2:髪がサラサラで絶好調
一夜明け、エーリクは寺院を出発した。
装備はどうしよう、魔女に襲われたらどう戦おう、いやいやここは逃げるが勝ちだ、戦略的に撤退し聖都に応援を頼むのだ──と、夜っぴて頭を悩ませたものの、結局いつも通りの出で立ちだ。
司祭服と司祭帽。
斜め掛けのカバンにしのばせた分厚い教典は、弱い心を支えるためのお守りである。
見送りの司祭長は同じように寝付けなかったと見え、目の下に隈が浮いていた。
「君にもしものことがあっても、忘れ去ってしまったら魔女の仕業と気づけないだろう?
そうならないように、ちゃんと日記につけておいたからね。聖都への手紙も用意したんだ。君が今夜中に戻らないときは、これを届けるよう手筈を整えておくからね」
「ははは、心配には及びませんよ。必ず元気で帰ってまいります」
大丈夫なの本当頼むよ、と背中に声を受けながら、震えを隠しつつエーリクは出発した。
目指すは教区の外れの外れ。
かつて魔女のアジトがあったと記録に残る『茨の森』である。
この『茨の森』、来るものを拒むするどい棘の向こうに、一本の洞窟を隠していた。
文献によればその洞窟の奥こそが、魔女の集会所であったらしい。
遡ること十六年前、この茨をすべて焼き払い、集った魔女を軒並み捕らえ火刑に処したのが、聖都におわしますアレクサンダー猊下であるのだが……
「……まずいな」
その洞窟の前で足を止め、暮れなずむ空を仰いでエーリクは呟いた。
寺院からここまで、思っていたよりずっと時間がかかってしまった。日はすっかり傾いて、茜色の雲のかなたで一番星が光っている。
秋の日は釣瓶落としだ。こうなっては下手に行動するよりも、どこかで一晩じっとしているほうが賢いだろう。
目の前の洞窟などは一夜の宿とするのに、まさにうってつけ。
ここで夜を明かし、朝になってから戻ったほうがいい。なにも魔女に限らずとも、夜道で出くわすものは何だって恐ろしいのだ──たとえば野犬とか、野盗とか。
エーリクはもう一度空を見上げ、それから足元に目をやった。
焼け焦げ、枯れ果てた茨の跡だろうか。十六年が過ぎた今でも、そこだけ大地の色が変わっている。
よくよく見れば、土の上には人の足跡や、車の轍のようなものが見て取れた。それが意味するものは何なのか……エーリクはしばし考え込み、
「いや、大丈夫。魔女はいない。大丈夫」
自分に言い聞かせながら、顔を上げた。
そもそもが『魔女の不在』を確認するための遠出である。魔女はいない、というのが大前提だ。
怖がってないで前に進もう。
恐れるべきはいないはずのものではなく、今生きているものなのだ──そう、それこそ野犬とか、野盗とか。
この洞窟に身を隠そう。ほんの数時間ガマンすれば、すぐに朝が来るのだから。
こうしてエーリクは、真っ暗な洞窟へと一歩を踏み出した。どこからか「ひゅう……」と吹き込む風に、司祭帽に隠したオデコの涼しさがいや増すようだ。
湿った岩肌に片手を添えて、あたりの様子を探りながらそろそろ進む。
やがて薄暗がりに出口が見えて──
そして若き司祭は見つけたのである。
洞窟の前にたたずむ小柄な人影。薄闇に浮かぶ豊かな白銀の髪。
虚空を探るように片手を伸ばし、慎重な足取りで一歩、二歩……ゆっくりこちらにやって来る。
やがて彷徨う細い指先が、司祭服の袖にたどり着き──
「……あ」
ぴたりと足を止め、声が出たのはほぼ同時。
『茨の森』の洞窟で、エーリクは一人の少女を見つけたのである。
◇◆◇
さて、若き司祭が『茨の森』に向かった、同じ朝のこと。
「──お客さんが来るわ」
強い予感に、少女は顔を上げた。
名前はイリーナ。
歳は十六。
見えない両目を瞬いて、彼女は手探りで窓を開けた。
涼やかな秋風に白銀の髪が揺れる。
外はいい天気。
瞼を光が刺すほどに。
探し当てた櫛で長く豊かな髪を梳けば、予感は確信に姿を変えた。
まったく絡まない。いつも以上になめらかだ。これは良いことがあるに違いない。
「うふっ」
我知らず笑みがこぼれ、うきうきと準備にとりかかる。
なんといっても大切なのは第一印象だ。
