスカーは秘密の空洞に『苦痛の腕』を忍び込ませると、日課になっている壁掘り作業を開始した。ペッカトリアの地下に広がっているという、地下水道の通路を目指して。
穴が向こう側に到達すれば、今度は空洞からこちらの壁に向かって掘り進め、隙をついて一気に開通させる。
(問題はこの足輪だが……自由には代えられねえ)
スカーはこの監獄世界で囚われの身でいることに怒りを覚えていた。ここでは、囚人は自由でなければならない。
いざとなれば自分の足を切り落とし、足輪を外してこの地下牢から抜け出す覚悟だった。義足なら、技師のトバルに頼めば用意できるだろう。
(メニオール、待ってろよ……従順な俺は可愛かっただろ? ……すぐにあんたが俺と同じ立場になるんだぜ……)
あの美しい顔を苦渋に歪ませることだけが、いまのスカーの生きがいだった。
ここを出て他の囚人たちに全てを公にすれば、偽者にずっと騙されていたと知ったボスは怒り狂うだろう。
スカーの存在自体が、メニオールにとっての爆弾なのだ。
自分がここを脱獄した瞬間、その爆弾ははじけ飛び、彼女はこのペッカトリアの全てを敵に回す。そうなって生きていられる人間など、存在しない。
(遅いなあ、メニオール……今日は会いに来てくれないのか? あんたのその綺麗な顔を見せてくれないと、俺はここを掘るのをやめられねえんだぜ……?)
スカーは大きな傷のある顔を歪めた。これが、彼の笑顔だった。
本物のスカー本格始動。めちゃくちゃお気に入りのキャラです!




