0,Prologue
——都内某所、金曜日の夜。天気は晴れ。
所謂華の金曜日。僅かに残った花弁を冷ややかな夜風に踊らせる桜の下、今年最後の花見を楽しむ人々で川沿いの飲食店街は賑わっている。
草臥れたワイシャツ姿の東雲隼汰もまた、今年の桜の最後の艶姿を肴に、橋にもたれて1人缶ビールを枯らせていた。ひんやりとした夜風に花弁が散る中で酒を飲んでいる人間の殆どが2人か3人以上のグループだ。
何処を見ても人の群れ、鼻を赤くした隼汰はゴミ箱を探すために辺りを見回したことを後悔した。グシャリと缶が潰れる音と盛大な溜め息は、誰の耳にも届くことなく喧騒の中に消えていった。
こんなはずじゃなかった。東雲隼汰。29歳。独身。4年制の国立大学を卒業し、大手IT企業に就職し現在勤続8年目である。忙しくともやりがいがある仕事、悪くない収入、そして大学生の頃から交際している1つ年下の愛しい恋人。まさに順風満帆。絵に描いたような幸せの中に東雲隼汰はいた——ついこの間までは。
1週間前、いつも通りに残業を終えて帰宅した隼汰を出迎えたのは恋人ではなく、彼女の私物が消えたリビングと一通の置き手紙だった。いや、置き手紙と呼べるようなものでもない。A4サイズのルーズリーフが半分に折られ、その表紙に当たる面にボールペンで『ごめんなさい もう限界です さよなら』とだけ綴られた紙が、二人用のダイニングテーブルの上にぽつんと置かれていた。
半口を開けて呆然としていた隼汰が我に返ったのはそこから約3分が経過した後だった。すぐさま携帯端末を取り出した隼汰は通話アプリで彼女へコール。応答はなし。チャットも既読がつかない。彼女のSNSをチェックしても2日前から更新されていない。彼女の実家は……そもそも連絡先を知らないことに思い至り額を抑えた。
途方に暮れた隼汰は縋るような思いで共通の知人達に片っ端から連絡を取った。連絡が取れた知り合いの殆どが首を横に振ったが、その中の一人の友人女性に必死に頼み込み、何とか仲介役を引き受けてもらうことに成功した。
「はァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
嫌なことを思い出した。隼汰は頭を掻きむしりながらまた大きな溜め息をついた。
あの日から数日後、仲介役の友人女性からの呼び出しを受けてファミリーレストランに向かった隼汰を待ち受けていたのは、何の意外性もない、極めてシンプルかつ残酷な別れ話だった。
大人数用のボックス席に隼汰、テーブルを挟んで真向かいに友人女性、隣に彼女(元)。地獄の様な数10分間を要約すると、毎日仕事仕事で彼女にまともに向き合おうとしない、挙句当然のように家事は彼女に丸投げしてお礼も言わない。そんな自分のことしか考えてないクズには嫌気がさした、金輪際関わろうとするな。という全く反論の余地のない叱責と死刑宣告の時間であった。
不意にニュースアプリの通知音が鳴り、携帯端末のロック画面が光る。彼女と泊まりがけで遊園地に遊びに行った際に撮ったツーショット。キャラクターの耳のカチューシャをつけた彼女が可愛らしい。
ああ、これも何年前に撮った写真だったか。彼女への恨みは無い。悪いのは自分自身だ。分かっている。分かってはいるが、それはそれ。澱んだ心はどうしようも無い。この世の全てが自分を嘲笑っている様に見える。
「はぁ……いっそ世界滅びればいいのになあ……」
その時だった。
——爆発音。咆哮。悲鳴。破壊的な空気の振動が、その場にいた全員に襲いかかった。
その場にいる人間の全員の携帯端末から鳴り出す不気味な周波数の緊急避難警報。先程までの楽しげな喧騒はたちまちに消え、代わりに阿鼻叫喚の渦が人々を飲み込んでいった。
地獄の震源地は最初の爆発音が響いたとある飲食店の軒先、文字通りに空間が爆ぜたそこには、黒く醜い化け物の姿があった。歪な雫型の胴体に細い4本の腕と2本の足、頭部と胴体の間に首に相当する構造はなく、全身はゲル状に絶えず流動している。
その顔に目や鼻は無く、ぱっくりと開いた人間のそれに似た口のみが存在している。飛び出した乱杭歯の隙間からは涎と思しき黒い液体が流れ落ちている。
そんな化け物が1体、否。2体、3体、4体、数えきれないほど。何も無いはずのところから発生し、その数を不気味に増やし続けている。そして周囲に立ち込める光を通さぬ霧。霧は化け物の発生地から瞬時に拡散し、その濃度を上げながら暗いドームを拡張し続けている。