家をきれいに掃き清め、散らかったものを片付けて、そうだ一緒にお茶など頂くかもしれないからお湯くらい沸かしておかないと……それからお茶菓子、あらそんな気の利いたものあったかしら。無かった気がする。
そうそう、念のために薬の材料がそろっているかも確かめよう。
うちを訪ねてくるんだもの、おばあちゃまの薬にご用があるのかも。
たくさん並んだ小さな引き出しを、イリーナはひとつずつ確かめた。
全部あることを確認したら一安心。
中が見えなくたって、そのあたりは指先の感覚でわかるのだ。厳しかったおばあちゃまの仕込みのおかげである。
さて、最後に自分の身だしなみだ。
お肌の調子もいいし、なんといっても髪がさらさらで絶好調。
結わずにおろしていよう。布や帽子で隠すこともないだろう。
「堂々としておいで……おまえはきれいよ、イリーナ」
生前の祖母の言葉を唇にのせ、上機嫌で彼女は待った。
そのうち太陽が頭のてっぺんに上り、やがて傾き西日となるまで。
どんなに遅くなっても、お客さんは来る。
来るったら、来る。
絶対に来る、はずなんだけど──
「道に迷っちゃったのかしら……」
だんだん暗くなってきた。見えない眸でも、光の強弱はわかるのだ。
このままでは日が暮れてしまう。きっと近くまで来ているだろうに。
髪は朝と変わらずさらさらで、イリーナの予感をずっと肯定しているのに。
「……迎えに行こう!」
きっと家の近くの、あの洞窟だ。町からくるお客さんは皆あそこを通ってやってくるし、「本当にこの洞窟でいいのか不安だったよ」と話す人だって何人もいた。
今日来るはずのお客さんも、洞窟の手前で逡巡しているに違いない。
自分は見えないからよく知らないが、ずいぶん不気味な雰囲気らしいから。
そんなこんなで彼女は家を出た。
扉をくぐり、てくてく歩く。道沿いの柵を頼りにそのまま進み、やがてそれが途切れる頃、どこからか「ひゅう……」と冷たい空気が流れてきた。洞窟の入り口はすぐそこだ。
イリーナは足を止め、声をあげた。
「どなたかー!」
返事はない。
「どなたか、おられますかー! お迎えに上がったのですがー!」
やはり返事はない。
イリーナはしばし逡巡した。
もしかしたら、洞窟の向こう側で立ち往生してるのかも。
ここで待とうか、それとも進もうか。すぐそこだからって杖を置いてきてしまったし、もうすぐ夜になりそうだ。
祖母ならなんて言うだろう。危ないからやめろと叱るだろうか──いいえ、きっとこう言うはず。
「行っておやり、イリーナ。おまえがそうしようと思うのなら」
よし、とイリーナは顔を上げた。柵に添えた片手を外し、あたりの様子を探りながらそろそろ進む。
頬が、首筋が、ひやりと冷気に包まれた。かすかに感じていた西日の眩さもいつの間にか消えた。
ここは洞窟の中。
イリーナはそっと片手を伸ばした。
洞窟の壁を、湿った岩肌を、指で探した──のだけれど。
彼女の指が見つけたのは岩でも土でもなく、しっかりした厚手の布地だった。
そしてその下にある、血の通った人間の弾力だった。
「……あ」
ぴたりと足を止め、声が出たのはほぼ同時。
なにも見えない闇の中、イリーナは一人の若者を見つけたのである。
◇◆◇
──すわ、魔女か!
電撃を受けたように、エーリクの脳に警告が鳴った。
少女の指が司祭服の裾に触った、その瞬間だ。
その手を離せ。私に触れるな。
叫ぼうとしても声が出ず、「あ、あ、」と不明瞭な音が出るばかり。
ようやく「君は」と絞り出したら、司祭服の裾を握ったまま、その少女は──少女なのだろう。暗くて顔がよく見えないが、どうやら微笑んだようだった。
「よかった!」
「ひッ」
「あの、わたしイリーナです! よかった、会えて」
ずいぶん明るく名乗りを上げ、彼女はやっと指を離した。
おっかなびっくりで二歩下がり、エーリクはしげしげと少女を眺めまわした。
「このまま向こう側に抜けてしまったらどうしようって思ってたの。そこから先は行ったことがないものだから」
小さくも大きくもない背丈。揺れる白銀の長い髪。服装はまあ、いわゆる“普通の娘”のものだ。
魔女じゃない。
たぶん、魔女じゃない。
……でも魔女でないなら、なぜここに?
