恋するリルパ
ペッカトリアの西には草原が広がり、さらにその西の先には荒野が広がっている。
そして草原と荒野の切れ目――ちょうど緑が点々とし始める場所に、いまフルールの動く居城はあった。
見た目は極めて不格好。
煉瓦や岩を寄せ集めて作ったボロボロの屋敷に、岩人形の足を遥かに大きく、かつ無骨にしたような移動用の足が四本ついている。地面をゴロゴロと転がる、巨大な歯車も……。
この家にすら見えないボロ屋が『城』と呼ばれる理由は、中に入らないとわからない。
亜空間を使う巨人のドグマや、魔法器械技術に長けた囚人技師トバルが、かつての支配者、魔女フルールを喜ばせようとして改造したその内面は、現在ペッカトリアにあるドグマの宮殿や他の囚人たちの住まいなどよりも遥かに広々としていて、かつ快適に過ごすことができる。
いま、この居城を実質的に切り盛りしている小鬼の名前は、ペリドラといった。
役職はメイド長。
かつてはフルールとともにダンジョンの下層世界を冒険したこともある女傑で、その偉大なる魔女の力が健在な折は、彼女からの信頼がもっとも厚い小鬼の一匹だった。
年老いてもなおその勇敢さを失っていないペリドラは――しかしいま居城の一室で、はらはらと落ち着かない気持ちのまま、歩いては止まり、止まっては歩くを繰り返していた。
先ほど送り出したリルパが、きっちりと目的を果たして帰ってくることができるかどうかを心配しているのだ。
というのも、今日の明け方ごろ、ひょっこりと帰ってきたリルパは、ペリドラに向かっていきなりこう訊ねたからだ。
「……最愛の人はゴブリンの言葉で『フレイヤ』っていうんでしょ? じゃあ最愛じゃないけど、大事な人ってどういうの?」
「最愛じゃないけど大事な人? まあ、恋愛感情を向ける男性なら、『アンタイオ』とか言いなんす」
「恋愛感情って?」
「要するにその男性とずっと一緒にいたい、と思う感情でありんすね」
「い、一緒にいたい……? よくわかんないけど……」
「街で何かありんしたか、リルパ?」
リルパの様子がおかしいと思いそう訊ねると、リルパはことの経緯を説明した。
とても美味しい血を持つ男の人がいて、その味はフレイヤの血とはまた違った力強さを感じさせた、と。
リルパはその味に惚れ込み、運悪く死にかけていた彼を看病することにしたそうだ。どうやらそのときは、朝になったら無理にでもこの城に連れてくる心づもりでいたらしい。
しかし、彼の寝顔をずっと見ているうちになんだか妙な息苦しさを感じてしまい、明け方ごろ何も言わずに帰ってきてしまったと言う。
「別にわたしは、その人と一緒にいたいわけじゃないかもしれない。だって、ギデオンの寝てる顔を見てると、何だか心がちくちくしたんだよ」
「それはひょっとして、恥ずかしかったのでは?」
「恥ずかしい……?」
言いながら、リルパは頬を赤くした。
「は、恥ずかしかったわけじゃないもん。ギデオンがわたしのことを殺すとかいうから、怖くなっちゃったのかも」
「殺す? その殿方は、リルパを殺すなどと口走りなんしたか?」
「そうだよ。そんな人いままで一人もいなかったから、おかしいことを言う人だなあって見てたの。そしたら段々胸が苦しくなって、そこにいられなくなっちゃって……」
「その男性の血は美味しかったのでありんすね?」
「すごく美味しい! それは間違いない……」
リルパはパッと顔を輝かせ、すぐにウーンと唸り声を上げる。
そんなリルパを見ながら、ペリドラはついにこの日が来てしまったか、と嬉しいような寂しいような、何とも複雑な気持ちになってしまった。
リルパの味覚は、好悪の感情と直結している。
生まれてからずっと飲んでいる魔女フルールの血の味が、他の誰のものよりも美味しかったせいか、リルパは愛情の形成期に、愛と味覚を切り離して考えることができなかったのだ。
それから彼女は、あくまで知識として親愛の情を学んだものの、それはあくまで理性的な愛であって、本能的な愛はやはり味覚に大きく依存してしまっている。
つまりはこういうことだ。
リルパは美味しくない人間も気に入る場合がある――が、逆に美味しいと感じる人間は全て無条件に気に入ってしまう。
ここからペリドラが懸念していた事態とは、フルールの血に匹敵する……あるいはそれを凌駕する美味しさの血を持つ人間に、リルパが出会ってしまったときのことだった。
その味が、『愛』のレベルにまで到達する美味しさだったとき……。
リルパは、その概念を知らない。
呼び方を知らない。
だからきっと、混乱してしまっているのだ。
最愛の人ではないのに、なぜこの人の血はこんなに美味しいんだろう?――と。
きちんとその問題を解決するためには、わからないものにきちんと名前をつけ、わかるものとしての姿を与えてやる必要がある。
愛する人……。『愛』する人……。
ペリドラは決心した。
「……リルパ。その殿方をこの城まで連れてきなんし」
「え、でも……」
「でも、ではありんせん」
ペリドラは、おろおろするリルパの顔をじっと覗き込んだ。
呪いで病床から起き上がれないフルールに変わり、長年この城を治めてきたのがペリドラだった。
リルパの母親役を務め、ときには心を鬼にして口うるさく説教をしたこともある……ペリドラは、もともと小鬼だったが。
「その殿方と一緒にいれば、リルパもきっとすぐにご自分の気持ちに気づきなんす。そこから目を逸らしていても、何もいいことなどありんせん。ここで一緒に暮らしなんせ」
「でも、このお城にはまだギデオンが暮らせるような場所がないし……」
「すぐに用意しなんすとも。誰か! こっちに来なんし!」
「わ、わたしがやるから! そうだ、家具を買いに行かないと……」
「リルパ! あなたのやるべきことは、そんなことではありんせん! 早くその殿方を連れてきなんし!」
「わたしはギデオンが怖いんだよ! 殺すって言ってるから殺されちゃう!」
「なぁにを、馬鹿なことを! あなたを殺せるものなど、この世にいると思いなんしか! 言うことを聞きなんし!」
城中を逃げ回るリルパをメイド全員で追い詰め、ついにはなだめすかすことまでして自信を持たせたときには、もうすっかり日が暮れかかっていた。
いまごろ、リルパはそのギデオンという男に会うことができただろうか?
出発するときは自信満々だったが、ひょっとしたらすぐに怖気づき、どこかで油を売っているかもしれない。
ペリドラは城の窓から、西の荒野の遥か先に、もうもうと立ち込める土煙を見やった。
そこには、フルールが張った結界『土煙の魔法』がある。
「ああ、フルールさま。どうか、リルパを守りんせ……世界が、あの子のものでありんすように……」
ペリドラは、嵐の到来を予感していた。
――いま、神の子は恋をしている。