不気味な咆哮をあげた化け物はその体格からは想像できない速度で、周辺の人間や野良猫、桜の木に至るまで、その場にある全ての生命に手当たり次第に食らいついていく。人々は我先にと霧の外へと散り散りに駆け出し、隼汰もまた己の身を守るため避難行動を取っていた。
並木沿いに進んでいた隼汰は記憶を頼りに、店舗の間を通る車道へと行き先を変えた。こちらの方が早く大通りに出ることができる。
不意に、何かに躓いた隼汰は体勢を崩し、疾走の勢いのまま前のめりに転倒した。
こんな時に一体なんだと、立ち上がりながら忌々しげに隼汰は足にぶつかった物体を睨む。睨んで、少し後悔した。大学生だろうか、隼汰が躓いたのは地面に蹲り、震えている男性だった。脚を怪我して歩けなくなってしまったらしい男性は今にも泣き出してしまいそうだった。
……己の安全を考えるなら、一人ですぐにこの場を離れるべきである。踵を返そうとした隼汰の頭に、友人女性の言葉が浮かんだ。
——『自分のことしか考えてないクズ』。
一瞬の逡巡の後、盛大に舌打ちをした隼汰は男性に立てるかと声をかけ、肩を貸して歩き出した。隼汰の歩みは先程と比べようもなく遅い。右肩に掛かる重さ、有害な霧を長く吸い込んだせいで痛む肺と霞む視界。それでも隼汰は止まらなかった。
隼汰を動かしていたのは、生への執着や善意などではなかった。それは子供のような反感と意地。誰がクズだ、好き勝手言いやがって。この最悪な状況の中で他人に手を差し出すことができる自分は断じてクズなんかではない、と。恋人でも、友人女性でも、自分自身に宛ててという訳でもない。が、何でもいい。何でもいいから、何かに大声で叫んでやりたかった。
隼汰は男性を励ましながら、少しずつ、安全圏へと足を進めた。
既に周辺には2人以外の人の姿はなく、時折化け物の鳴声と思しき轟音が不快に鼓膜を揺らした。今化け物が襲って来たらひとたまりもないな、などと苦笑した時だった。
肩を貸していた男性が突然呻き声を上げて激しく苦しみ出した。つられて体勢を崩した隼汰は男性と共に地面に倒れた。黒く変色した肌を掻きむしりながら悶え苦しむ男性。まずい、と背中に冷たい汗が伝う隼汰に追い打ちがかかる。
先程2人が通ってきた路地、その側の建物の壁が崩れ、瓦礫の中から現れた化け物が2人に迫ってきていた。
まさに絶体絶命。何とか打開策を探し出そうにも既に一欠片の冷静さも無くなった頭が正常に回るはずがない。無意味に過去を反芻する脳が走馬灯を見せる。極限の焦燥の中、隼汰の瞼の裏に映し出されたのは恋人との食事の風景だった。当たり前だと思い込んでいた、永遠に戻る事はない幸せな過去。ああ、人生の最後を飾るのが後悔と未練か。隼汰が静かに死を覚悟したその時だった。
——眼前の常闇が、オレンジ色の光に切り裂かれた。
「怪我は無いかい、お兄さん方!」
一秒前まで化け物がいた場所に一人の少女が立っていた——真昼のようなオレンジ色に輝く戦斧を背に携えて。
「あ、ああ。だけどこの人が……」
少女の足元で、真っ二つになった化け物の残骸が崩れて霧散していく。それを蹴り飛ばして隼汰達に駆け寄ってきた少女は男性の全身を観察した後ににっこりと笑って見せた。
「うんうん、大丈夫! すぐにここから逃げれば助かるよ」
小柄な体で意識を失った成人男性をひょいと担ぎあげる少女。
「お兄さんは自分で歩けるね? 私が安全な場所まで送るから、もう心配いらないぜ!」
そう言って走り出した少女の左腕、『辰巳魔法協議会』の白い腕章が僅かな月光を反射して煌めいていた。
そこからの3人の足取りは恐ろしく軽快なものだった。隼汰は化け物の気配を迂回する経路を選んで慎重に進んでいたが、戦斧を手にした少女は違った。
こちらの方が早い、と隼汰の制止など全く聞かずに化け物の群れに飛び込んだ少女。大の大人一人を抱えたまま、片腕だけでその悉くを斧の錆に変えていく。オレンジ色に発光する刃の白磁の戦斧。少女は突貫した勢いのまま化け物の一体を斜め上に切り裂き、身体ごと跳ね上がった先でもう一体の頭部を破壊。そのまま横方向の回転で後ろに控えていたもう一体の首を落とす。宙に浮いた少女の身体。自由落下の勢いを乗せ、真下で大口を開けていた巨大な個体を縦半分に割った。
