02 末王子
何もない視界に、保温効果のある外套ですら貫通する寒さ。
今は春から夏になろうとしている。
いくらここが北側でも、雪が降るほどではない。
冷気はシノの魔法のせいだと、アリィも頭では分かっていた。
「ユオシェム様、どこにいるの? 怖い……」
暗闇が怖あアリィは、手探りで誰かを探そうとした。
兄でも友達でもなく、無意識にその人を探す。
「大丈夫だよ、ごめんね」
暖かな体温と、柑橘と茉莉花を混ぜたようないい香りに、甘くて優しい声がした。
求めていた人のものだ。
近くにいることが分かっただけで、心は和やかになる。
どこにいたのかは分からないが、アリィは彼の服にしがみついた。
あの女性たちが言っていたことは嘘だ。
外に出るまで、父と兄以外の男なんて、ほとんど関わったことがなかったのだから。
(ユオシェム様の心音も、少し速い気がする……)
鼓動は高鳴っているのに、そうしていることで気持ちは落ち着くのだ。
抱き合うことで彼の鼓動も感じ、互いに信頼を寄せる。
そうしてアリィが安心したと思えば――真っ暗な闇は徐々に明るく晴れていった。
突き刺すような寒さもなくなり、アリィはゆっくりと瞼を上げる。
同時に、暗かったから羞恥心もなくなったのだと悟った。
明らかに抱きしめ合っている構図。
見上げると、すぐにユオの顔があった。
(私ったら、はしたないわ……!)
すぐに逃げようとするが、しっかりと固定されて離れられなかった。
明るくなると、しゃがみ込んでいたララネが怪訝そうにユオを見上げる。
「どさくさに紛れて抱き寄せるなんて、変態ですね」
即座にユオをディスるのだった。
「心外だなぁ」
従妹に変態扱いされても、ユオは決してアリィから呼んできたことは口にしなかった。
(私から彼を呼んだのに、それを言わないのね。優しいわ)
ほんの少しの気遣いにも、アリィはずっと覚えているくらいの感激を味わい続ける。
「ララネ姫……大丈夫だったか?」
そんなララネに、冷静になったシノがぶっきらぼうに話しかけた。
無意識に手を差し出そうとするも、それより前に彼女は立ち上がってしまう。
「平気ですよ。ありがとうございます。私もつい頭に血が上ってしまって……注意しなければ」
砂を払い、ララネは社交辞令的に微笑んだ。
あの一瞬の異常現象は、アリィを貶されたことによるユオやシノの感情の発露だ。
ララネも後で考えれば分かったことなのに、辺りを照らす機転が利かなかった。
陵墓でのミイラがトラウマになり、彼女も暗闇は怖いのだ。
「そうか……それならいい」
シノは言葉に詰まったようで、目をそらす。
(初めて女性に手を差し出してしまった。仲間だから自然か? 変に思われなければいいが)
思わず手を差し出そうとしてしまったことに、シノはぼんやりと自分に違和感を覚える。
ララネが怖がっているのを見て、つい助けたいと思ってしまったのだ。
けれども、彼はまだそのくらいで自覚できるほど鋭くもなかった。
皆が安堵している中も、断片的に悲鳴が上がっていた。
悲鳴というよりは、無機質な叫び声のようだ。
先ほどの女たちがいた周辺から、その声は聞こえてくる。
「あの人たち、一瞬だけ叫んで、すぐに静かになりましたよね……というか、姿がないような……」
ララネはそう言って列から少し外れて前を見ると、眉をひそめる。
二人組の女は、その場で座り込んでいた。
吐瀉物を撒き散らし、空中に向かってうわ言のように謝罪を繰り返して――。
「あー、そうそう。出鶴の王族って、月の女神様の子孫だよね。闇天将はヤバい奴だし、怒って罰を下すって本当なのかもね! さっきの異常現象もそれかもなぁ〜?」
大声でユオがそう言うと、他に並んでいた人々も身震いする。
皆、次は我が身かと焦ったのだ。
星慧教団がいくら政治的に影響力があったとしても、土着信仰が完全に取り除けているわけでもない。
その可能性を示唆しただけで、人々はぴたりと噂を止めた。
「一理あるかも……」
「そ、そうだよな。あんなに美しい有明姫が、そんなわけないって……」
「いくら敵国だからって、嘘を流すのは良くないわ」
その場の世論は、ほぼ完全にアリィの味方となった。
闇天将の仕業というのは、紛れもない事実だったのだが――。
(闇の魔法についてはよく分からないけど、精神作用を引き起こすのよね。宮殿でも侍女が自殺していたし)
アリィは魔法についてまだよく知らないが、ユオの能力についてはこれまでの旅で見当がついていた。
