3-1 A級棋士より強い記録係
デビューしたばかり……公式戦に関して言えばまだ一度も指していない俺たち男流棋士だけど、仕事はたくさんある。
「という感じだけど、いいかしら」
「はい、大丈夫です」
俺は朝早くからスーツを着て将棋公会堂に出勤していた。
将棋の公式戦に必要な人員は、三人。
両対局者、そしてすべての指し手を側で書き留めていく記録係。
本日の俺は、その記録係だ。初回ということで、協会の職員にやり方をレクチャーしてもらっていたのである。
「注目の対局で、ずっとネット中継されてるから。ピシッとした姿勢でお願いね」
「はは、それも大丈夫です」
記録係は元の世界でも、修行の一環としてさんざんやって来た。今さらレクチャーしてもらう必要はなかったのだけど、あちらはそんなこと知る由もないからな。
俺は対局開始の一時間前に特別対局室に入った。両対局者が来る前に準備をしておくのも記録係の仕事だ。
駒を磨き、盤の前の座布団の位置を整え、お茶の用意をして……もちろん肝心の記録係用の机も、準備はばっちり。
そうこうするうちに、今日の主役が登場した。
対局者は双方とも、タイトル戦に挑戦歴もあるベテランだ。俺は率先して挨拶する。
「先生方、今日はよろしくお願いします」
「あら、最上くん? あなたが記録係なの?」
「ネット中継される対局には、男流棋士に積極的に記録係をやってもらうって話よ。こっちも気合い入るわね~」
そう、男流棋士に記録係をさせるのもファンサービスの一環らしいのだ。もちろんここにいる間は外の反応なんてわからないので、俺の仕事にたいした影響はないのだけど。
「A級順位戦の記録係だなんて、光栄です。勉強させていただきます」
将棋界において、もっとも重視されるのが「順位戦」というリーグ戦だ。
その名の通り、棋士の順位を決める戦い。下から順にC2、C1、B2、B1、Aとクラス分けされている。
これから始まるのはA級順位戦。将棋界最高峰の達人たちが集うこのリーグの優勝者が、名人――すなわち玉輝さんへの挑戦権を獲得するのだ。
(玉輝さんは名人だけあって、さすがに強いけど……あの人に挑むべきA級棋士は、どんな感じのレベルかな)
――将棋の公式戦はおおむね午前十時から始まり、順位戦の場合は昼食休憩と夕食休憩が挟まる。
そして深夜まで続くというのが一般的だ。もっと早く終局するケースもなくはないけど、実力伯仲同士の戦いは日をまたぐことも珍しくない。
今日の対局もご多分に漏れなかった。
時刻は現在、午前零時。
公会堂の外には煌々と明るい月が浮かんでいる。ああ、将棋には月が似合うものだ。
「くうっ……」
「ふううっ……」
苦しい顔を隠さない両対局者。勝負はクライマックスを迎えていた。
順位戦は長丁場の戦いだ。持ち時間は六時間もある。
これほど長い持ち時間があっても、たいていの場合は使い切る。対局者どちらも最善の手を目指し、時間ギリギリまで盤面を読み抜こうとするからだ。
そんな極限状態だからこそドラマが生まれるものだが、本局はどうか。
「これで、どうよ……!」
先手が気合いとともに持ち駒を打ち付ける。飛車での強烈な王手。
「むむっ……!」
後手は手にしていた扇子を折れんばかりに握り締めた。
どうやら後手は読み切れていない様子だ。確かに難解な局面だが……?
「10、9、8――」
俺は秒を読んでいく。秒読み――持ち時間を使い切ったあとの、容赦なき魔の時間。
順位戦の場合、一手一分以内に指さなければ負けとなる。
勝負所では、あまりにも短い。ここで間違えて逆転負けを喫した棋士がどれほどいることか。
「ぐぬぬ……!」
後手は焦った手つきで王様を逃がしていく。
「っ――!」
対する先手は、追撃の王手。
すると後手も、また悩み抜いた様子で逃げていく。
やがて、最初の王手から二十手以上が費やされ――
「負けました」
先手が悔しそうにしながら頭を下げた。後手が無事に逃げ切ったのだ。
俺は記録用紙の最後に「迄120手にて後手の勝ち」と記す。午前から始まって深夜までかかったが、一局の手数としては平均的だ。
「お疲れ様でした。最後の局面はまさに詰むや詰まざるやでしたが」
別の女性がやってくる。今回の将棋の記事を担当する記者だ。
「これ、詰みはあった? 確信が持てないまま王手したんだけど」
「あたしも確信が持てないまま逃げてたわよ。ほとんどお祈り状態!」
飛車を打って王手したところから振り返る両対局者。
「んー、詰んでるような気がするんだけど……」
「ちょっとわかんないわぁ。最上くんに聞いてみる?」
「いやいや、わかるわけないでしょ~」
「それもそうねぇ。あ、ごめんね。気にしないでね」
先輩たちのそんなやりとりは、流してしまえば良かったのだろう。
しかし、それはできなかった。
俺だって本当は棋士なんだというプライドが邪魔をしてしまって。
「詰んでましたよ」
俺の言葉に、対局者ふたりはポカーンとしていた。
「ほ、本当に?」
記者が尋ねる。ペンを持つ手に力が入っていた。
「ええと、最初に持ち駒を打つのは飛車じゃなくて、銀です。銀をここに捨てて――」
俺はそこからの符号を静かに読み上げていく。十七手詰めだ。
「うそ……こんなの見えなかった」
「あたしもよ。最上くん、あなたよく見えたわねこんなの……」
真剣勝負ゆえの焦りがある対局者本人と違って、記録係の俺は一歩引いて冷静な目で見られた。
しかしそれを抜きにしても、これくらいなら逃さない。修業時代は五十手超えの詰将棋だって死ぬほど解いてきたんだ。
ふたりは何だか気が抜けたようだった。
「も、もう遅いし、これでお開きにしましょうか」
「そ、そうね。記録係お疲れ様、最上くん」
「はい。ありがとうございました」
対局者ふたりと記者が退室し、俺は後片付けをしながら考える。
経験豊富なA級棋士――さすがに若手の香音ちゃんやロクサーヌよりは強い印象だ。
それでも正直、感銘を受けるほどじゃなかった。
「あれくらいなら、俺にだって――」
そんな想いが募る月夜だった。




