4-7 男流名人戦⑤
特別対局室は時が止まったかのようだった。
目の前にいる彼は、完全に静止していた。瞬きすらせず、視線すら動かさずに盤面の一点を凝視していた。
静止はほんの十秒ほどだった。その時間内で彼はすべての心の整理を済ませたのだ。
ふううっと長い溜息が吐かれ、浜崎さんは再び動き始めた。そして頭を下げ、小さく言った。
「負けました」
「ありがとうございました」
俺も小声で一礼を返した。
男流名人戦の二戦目、浜崎陽吾男流初段戦は俺の勝利に終わった。
浜崎さんの中飛車を俺の居飛車が迎え撃つ――前回のタケル同様、想定通りに進み、想定通りに勝つことができたのだ。
「まいったな。全然チャンスがなかったよ。完敗だ」
見事に剃られたスキンヘッドの頂点をパチンと叩く浜崎さん。対局中も何度か同じ事をしていた。癖なのかもしれない。
「そっちから五筋の歩を突いてきたのは驚いたよ。中央から攻めるの、中飛車のこっちがするならわかるけど」
「えっと……申し訳ないけど、これ定跡なんです」
「そうなんだ。僕は全然勉強不足だったなぁ」
感心しきりの浜崎さん。そのつぶらな瞳には、俺への敬意が感じられた。
男流名人戦、これで浜崎さんは0勝2敗。優勝争いからは脱落した。
なお昨日に藍沢さんとタケルの一戦が行われており、こちらはタケルが勝利した。結果、両者とも1勝1敗となっている。
俺はただひとり2勝0敗。優勝に誰よりも近い位置に立っていた。
「次、最上くんが藍沢さんに勝てば文句なしの優勝だね」
「そうなるように頑張ります」
感想戦を終えたあとは、速やかに永久邸に向かった。
今日は玉輝さんは仕事でいないのだが、香音ちゃんとロクサーヌが朝から研究会をしている。対局が終わったら合流すると約束していたのだ。
和室に入ると、ふたりは満面の笑顔で迎えてくれた。
「銀河さん、またまた勝利おめでとうございます~!」
「うん、ありがとう」
「初代男流名人、もうすぐデスネ!」
「いやいや、確定しているわけじゃないから」
香音ちゃんとロクサーヌは相居飛車の練習将棋をしている。振り飛車も裏芸として覚えてきたところだけど、本腰を入れたいのはやはり居飛車のようだ。
「あたしもロクサーヌさんも、順位戦は昇級戦線に残っていますからね。ここからが気合いの入れどころですよ」
「イエス。年度末はふたり仲良く昇級してお祝いするデス。もちろん予選で勝ち残ってる他の棋戦も、どんどん勝ちマスヨ」
「……いいなあ」
ぽつりと呟いてしまった。香音ちゃんが目をぱちくりとさせる。
「いいなって、何がですか?」
「ふたりは公式戦がいっぱいあって、いいなって」
「玉輝サンも、たまにそれ言うデスヨネ」
「そうそう! タイトルホルダーだとその棋戦は予選を戦うことがなくて、他の棋戦でもシードされてるからって」
「そのケースは特殊すぎるよ」
将棋界の第一人者として、いつも毅然と振る舞っている玉輝さん。
彼女には名人としての仕事がいろいろあって、どれも喜んで取り組んでいる様子だけど……やっぱり実戦を一番やりたいんだろうな。
「しかし本当に、男流名人戦が終わったらどうなるんだろ俺たち」
「でも男流棋士の皆さん、すごい人気じゃないですか。そのうち新しいスポンサーが付いて、新しい男流棋戦がきっとできますって!」
「だといいんだけどね」
やがてふたりは練習将棋を終えて、夕食の時間に。
今日の食事当番はロクサーヌだ。ごはんに味噌汁、肉じゃが、焼き魚、お漬物と、見事な和風料理をテーブルに並べてくれる。
「ロキシー、和食を作れるんだ?」
「ニッポンの料理を覚えるの、将棋と同じくらい頑張りマシタ♪ 数少ないニッポン男児のハートを掴むために、必要だと思ったのデス」
「嬉しいよ。いただきます」
――和やかな時間は、この夕食までだった。
「ンフッ……銀河サンの勝利のご褒美デス。お客サマ、ワタシがたっぷりサービスしちゃいマス♡」
「ああ、頼むよ」
ロクサーヌとふたりきりの入浴。専門の店じゃないと経験できないようなことをたくさんする。
食欲の後は、肉欲を満たす――今やすっかりこれが日常になってしまった。元の世界でただの新人四段だったら、こんなことはまずありえなかっただろう。
プロとしてろくに公式戦を指せない現状は歯がゆく思うけれど、それはそれだ。言わば代償として与えられている幸福と愉悦を、俺は全力で満喫する。
何より彼女たちは、俺を真剣に愛してくれている。ロクサーヌも、香音ちゃんも、そして玉輝さんも、手放すことはとても考えられない……。
「やあ、お楽しみだった?」
お風呂から上がって浴衣に着替えたところで、玉輝さんが帰宅してきた。荷物を下ろしてホッと一息ついている。
「お帰りなさい玉輝さん。今日は何の仕事だったんですか?」
「ビジネス界のとある大物と対談。それも三件も。さすがにくたびれたよ」
「うへえ、あたし絶対そんなのできる気がしません」
「ワタシもデース。たとえ名人になれても、そんなお仕事断りたいデスヨ」
そんな香音ちゃんとロクサーヌの言葉を、玉輝さんは一蹴する。
「余所ではそんなこと絶対に言うんじゃないぞ。私たちがのんびりと将棋を指せるのも、スポンサーあってのことなんだから。今はスポンサーじゃなくても、将来なってくれそうな人たちのことも、同じくらい大事なんだ」
「っていうと、そういう目的もあって対談を受けたんですか」
「ご支援をお願いしたいと、それとなくお伝えしたよ。他の棋士では、こういう仕事は難しいだろうからね。口を開けて待っているだけじゃ、スポンサーは獲得できない。最近そう実感してるよ」
「あう、ごめんなさいお姉様……」
「うむ、わかればよろしい」
やはり名人というタイトルの社会的地位は絶大だ。それを全面的に活用しようという玉輝さんは、とてもカッコいい。
「それより銀河、今日も勝利したね。心配はしてなかったけど」
「ここで研究会をやらせてもらってるおかげです。将棋もそうですけど……体のほうが、すごく充実していて」
すると、玉輝さんの唇が妖しく曲がった。足下の荷物から何かを取り出す。
どうやら小瓶のようだ。五本もある。
「お土産に買ってきたんだ。銀河、ぜひ今すぐ飲んでくれ」
「あはっ、スタミナドリンクだなんて。玉輝お姉様、ヤル気まんまんですね♡」
俺はさっそく小瓶をひとつ取り、中身を全部開けた。
直後、全身の血管が拡張していく。すべての細胞に力が満ちていく感覚。
「Oh、さっきワタシがだいぶ搾っちゃいましたケド、もう回復してマス♡」
「はああっ……前回の初勝利のとき以上に昂ぶってますよ俺」
「望むところだよ。私は今日ずっと座ってしゃべってばかりだったからな。体を動かしたくて仕方ないんだ♡」
座ってばかりの将棋棋士は運動不足になりがちだという。でも俺たちはきっと、そんな心配はないだろう……。