「それにもう夕方だから、どうしようかと思って。ちょっと冷え込んできちゃったし」
家出少女だろうか。それにしちゃ声は素直で明るいし、すれた雰囲気も感じない。
とはいえ何だろう、言葉にできない違和感がある。
沈黙を守ったまま、エーリクはもう一歩後ろに下がった。
腰が盛大に引けている。はたから見れば、いかにも逃げ出す直前の情けない格好だ。大の男が取る態度ではない。
しかし少女の声音は変わらない。逃げようとするエーリクに気付かぬ様子で、一生懸命しゃべっている。
「だから様子を見に来たんです。でもすぐそこだと思って、杖を置いてきちゃったの。洞窟を抜けなくて本当に良かった。もし抜けてしまったら、きっと家まで戻れなかったわ。お日様が沈んで真っ暗になってしまったら……」
言いながら、イリーナと名乗る少女は再び片手を伸ばした。
エーリクはもう一歩後ずさる。
すると細い指先は司祭服に辿り着けずに、虚空を泳ぎ──わずかに動きを止めた。それからおずおずと向きを変え、洞窟の冷たい壁にゆっくり触れた。
警戒の構えをくずさず見ていると、彼女はふたたび口を開いた。
「あの……そこに、いますか?」
先ほどの明るさが嘘のような、小さな声で。
もう片方の手をきゅっと握って胸に押し当て、心細げに。
唐突に、エーリクは気がついた──彼女と先ほどから目が合わない。会えてよかったと言うわりに、ただの一度も。
違和感の正体はこれだったのだ。
「イリーナ」
名を呼ぶと少女はハッと顔を上げた。
慎重に、きわめて慎重に、エーリクは問いかけた。
「イリーナ。もしかして君は……目が、見えない?」
彼女は「はい」と頷いた。
暗がりの中、うつろな瞳を瞬いて。
途端、ぐらりと眩暈に襲われる。思わず額に手をやって、エーリクは胸中で己を叱責した。
──エーリク、おまえ、仮にも司祭だろう!
きっと彼女は助けを求めている、その気持ちに沈黙をもって応えるなんて。
光の射さない洞窟で、やっと探し当てた人の気配を、奪おうとしたなんて。
司祭としても大人としても、なんとあるまじき行いだ!
それにここは『茨の森』である。
かつては魔女のアジトがあったという、いわくつきの森である。
まあ滅びたはずの魔女はともかく、他の怖いものが出るかもしれない。それこそ野犬とか、野盗とか──おお、なんと恐ろしい。こんな不気味な洞窟に長居は無用、彼女を連れてさっさと外に出てしまおう!
「だったら私が手を引こう。君の家は近いのかい?」
少女が「えっ」と声を上げる。
有無を言わさず、エーリクはギュッとその手を掴んだ。
「行こうっ」
◇◆◇
突然、イリーナの手のひらが熱を持った。
燃えるように熱く、そしてやわらかく。
目の前の誰かが、この手を取ったのだ──悟った瞬間、その熱は心臓に飛び火した。
「行こうっ」
手が熱い。
胸も熱い。
どきどきと鼓動が高鳴り、少し苦しく思うほど──ああよかった、わたしの予感は外れてなんかいなかった。この人こそが、今日の特別なお客様で間違いない!
燃える手に導かれ、イリーナは来た道をゆっくり戻る。
きっと見えないわたしを気遣って、歩調を緩めてくれたのだ。本当はもっとスタスタ歩けるけれど、これでいい。二つの足音がゆっくり重なるから、これでいい。
イリーナは嬉しかった。
手を引かれて歩くこと。一人ではなく、誰かと歩くこと。
──だからあんまり嬉しくて、わからなかった。
自分の手を引く若者は、ゆっくり歩いていたわけではない。
おっかなびっくり、たいそう腰が引けた様子で歩いていたのである。