第三話 雨の街道
雨が降っていた。
冷たい雨だった。
空は灰色に濁り、
街道にはぬかるみが広がっている。
レイン・ヴァルト
は、一人で歩いていた。
王都レグナスを出て三日。
もう背後に城壁は見えない。
聞こえるのは、
雨音と泥を踏む靴音だけだった。
街道脇には、
壊れた荷車が転がっている。
木材は腐り、
車輪は半分埋もれていた。
その横を通り過ぎる。
視線だけ向ける。
(放棄されて長いな)
積荷は残っていない。
略奪済み。
街道の荒れ方で、
最近の物流状態が分かる。
轍が少ない。
補修跡もない。
つまり。
(この道、もうまともに機能してない)
戦争。
魔物。
難民。
各地の崩壊。
人類圏は、
少しずつ痩せ細っていた。
◇
昼過ぎ。
崩落橋へ出た。
石橋が途中で落ちている。
川は増水。
濁流。
橋の前では、
十数人の難民が立ち往生していた。
老人。
子供。
痩せた女。
全員、
疲れ切った顔をしている。
「……迂回路は?」
レインが近くの男へ聞く。
「ねぇよ」
男は荒んだ目で答えた。
「森側は魔物だ。戻るにも食料が尽きる」
その声には、
怒りすら残っていない。
ただ疲れていた。
レインは崩落部分を見る。
飛び越えられなくはない。
一人なら。
だが、
難民連れでは無理だ。
「軍は?」
「来ねぇよ」
男が笑う。
乾いた笑いだった。
「勇者様は魔王軍と戦ってるから忙しいんだとさ」
誰も反論しない。
レインも何も言わなかった。
◇
夕方。
雨脚が強くなる。
レインは放棄村へ辿り着いた。
柵は壊れ、
畑は腐っている。
家屋の窓は割れ、
井戸には泥水。
人の気配がない。
いや。
正確には、
“人がいた痕跡だけ”が残っていた。
壁に刻まれた子供の身長線。
乾いた洗濯紐。
転がる木馬。
生活だけが、
急に消えている。
(避難か……全滅か)
判断はつかなかった。
レインは空き家へ入る。
床を確認。
雨漏り。
だが風は防げる。
今日はここで野営。
火を起こそうとして、
手が止まった。
外。
音。
ガタッ。
誰かいる。
レインは静かにナイフを抜いた。
「……誰だ」
返事はない。
数秒。
やがて、
崩れた棚の陰から小さな影が出てくる。
子供だった。
七、八歳くらいの少女。
その後ろに、
痩せた女がいる。
母親。
女は怯えた顔で、
レインを見ていた。
「……食べ物、ありますか」
かすれた声だった。
レインは答えない。
代わりに二人を見る。
顔色。
歩き方。
手の震え。
(飢餓)
かなり進んでいる。
少女はレインの鞄を見ていた。
食料の匂い。
当然だった。
レインは視線を逸らす。
鞄の中身を頭の中で確認する。
干し肉、残り三日分。
硬パン、少量。
水も減っている。
辺境到着まで、
まだ距離がある。
ここで分ければ、
自分も危険になる。
正しい判断は、
見捨てることだった。
この世界では。
珍しくもない。
むしろ普通。
「……」
少女がふらついた。
母親が支える。
その瞬間。
レインの脳裏に、
遠征中の光景が浮かぶ。
食料不足の村。
泣く子供。
間に合わなかった輸送。
死体。
レインは小さく息を吐いた。
「座れ」
女が目を見開く。
「でも……」
「火を使う。匂いを抑えろ」
それだけ言う。
レインは鞄から干し肉を取り出した。
ほんの少し。
本当に少し。
少女はそれを見つめる。
「……食べろ」
少女は飛びつかなかった。
恐る恐る母親を見る。
母親が頷く。
小さな手で、
干し肉を受け取る。
そして。
泣きながら食べ始めた。
レインはその姿を見ない。
代わりに窓の外を見る。
雨。
冷たい風。
(……馬鹿だな)
自分に言う。
こんなことをしても、
世界は変わらない。
全員なんて救えない。
分かっている。
それでも。
見捨てきれなかった。
◇
翌朝。
雨は止んでいた。
空はまだ曇っている。
レインは村を出る準備をする。
「ありがとうございました……」
母親が頭を下げた。
少女も小さく真似する。
レインは少し迷ったあと、
地図の端を指差した。
「西へ行け」
「え……?」
「二日歩けば中継集落がある。井戸はまだ使えるはずだ」
母親の顔に、
少しだけ光が戻る。
「……ありがとうございます」
レインは返事をしない。
そのまま歩き出す。
背後で、
少女の声が聞こえた。
「お兄ちゃん!」
振り返らない。
「……生きて」
足が止まりそうになる。
だが止まらない。
レインはそのまま街道へ戻った。
◇
三日後。
丘を越えた先で、
レインはようやくそれを見る。
巨大な外壁。
無数の煙突。
林立する風車。
入り乱れる荷車。
辺境都市、
自由都市群ドラクエラ。
王都のような華やかさはない。
だが。
生きていた。
怒鳴り声。
鍛冶音。
荷運び。
煙。
汗。
人間が、
必死に生きている音がした。
レインは都市を見上げる。
そして。
本当に小さく、
息を吐いた。
「……着いたか」
その声は、
少しだけ疲れていた。




