いばら姫は2度眠る(4)
千景が挨拶に来ることになった土曜日は、朝から忙しかった。
母親は、いかにも歓迎しているように、 「ケーキは大げさだからクッキーを焼くことにするわ。それにプリンも」 と張り切り、 「恥かくだけだから」 と言い掛けた峻を父親が目で抑えた。
―――父親に千景のことを告げた時には 「お前、同棲だなんて無責任な」 と呆れられ、千景が挨拶に来る、と伝えると更に呆れられた。
「お母さんのことを考えたら、黙っておいた方が良かったんじゃないのか」
それは峻自身も考えたことだったが、千景が言い張ったのだ。
「お母さんだって、峻さんが心配するほど悪い人じゃないですよ。」
ひとり暮らしをしてたはずの息子がいつの間にか同棲してた、とか、イメージ良くない……と主張されれば、それもそうだ、とうなずかざるを得なかった。―――
けれど、そんな千景に甘えないようにしなければならない、と峻は思っている。
むしろ注意して、母親から守らなければならないだろう。
前以て説明はしたものの、千景は峻の母親の異常さをよく知らない。
そして、知らない者から見れば、峻の母親は 『普通の範疇』 なのだから。
『普通』 に振る舞いつつ、親しい者をいつの間にか巻き込み、支配する。
それは母親の習慣と言って良かった。
思い通りの言動をしない者が近くにいるのに、耐えられないのだ。
けれど、それが分かるのは、実際に巻き込まれ、支配された者だけだろう。
峻がまず心配したのは、あの事故の被害者が千景の叔父であるのを、母親が利用するのではないか、ということだった。
千景は、今でも、完全に癒えることのない傷を心に抱えている。
過ぎたことであり、囚われずに前に進むしかないのだ、と、ただ信じることでしか、その痛みは乗り越えられない。
けれども、いかに乗り越えようとしても、ともすれば顔を出す罪悪感を、峻の母親が刺激するのは簡単なことだろう。
『もし、私があの日……』 峻を心の檻に閉じ込め続けたあの言葉を、謝罪に織り込んで繰り返すだけでも、千景を支配するにはじゅうぶんであるかもしれない。
しかし、その懸念にはとりあえず、蓋をすることに決まっていた。
千景自身の希望によって。
―――千景は峻に、あっさりと言ったのだ。
「事故のことは、親には黙っておきましょう」
千景の実家に、挨拶に行く直前のことだった。
「……話さなくて、いいの?」
もともとが、あり得ない、としか言い様のない話であるだけに、黙っていてもバレないかもしれないが。
後味が悪くは、ないのだろうか。
「…………」 瞬間、黙り込んだ千景の表情は、固かった。
「親も祖母も、それほど、強くないですから……もし分かったら、きっと、とても苦しむと思います。
そうなると、つらいですから」
隠し事をひとつして、皆が平穏に暮らせるならそちらの方が良い、と千景は言う。
「私は平気ですよ。今回は、峻さんが一緒に嘘をついてくれるから」
それが善いことかと問われれば、違うかもしれないが、人は理想通りにはいかない。
全てを知った上で、それを飲み込み、認められる人間が世の中にどれほどいるだろう?