警備隊も先ほどの現象に混乱しつつも、発狂した女たちを保護して事なきを得る。
魔法を使える人間は滅多にいないし、ユオは宮殿でそんな能力を披露したこともない。
だからこそ、不可解な自然現象と位置づけるしかなかったのである。
「二人とも、私のためにありがとう」
ユオから解放され、ほっとしたのが半分、残念なのが半分といった様子で、アリィは婚約者と兄にお礼を言った。
「俺は特に何もしていない。感情と魔力の調整が苦手なので、怒ると魔法が溢れやすいだけだ。殆どユオがやったんだと思う」
シノも五年はユオと関わってきているが、あんなに派手な魔法を見せられたのは初めてだった。
咎めるどころか、感心してしまっている。
「他の人が容疑をかけられたら可哀想だし、このくらいにしておいたよ」
真犯人はあっけらかんとして笑った。
殺しに躊躇いはないようでありながら、ユオは他者を気遣う思いやりを兼ね備えている。
幾重にも人格があるようで、他の三人から見ても不思議だった。
ようやく役所の中に入れたが、一行の目の前で窓口が締め切られる。
「今日の申請は終わりだ! 申請したい者は明日以降、また並び直せ!」
せっかく時間をかけてきたのに、それ以降に並んでいた人々は肩を落とす。
「あのー、前はこんなに厳しくなかったと思うんですが、第三皇子のせいですか?」
指名手配犯本人が手を上げ、さも他人事のように質問をした。
ユオはあえて出国申請の窓口に並び、これを聞きたかっただけなのである。
そういう事情は役所でしか分からないからだ。
「それはともかく、今日はジナビアから王太子夫妻が視察にいらっしゃる。そのための準備があるので、早めに閉じたのだ」
役人たちは淡々と答えた。
「あ、そうなんですね」
ユオは何かを察したように、すぐに引き下がる。
仲間のエレンが来るのは、連絡を取っているから分かっていることだ。
指名手配書はあれど、ユオとアリィを追うことに、この街はさほど注力していないのが分かる。
エスティが流した噂を信じて、南部を重点的に張っているようだ。
出国しても、しばらくは追跡されないだろう。
「ユオシェム様、あのね……私、はしたない女じゃないのよ」
確かな情報を取り、役所を出た後、アリィは恥ずかしそうにユオの袖を引いた。
ユオやシノが守ってくれたものの、疑われたら嫌だったからだ。
「分かってるよ。手を繋ぐだけで恥ずかしがってるもんね?」
「も、もう……」
「可愛いね」
面と向かって可愛いと言われるのは嬉しいのに、アリィは顔を苺のように真っ赤にしてしまった。
☾
夜になり、宿を取ると、その宿の一階で営まれていたレストランに集う。
洒落たレストランで、カップルや友人同士で来ている客の割合が多い。
四人は自然と馴染めるのだった。
「何とか騙せたみたいでよかったわね。ジナビアとの関わりがあることは、皇太子側は知らないの? エレンディル殿下とは幼馴染なんでしょう?」
アリィはぶどうジュースを飲みながら、ひと息つく。
「関わりはあるけど、そんなに濃いとは思ってない感じだね。向こうでは別人として活動してたから」
そんな彼女をニコニコと笑い、ユオは見つめていた。
「そうだ。エレンといえば、ちょうど王太子夫妻がカナンに来国する予定があるから、一緒に来たんだって。このレストランに呼び出したよ」
エレンのことも思い出しながら、注文した料理にピーマンが入っていたことに顔を引きつらせている。
「末席の王子殿下でしたね。ここはカナンなのに、ジナビアの王族は人気者のようです」
クリームパスタの麺をフォークに絡めながら、ララネが窓から見える領主の城を見て問いかけた。
夕方頃に王太子が乗った馬車がやってくると、街はかなり歓迎ムードに包まれたくらいだ。
本国の皇太子より人気なのではないかと思われる――というか、確実にそうだった。
「あはは、皇太子が人気者なわけないじゃん。あいつがシノに嫌がらせしまくるのは、そういう理由もあるんだよ」
「どういう理由なんだ」
「君の顔がいいからってことだよ?」
「この顔でよかったことは、ひとつもないが」
シノはあまりに印象的かつ芸術品のような美形であることで、得をしたことは一度もない。
いっそのこと、ユオのように不細工に変身できたらよかったのに、と思うことの方が多かった。
「私はお兄様がかっこいいから、誇らしいわよ?」