「ちなみにヨルの中では方向感覚と距離の感覚から麻痺していくし、詳しい原理は分からないけど空間が歪んでるから、闇雲に進んでも抜け出すのは難しいんだぜ」
隼汰の背後に迫っていた小柄な一体に飛び膝蹴りを喰らわせながら少女は言った。
「だから化け物……夜行獣が目で見える距離くらいの深度にいるってわかったら、出来るだけ空気を吸わないようにして、どこかに隠れていた方がいいよ。——怖いかな? 大丈夫! 私達、魔法使いが絶対に助けに行くから!」
*
——数分後、無事に黒い霧……“ヨル”を抜け出した隼汰は男性と共に救護用のテントで診察と応急処置を受けていた。
礼を伝える間も無く、「まだやることが残ってるから!」とヨルの中へと戻ってしまったオレンジ色の魔法使いのことをぼんやりと考えていた隼汰は、消毒液の沁みる痛みで現実に帰ってきた。
隼汰の右手にオキシドールをぶちまけていた気怠そうな女医にあの男性の安否を確認する。既に回復して家族の迎えを待っていると言う彼女の言葉に安堵の溜め息をついた。……女医が何故かとてもつまらなそうにしていたのは気にしないことにした。
良かった。と、心の底からそう思えた。そう思えたことに、苦笑した。
「意外と、何でもないのかもなあ」
死の危機に瀕して、見ず知らずの他人に手を差し伸べて、他人に手を差し伸べられて、そして他人のために心を砕くことが出来た。
隼汰の人生の中で間違いなく一番の窮地。己の本性が剥き出しにされる局面で、己の行動は善であったと、少なくとも自分本位のクズのそれではなかったと胸を張って言えるだろう。
見返してやる、という話では無い。間違いは素直に認めている。その上で、自分自身も捨てたものではないと、東雲隼汰はそう思えたのであった。
*
2人の男性を送り届けた少女はヨルの中、他に生きた人間の反応がないか、探索を続けていた。
きょろきょろと辺りを見回していた少女の通信機から、不意に快活な少女の声が響いた。
『こちら鶯! 調子はどうだいシスター』
「こちら鹿乃子! 夜行獣6体撃破と要救護者2名の救出に成功。うち1人は侵食が始まってたけど、すぐに治療を受けさせたから大事は無いぜシスター」
『うんうん、流石は私のかのちゃんだ。帰ったらうーちゃんの特製ハンバーグを作ってあげよう』
「マジかシスター! ちなみにちなみに、半熟たまごとチーズなんかもあると可愛い妹のキラキラプリティスマイルが見られるぜ!」
深夜の高カロリーパーティだ! とお団子頭をぴょこぴょこと揺らして喜ぶ少女。じっとりと粘り付くような黒い風を頬に受けた彼女は笑みを消し、オレンジ色の目を細めて静かに虚空を睨んだ。
「うーちゃん」
『なんだいかのちゃん』
通信機の向こう側の少女にも緊張が伝播する。
「夜行獣の数が多い。それに一匹一匹が強くてでっかい。これ多分、いる」
『ああ。紫陽さんも同じこと言ってたぜ。だから——あの子が向かってる』
*
並木から少し離れた背の高いビルの立ち入り禁止の屋上。通常であれば晩春の喧騒を一望出来るその場所に細身の男が一人、幽鬼のごとく立ち尽くしていた。
陰鬱に伸びたまつ毛が半月型に縁取る、マゼンダを溶かし込んだ両の目。黒く長い髪。夜の帳を切り取って人の形に縫製したような出立ちの男は、気怠げな様子で眼下に蔓延るヨルを眺めていた。
薄まりつつある闇に興味をなくしたように、緩慢な動作で踵を返そうとした男はかくりと不自然に首を倒した。
——コンマ1秒後。男の頭部があった場所を、水色の稲妻が通り過ぎた。
黒い髪が僅かに焼き切れる。
間髪入れずに男に肉薄したのは白。
男の顔面を正確に狙った蹴りは、猛禽類の翼のような形に変化した男の影で防がれた。
襲撃者の元へと水色の稲妻が戻る。否、それは水色に発光する刃の白磁の槍。
白く長い、空気を抱き込んだ柔らかな髪。淡い光を放つ、人工的なまでに鮮やかな2つのライトブルー。
白磁の剛槍の主人には似つかわしくない、綿毛のような少女は虚空を跳ねる。
夜の帳、壊の具現にして全ての元凶——ヨルの王。
鮮烈な白と薄瑠璃の少女——現人類最高火力と謳われる魔法使い。
対峙する両者。
人間の視覚機能では凡そ観測不可能な一瞬の間に交わった刃の数は10を超えていた。
水色の閃光が破裂した先。
右の翼に風穴の空いたヨルの王は宵の闇へと。
左の脇腹に深い裂傷を負った少女は未だ渦中にある眼下の地面へと落ちていった。