千景が家族を苦しめたくない、と考える気持ちは、きっと、峻が千景を傷つけたくない、と考えたのとよく似ているのだ。
峻が千景の手を握ってうなずくと、千景はやっと、安心したように笑った。
そして千景の両親への挨拶は、秘密を隠したまま、和やかに終わった。
千景の弟からは早速 「兄さん」 と懐かれ、「気が早い」 と弟を叱りつつも嬉しそうな千景。
気さくに接してくれる千景の母と、緊張と警戒が丸見えだけれど丁寧に受け答えしてくれる千景の父。
傍目には、羨みたくなるような、明るく睦まじい家族であり、千景はその中で役割をしっかりと果たしていた。
誰もが同じ傷を持っているのを知りながら、見ない振りをすることで保ってきた家族。
彼らにいきなり、その傷を開いて見せるのは確かに酷であるように、峻にも思えた。
いつか自然と話せるようになる時を待つのもひとつの方法かもしれない……そう考えつつ、峻は千景の家族と再会の約束をしたのだった。―――
峻と千景は、峻の両親にも千景の叔父の件は隠すことに決めた。
事故で亡くなったのは千景の母方の叔父であり、千景とは姓が違う。
峻の母親がその繋がりに気づくことは、おそらく無いだろう。
けれども、と、峻は千景の住むマンションに向かう電車の中で考える。
(やはり、千景さんを母親と会わせるのは、これきりにしておこう)
峻が今開いているグリム童話集のページは、『いばら姫』 だ。
日本では、ペロー版のタイトル 『眠りの森の美女』 の方が有名だろうか。
―――15歳の誕生日、糸車のつむに刺されて、いばらが覆う城で眠りについた王女が100年後、王子様のキスで目覚める。―――
糸車のつむに男性器、という解釈がつけられがちなことや、ペロー版の王子と結婚した後の義母との対立から、この物語は心理学的には、『思春期』 や 『結婚』 を通しての女性の自立、と解釈するのが通例である。
しかし、峻には、そのような解釈では適用範囲が狭すぎるような気がしていた。
―――『姫』 を素直に、『事件により心に傷を負った者』 とするならば、『100年の眠り』 は、『事件のために心につけられた深い傷による、精神的な活動・成長の停滞』 を暗示している。
そして、100年、という歳月の長さは、心を真に回復させることの難しさを語っている、と考えられる。
また、その間、城を覆い、近寄る者を挟み込んで殺してしまう 『いばら』 の存在も興味深い。
傷つき、心を閉ざして眠る 『姫』 は、助けようと近づく者の存在に気づかず、むしろその者たちを傷つけてしまう……
すなわち、 『いばら』 は 『心に傷を負った者がいかに他者からの救済を受け入れ難いか』 を示しているのではないか。―――
受け入れ難い事実を受け入れる時、人は 『否認 → 怒り → 取引→ 絶望 → 受容』 の五段階を踏む (※) とされている。
否認~絶望のいずれかの段階に留まっている、またはそこを行き来している精神状態はまさに、『いばら姫』 に相応しい。
(母親は、いつになれば眠りから覚めるのか)
峻は、小さくため息をついた。
峻の母親の時間はずっと、事故を起こした時から止まっているように思えて、ならないのだ。
(できれば、千景さんを母親と会わせたくないな)
千景は事情を知った上で、少しでも峻の母親と良い関係を築こうとしてくれている。
それは嬉しいが、彼女らを不用意に近づけることは、やはり得策ではないだろう。
城を覆う 『いばら』 は近寄る者に対して、とても苛烈なのだから。
その痛みは峻自身、何度も味わっていることだった。
車掌のアナウンスが、千景の住む町が近いことを告げ、峻は本を閉じて席を立った。
本文中 『到底受け入れ難いことの受容過程』 は、キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間』(中公文庫)に 「死の受容過程」 として挙げられているものを参考にしています。
御存じの方も多いでしょうが、ざっくり解説しますと。
・否認 → そんなはずない!私が○○だなんて!
・怒り → どうして私だけ! ひどい!
・取引
→ 神頼み、神仏に祈る。あるいは◇◇したら○○ならない、のような科学的根拠のない条件にすがる。
これは対象が 『死 (先にくるもの)』 だからですね。
峻の母親のように 『過去に起こってしまった受け入れ難いこと』 の場合には、 「もう一度やりなおしたい」 「あの事故の前に戻れたら」 のような願いがそれに該当するでしょう。
・絶望 → 何してもダメだ、と思い知らされる状態。
この後に 『受容』 が続くようになっていますが、それは……現実にはどうでしょうね?
『受容』 に踏み切れるか、1から戻って繰り返すか、それとも……。
人がどの道を選ぶかは、千差万別でしょうね。
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