アリィは兄を励ますように言って、トマトを口に含む。
「ないものねだりですよね。美しければそれはそれで悩みがありますし、かといって醜ければデメリットばかりなので」
アルコールの入っていない白ぶどうのワインを飲み、美しさに自信のあるララネはため息をついた。
「まぁ、一長一短だよね。そう言えば、シノは影武者を立ててこっちに来てるよね。影武者は君に似せられるのかな」
「幼馴染の薄氷が俺の代わりを演じている。化粧で近づけてはいるが、近くで見ると違いが分かるので、王宮から出ないようにはしている」
「その人の話は初めてだね。お姫様とは会ったことがあるのかい?」
「前宰相の息子で、アリィの婚約者候補だった。武家の出の男だ」
シノからその話を聞くだけで、ユオは握っていた銀のフォークをへし折ってしまう。
婚約者候補、というのが地雷ワードだったのだ。
(東雲丸さんのせいで、ユオシェム兄様が怒りましたね。今後もし薄氷さんという方に会った時、嫌がらせをしそうですが……)
シノにとっては何気なかった話なのだが、ララネはユオの空気が変わったことを察して眺める。
「ユオ、食事のマナーが悪いぞ」
火種を撒いた本人は自覚がなく、ユオを叱り付けていた。
ララネはシノに呆れながら、アリィの方を見る。
「銀のフォークがこんなになってしまうなんて、力が強いのね。ユオシェム様、だめじゃない。食器は丁寧に扱わないと。お店にも迷惑だわ」
当の本人は、兄の幼馴染の話など気にも留めていない。
それよりもフォークを折るくらいの力に興味津々で、膝の上にいるトランを撫でる。
ララネと目が合っても、意図を汲めずに微笑み返すだけだった。
「そうだね、ごめん」
いつもなら都合の悪い話はさらりと受け流すのに、今回ばかりはユオもすぐに謝った。
「それで、エレンディル殿下はどんな方なんです?」
くだらないと言わんばかりに、ララネは話題を戻す。
「気のいいタイプではあるよ。そろそろここに来ると思う」
ユオもけろりと元に戻っていた。
アリィが薄氷について無反応だったのと、叱られたのが少し嬉しかったのだ。
穏やかな時間が過ぎ去る中、店に新しい客が入ってくる。
このレストランにしては珍しく、フードを被った男が一人だけだ。
外套越しでも分かるほどの筋肉量があり、ユオと同じくらい――それよりもほんの少しだけ背が高い。
その男は一行を見るなり、突進するかのように小走りでやってくる。
「ユオ、シノ! 見つけたぜ!」
すると、彼はユオとシノの肩を抱き、親しげに笑った。
認識阻害の魔法も、王族レベルの魔力量がある相手には効果がないのだ。
「あぁ、エレン。久しぶり。二人に紹介するよ。彼こそが、僕の手下のエレンだよ」
ユオはすっかりいつもの調子で、女性陣にエレンを紹介する。
手下だとか言われていたので、アリィはてっきり線の細い王子だと思っていたくらいだ。
それでも、しおらしく自己紹介するのかと思いきや――エレンはユオの頭を引っぱたいた。
「誰が手下だ!」
あまりに豪快で、ユオの顔は皿に直撃する。
(あのユオシェム様を叩くなんて……すごいわ!)
アリィに衝撃が走った。
これまで見てきたユオは、谷底にいる部下たちからも敬われていて――王太子であるシノですら、一目置く存在だった。
それが、末席の王子であるエレンに叩かれているのだ。
「えー? どう見ても格下じゃん。僕の方がイケメンだしね。これでも食らえ」
顔を上げたユオの額には、残していたピーマンが貼り付いていた。
それを掴み、エレンの口に無理やり放り込む。
「うわ、またピーマン残してやがる! 子どもかよ!」
「だって不味いもん」
すると、次は髪を引っ張り合ったり、耳を引っ張り合ったりし始める。
喧嘩しているのかじゃれ合っているのか、女性陣には傍から見てもよく分からなかった。
(さすがにダメだわ……食べ物で遊ぶなんて!)
アリィは怒って注意しようと立ち上がったが、先に重たい氷の玉が二人の頭の上に落ちてくる。
ララネと共に、心当たりのある人物の方を見た。
「食べ物で遊ぶなと……前にも言ったはずだ」
黙っていたシノが静かに怒っている。
騒いでいた二人は、ばつが悪そうに目をそらして黙り込んだ。
それから店に謝って多めに金を払うと、シノは問題児たちを氷の鎖で繋ぎ、引きずりながら宿に戻っていった。
結果、店の出禁は免れたが――アリィとララネは恥ずかしい思いをしながら頭を下げ、それに付いて行くのだった。




