45 水の中
沈んでいく音がする。
私は水に落ちる前に息を吸って止めていた。
水に落ちた時に大切なのはあわてないこと。
目を開けて明るいほう――水面の方向を確認すれば、どこへ向かって泳げばいいかで迷わない。
幸い、この湖は透明度が高かった。
王族が水泳の練習に使用する場所のため、水質はとても良いに違いない。
上に……!
私は泳ごうとしたけれど、体が異常なほど重かった。
布地たっぷりのドレスが急激に水を吸い込み、重石のようになってしまっている。
ドレスを脱ぎたいけれど、後ろボタンだけに難しい。
このまま自力で浮上するのは難しいような気がした。
ドレスさえなければ、なんとかなりそうなのに……。
その時、私の頭の中に浮かんだのはヴァン様の言葉だった。
――水の中で火を燃やしなさい。それができれば、かなりのものですよ。
不可能だと思っていたのに、今の私にとっては名案のように思えた。
ドレスを火で燃やしてしまえばいいわよね?
普通は燃えない。でも、私は魔法が使える。
強い火は水に負けない。むしろ、蒸発させるほどの力を持つ。
水の中にも空気がある。それに私の魔力を混ぜることによって支配力を強め、魔法で一気に燃やせばいいと思った。
できるわ! 私は悪役令嬢だもの!
奇妙なまでの自信があった。
燃えて!
私は頭の中で呪文を唱えた。
水の中で口を開けたら空気がなくなってしまうため、そうするしかない。
一回目は失敗。
でも、
私は悪役令嬢なのよ! 水なんかに負けないわ! 燃えなさい!
そう思って唱えたところ、魔法が発動した。
周囲が明るくなったのは、私を取り巻くように現れた魔法の炎のせい。
水中だというのに激しく燃えながら輝いていた。
だけど、ドレスは燃えない。
ダメだわ……。
自力でドレスを脱げるかどうかを試すべきだったと私が後悔した瞬間、魔法がかかるのがわかった。
同時に時間切れ。
私は息を止めることができなくなったけれど、吸い込んだのは水ではなく空気だった。
どうして……?
その理由はすぐにわかった。
私にぐんぐん近づいてくるアルード様の姿が見えた。
アルード様が私に向かって手を伸ばす。
その瞬間、圧倒的な水が迫ってくる感覚がした。
でも、すぐにそれはなくなり、息が苦しくなることもなかった。
「大丈夫か? 水を飲んでしまったか?」
「いいえ。息を止めていました。どういう状況でしょうか?」
「ルクレシアを見つけて球状結界を張った。息ができるようになるが、泳げなくなる」
それで息を止めていなくても息ができたのね……。
「水面に上がるには結界を解かなくてはならない。息を止める必要があることを伝えるため、一瞬だけ結界を解いてから再度私とルクレシアを守る結界を張り直した」
結界がなくなった瞬間、水が浸入しようとしたために圧倒的な水が迫る感覚がした。
でも、すぐに次の結界が発動したせいで水が迫る感覚がなくなった。
「落ち着け。今のうちに息を整えろ。合図をしたら、息を止めてほしい」
「どのぐらい息を止めればいいのでしょうか?」
結構深い場所にいるというか、底といってもいいような風景だった。
頭上に見える明るい場所が遠く感じてしまう。
「一分以内だろう」
「速いですね?」
「そうだ。とても速い。だが、水泳の授業を受けていないルクレシアにとっては息を長く止めるのは無理だ。もしも途中で息ができなくなっても心配するな。水面に出たら魔法をかける。絶対に死なない」
魔法で応急処置をするため、死ぬことはないと言うわけですね。
「とにかく我慢して口を閉じ、できるだけ長く息を止めろ。私と離れるな。わかったか?」
「はい」
「では、三秒後だ。一、二」
三!
私は息を止めた。
その瞬間、結界が解かれたのがわかった。
全身が水を感じる。
私を抱きしめたアルード様と一緒に水の中に漂い、急激に浮上していく感覚も。
あっという間に水面に顔を出すことができた。
「大丈夫だ。あとは船に戻るだけだ」
そう言い終わるよりも早く、ふわりと浮かぶ感覚がした。
私とアルード様は抱き合った状態で球状結界に包まれ、宙ぶらりんの状態。
「兄上……」
長い銀髪、黄金の瞳を持つ美青年が魔導士と一緒に浮遊していた。
私とアルード様はふわふわと空中を移動し、ボートの上に乗せられたと思った瞬間に結界が消えた。
ボートが静かに進み出す。
「座ろう。兄上が魔法で送ってくれるようだ」
私とアルード様はボートの上に座った。
その途端、ボートの速度が上がる。
ほどなくして小型のボートは元々いた場所に戻って来た。
王太子一行の姿はない。
ボートが進むほどその姿は遠ざかり、やがて飛んでいってしまった。
「王太子殿下も離宮に来ていたのですね」
「別館で着替える」
アルード様は私をボートから降ろすと歩き出す。
小道を進んで別館につくと騎士、魔導士、侍女が揃って出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ」
ずぶ濡れの私たちを見ても、誰も驚かない。
「着替えを」
「ご用意しております」
着替え部屋には昨日女子が着ていたワンピースが用意されていた。
入浴もしたし、髪も風魔法で乾かしてもらったのでスッキリした。
「別室にお茶をご用意しております」
案内されたのは見学していなかった部屋で、応接間のように見えた。
ソファにアルード様が座っている。
「座れ」
「はい」
アルード様の向かい側に座った。
「食堂で昼食を食べられるようにしているが、食欲はあるか?」
「安心したらお腹が空きました」
アルード様は意外そうな顔をした。
「そうか。回復魔法は必要そうか?」
「アルード様が適切に対応してくださったせいか、自分でもびっくりするほど大丈夫です」
「無理をしなくていいが?」
「私は成長しました。大噴水に落ちた時とは違います。本当に大丈夫から」
「聞きたいことがある」
アルード様は私を真面目な表情で見つめていた。
「水中で魔法を使ったな?」
湖の透明度は高いとはいえ、視界は水中だからこその色合いになる。
沈んでしまうほど距離もできるため、見つけにくくもなってしまう。
でも、私が魔法を使ったことで、すぐに見つけることができたと言われた。
「ルクレシアを包み込むように激しい炎が燃えていた。水中ではありえないような光景だった」
「必死でした。私にできるのは火魔法なので、使ってみることにしました。ドレスを燃やせないかと思って」
「ドレスを燃やす?」
アルード様は眉をひそめた。
「ドレスがなくなれば軽くなるので、浮くかもしれないと思って」
「……わからなくはないが、服がないのは大変だ。浮上したあとは特に」
「確かにそうですね」
裸だったらまずい。淑女として大問題。
「ルクレシア自身が燃えなかったのもよかった」
「それは怖いです」
「このことについては誰にも言うな。兄上に会ったことについても同じだ」
「王太子殿下のことも?」
私は驚いた。
「お忍びで来ているのですか?」
「予定よりも早く来ている。他の者に気を遣わせたくない。挨拶も不要だ」
「わかりました」
食堂でランチを食べることになった。
食事はお洒落な感じ。
水泳の授業を受けた女子が喜ぶはずだと思った。
「先に帰れ。兄上と話をする」
アルード様と別れ、馬車に乗って離宮に戻った。
部屋付きの侍女はワンピース姿の私を見て驚く表情になったけれど、理由について聞くことはなかった。




