いばら姫は2度眠る(5)
山陽電鉄の月見山駅から、道にはめられた薔薇の模様のタイルを追いつつしばらく歩くと須磨離宮公園である。
ベルサイユ宮殿の庭を彷彿とさせる噴水広場には、いつの時期にも人影が絶えない。
そこで千景とランチを摂り、ゆっくり散策して帰宅した頃には、時刻は15時半を回っていた。
「遅くなるから30分程で帰ってもらうよ」 と峻が告げると母親は明らかに不服そうだったが、何も言わずにお茶を用意しだした。
千景が手伝おうとして 「お客様なんだから座っておいて」 と断られ、所在なげに峻の横に座る。
こういう時にどうフォローすべきだろう、と思いながら峻はこそこそと謝った。
「ごめん」
「いえ。ちょっと張り切りすぎたかも」 千景も小声で峻に言い、目の前に置かれた菓子皿に歓声を上げた。
「手作りですか? 美味しそう」
「素人ですからね。ケーキ屋さんになる人にはどうかしら」
母親の声は少し固く冷たいように峻には聞こえたが、千景はかまわず、プリンをすくってぱくりと食べてみせた。
「懐かしい。お母さんの味です」
「無理して誉めなくてもいいよ」
峻がややおどけて言えば、すぐに父親が 「いや、母さんは上手だよ」 とフォローを入れ、場が少し和んだ。
ひと通りの挨拶を終え、少し雑談をする。
主に喋ったのは父親で、母親は終始、静かに相槌を打ちつつ、少しぼんやりとした視線を千景と峻に送っていた。
おそらくは 『常識』 として、他人に感情を剥き出しにすることをよしとしていないからこその態度だろう。
それがいつ崩れるか、と気が気ではない峻だったが、そんな懸念をよそに、顔合わせは表向き和やかに終わった。
「ふーっ……」
千景を送ろうと家を出た峻は、ドアをしめて3歩離れたところで大きな息を吐いた。
ふふっ、と千景が小さく笑う。
「なんだか峻さんの方が、緊張してたみたい」
「緊張したよ。母が変なことを言い出さないかとハラハラしてた……手伝ってくれようとした時も、ごめん」
「気にすることじゃないです」 千景はかぶりを振った。
峻の母親から手伝いを断られた時には確かに、壁を感じたものの、予想の範囲内。
そんな人もいるよね、というのが千景の感想だ。
「お母さん、悪い人じゃないですよ」
「悪くはないかもしれないけど、難しい人だから……うまくやってくれて、ありがとう」
「きっと仲良くできると思います」
「いや、もう会わなくていいよ。あの人は人を支配したがる人だから。
周囲に自分と違う人間がいると、安心できないんだ。
あまり会ってると、いつの間にか取り込まれてしまう」
峻しか知らない母親の顔をいくつも見てきたからこその言葉だろう。
だがそれにしても、峻の言い方は随分と冷たいような気が、千景にはした。
これまでに峻から聞いていたことと、先ほど会った本人の印象を重ねるならば、峻の母親は千景にとっては、『かなり困っている、普通の人』 だ。
昔、千景も同じだったことがある。
昔の千景を見たら、峻は、今母親にしているような態度を取るのだろうか。
「お母さんは、昔の私と似ていると思います」 気がつけば千景は、峻とつないでいた手を離していた。
「峻さんは、私が困っていたら、助けようと思ってくれないんですか?」
「いいや、もちろん、力になりたい」 峻は即答して、それから困ったように、薄雲が覆う空を見上げる。
「千景さんのおかげで、母のことも救いたい、とまた思えるようにはなっているんだ……けど。
先が見えないし、千景さんを巻き込みたくない、かな。
……なんというか、普通に見えながら強烈な人だから……」
それに、峻にでさえまだ、母親の回復に至る道筋は見えず、その道のりは果てしなく遠いようにしか、感じられない。
周囲が頑張ってどうなるというものではない。
母親自身にかけられている呪いが解けなければ、母親自身が、眠りから覚めたいと思わなければ。
千景が峻と、手をつなぎなおす。
「もし協力が要るなら、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとう、けど……」
「たぶん、お母さんを助けるのは、私を助けるのと同じことだと思います」
「……」
