いばら姫は2度眠る(6)
千景を母親に引き合わせた後1週間、峻は空いた時間でぼちぼちと引っ越しのための荷造りを進めた。
本と衣類以外は、大して揃えるものもない、ラクな仕事である。
それよりむしろ大変になりそうだと峻が警戒していたのは、母親への対応だった。
しかしそちらも、特段は何事もないまま、日が経っていった。
母親からは一度だけ 「製菓業ってたくさん、甘いものを食べるでしょう。健康管理できるのかしら。病気が心配だわ」 とこぼされたが、あらさがしをして欠点をあげつらおう、などという気は、ないらしい。
母親が納得しているとは、峻にはとても思えなかったが、父親が陰でなだめているのだろう、と無理やり納得した。
母親の気持ちをそこまで勘繰るのは、もうすぐ離れて暮らす今となっては、面倒に思えたのだ。
引っ越しの日は、穏やかな天気だった。
その朝は天気と同様、そして普段通りに静かで……いや、少し違う。
やがて引っ越し屋がきて荷物を積み終えるまで、母親は、普段よりもさらに、静かだったのだ。
お得意の 「あの時私が急いでなければ、あんな事故には……」 という呪文すら、出てこない。
「私を捨てるつもりなのね」 など、悲劇のヒロインにでもなったような台詞を吐くのでは、とまで予想していた峻にとっては、拍子抜けだった。
何も言われないとより警戒感が増すもので、玄関で両親に見送られながら、峻の口数が普段より多くなる。
「じゃあね。父さんと仲良く暮らせよ」
「まるで仲が悪いみたいじゃないか」 と父が苦笑し、母親があら、と言った。
「あなただって、たまには帰ってくるんでしょう」
「何かあったら、いつも通りメッセージ入れてくれたらいいよ。こっちからも連絡する」
「千景さんもあなたも忙しいでしょう。お母さん、食事作りに行ってあげるわよ?」
「元町までわざわざ?」 と峻がいえば、父親が重ねるように 「それはやめておきなさい」 とフォローした。
「だって……」
「いや、やめてくれよ」
夫に止められ峻からは断られて、母親は不満げに肩をすくめた。
「行ってらっしゃい」
普段通りの、挨拶。
まるで、峻が母親の元から去っていくという事実など、全く無いかのように。
「じゃあね」
峻はぼそぼそと口の中で別れを告げ、家の扉を開けた。
中天近くに差し掛かっている、春の日差しが薄暗い玄関に差し込む。
峻は光の中にと足を踏み出し、振り返らずに両親に手を振った。
峻と千景の新居は、元町商店街から徒歩10分程度のマンションだった。
千景が朝早い仕事であることを考慮しての選択である。
お互い大した荷物も無かったはずだが、それでも2人分運び込み終わった時には、すでに昼過ぎになっていた。
「お昼買ってきますね」 と出ていった千景を見送り、少し荷物をかたづけて、ふと、峻はスマートフォンを取り出した。
ベランダから床に午後の日が差し込んで、段ボールの影を作る、この光景を写真に残しておこうと思ったのだ。
しかし、結局は撮るのをやめて、また片付けはじめる。
(これからは、写真に残すのではなくて、今の生活を大事にしよう)
思えば、これまでの峻は、与えられた条件を変えていこうとも、その上に新たな幸せを築いていこうともせず、ただ逃れようともがき、幸福だった過去にしがみついていただけかもしれない。
けれどもそれでは、そばにいる人を、幸せにすることはできなかった。
(これからは、もし失っても、残った想い出にしがみつくのではなく、心底から悲しめるようになろう)
玄関の戸が小さく音を立てて開き、千景が弁当の入った袋を提げて入ってきた。
「ただいま」 「おかえり」
言い合って、同時に照れ笑いをする。
適当な段ボールをテーブル代わりにし、フローリングの床に座る。
「「いただきます」」
はからずも声が揃って、2人で目を合わせれば、また、照れ笑いが浮かんでしまう。
千景がぺこり、と頭を下げた。
「これから、よろしくお願いします」
「よろしく。色々至らないと思うけど」
「大丈夫ですよ。峻さんはやればできる人ですから」
「じゃあ、まずは料理かな」
「私もがんばります。峻さん慣れてないでしょう?」
千景がふふっ、と笑ったが、実はそうでもない。
たまに気分が物凄く落ち込んで何もできなくなる母親のために、峻はある程度の家事は習得済みだった。
何事も無駄にならないんだな、と思えばある意味、感慨深い。
「大丈夫、任せて」
「頼りになります」
千景が真面目に頭を下げると、ショートの黒髪に午後の日差しがあたって、小さな虹色の光が散った。
その眩しさに、峻は目を細める。
(この日をずっと覚えていよう)
これから千景と、共に暮らしていくために。
★★★★
峻の新しい生活は、忙しいものになった。
けれども、母親と顔を合わせなくて済む、あの声を聞かなくて良い。
それだけでも、心身は意外なほど、軽くなった。
母親のことは気がかりではあったが、父親に尋ねても 『普通だ』 『心配するな』 と言った返事ばかりだ。
それで峻は、安心していた。
母親のことなど忘れていても、時間はどんどん過ぎていく。
朝は峻が床を掃除している間に、千景が朝食を作る。
二人で家を出て、峻は大学へ、千景は仕事場へと向かう。
早く帰宅した方が夕食を作り、後で帰った方が洗濯をする。
千景は帰りが9時を回ることも多く、洗濯も峻がしようとしたところ、遠慮がちに 「あれは洗濯ネットに入れる分で、あのセーターは分けて洗うものだった」 と言われた。
全くわからない。
そこで、洗濯が千景、夕食作りが峻、ということに自然に落ち着いた。
これは、毎日、さりげなく母親に連絡を入れるためにも、ちょうど良かった。気がかりはあからさまに示さない方が良いだろう、と峻は判断していた。
調理方法や味付けを聞く、その程度でいいのだ。
母親からの返事は長く、その中に、『千景さん、あなたにそんなことまでさせているの?』 『夕食だけでも食べに戻ったら?』 などの文言が入った。
それに短い返事をすることを繰り返すうち、母親への懸念はどんどん薄れていった。
心配するほどのことはなかった。
短い期間で、峻はそう信じるようになってしまっていた。
―――協力しあっていても、意外と家事は、手をとられる。
千景とはゆっくり過ごす時間もほしいし、休日が合えば一緒に出掛けたりも、したい。
もちろん、本業の勉強もある。
峻の毎日はこれまでにないほど充実しており、『母親を救う』 ことは気にはなるものの、緊急事態ではなくなっていた。
いつの間にか、このまま、母親と関わらずに生きていけるのではないか、と考え、そうしたい、と願ってしまうほどに―――
千景と峻の新居は元町商店街から徒歩約10分、となっていますが……すみません、そのあたりに、カップルにちょうど良い新居があるかと言われると実はわかりません(爆)
元町は観光地として表通りは華やかなんですが、人の住む場所は……日差しが良くなさそうなビルがごちゃっと建っている通りになってきそうな気がします。
住んでいる人いるのかな? くらい、生活感はありません。
(そうしたビルの中に真に旨い中華のお店があったりするそうなw)
実際に居住に向いているのは、駅より北側に上がった地区になりそうです。
そこからは旧居留地もそこそこ近いですね。
※あくまで筆者の見解です。