峻は目線をアスファルトの上にさまよわせた。
千景の言う通りかもしれない。
だが、峻には千景のように、真っ直ぐには考えられないのだ。
そうするには、母親への感情はあまりにも複雑に絡まってしまっている。
「とりあえず、来週からよろしく」
困った峻がわざとらしく話題を変えると、千景が恥ずかしそうに笑った。
「お揃いのお皿、買いに行きましょうね!」
★★★★
食器の片付いていないテーブルを前に、光子はひとり、茫然と座っていた。
峻は彼女を送って出てしまっている。
彼女に会う前までは、なんとか峻の目を覚まさせてやろうと思っていた。
だが、そうはできなかった。
ショックなことに、峻と彼女との親密さは、光子の予想以上だったのだ。
これでは、峻の目の前で下手に振る舞うのも、後で気になることを伝えるのも、逆効果だ。
(峻、夢中になっている時に水を差すと、ムキになっちゃうところもあるし……
普段は言うことを聞いてくれるのに、こうなると頑固なのよね)
きっと騙されているに違いないのだから、放っておくこともできないが、今は峻自身が気づくのを待って、静観した方がいいかもしれない。
光子はそう判断し、誰もいない部屋でためいきをついた。
(私がこんなに心配しているのに、夫ったら、何の役にも立ってくれないんだから)
先程まで夫は、「峻が自立したいというなら、めでたいことじゃないか」 などと言っていたのだ。
「心配するな、っていうの?」
「彼女さんも良さそうな子だったじゃないか。きっと2人でやっていけるさ」
「何かあってからじゃ、遅いのよ? あの子が困る目に遭ったら、どうするの」
必死で言いつのっても、夫はちっともわかってくれなかった。
「なぁ、峻も、もう大人なんだよ。わかってやれよ」
宥めるような諭すような口調が気に障って、聞こえないふりをすると、夫はすっと自室に引っ込んでしまった。
この人はいつもそうだ、と光子は思う。
正しい事実を言うだけで、光子の気持ちを本当に理解してくれたことなど、ないのだ。
―――事故の後しばらく、夫は 「みっちゃんのせいじゃない」 としきりに嘘を言っていた。
その台詞は、少し経つと、こう変化した。
「そんなに思い詰めるなよ。訴訟は結局、示談になったんだし、賠償だってもう払ったんだから。
賠償のほとんどが保険から降りたんだ、みっちゃんが悪いんだったら、そうはならないだろう?」
わかっていない。わかっていない。
私はこんなに、つらいのに。
そしてさらに時が経ち、神戸に引っ越した頃には、夫は何も言わなくなっていた。
夫は簡単に、戻ることができたのだ。
朝起きて会社に行き、仕事をして、夜には帰宅、食事をし、テレビを見ながら軽く飲み、風呂に入って寝る……そんな、当たり前の日常に。
光子ひとりを、何もない、何も見えない檻の中に残して。―――
時計が5時を回ったのに気づき、光子はのろのろと立ち上がった。
(片付けなきゃ……それから、洗濯物を取り入れて、夕飯の支度)
峻がいるからこそ、この機械人形のような日常も、なんとか送っていくことができたのだ。
―――ひとりになってしまったら、どうやって日々の重さに耐えていけばいいのだろう?―――
テーブルの上のカップを下げようとして、手が菓子皿にあたり、皿がテーブルから落ちる。
カシャン、と音を立てて砕けた 『お母さん 大好き』 の文字を拾いながら、光子は静かに、泣いた。
須磨離宮公園は、山陽電鉄の月見山駅から少し歩いたところ。本編にある通り、薔薇のタイルがはまった小道を辿ってしばらく歩くと到着です。
途中はものすごく普通に住宅街の中なので、タイルはかなり重要な目印。
(ちなみにこの辺の土地は割かし高い。峻が住んでるのはこちらと反対側、線路挟んで浜側です)
四季折々、広い園内のどこかに何かが咲いている感はありますが、やはり有名なのは薔薇園。
季節には噴水庭園はじめ、園内のあちこちを彩っています。
噴水庭園の上にレストハウスがあります。美しい庭園を眺めながらの食事もオススメ。
あとは何かなー。あじさいもなかなか見事。
でもあじさいは、わざわざ見に行くなら六甲山や神戸森林植物園の方が良い気もしますね。
どちらも有名スポットです。




