2-5 名人で欲求不満解消
それからも話題は尽きず、飲み放題の時間はあっという間に終わってしまった。
話そうと思えばまだいくらでも話せたのだけど、余裕を持って切り上げようということになった。
俺たちは仲間ではあるけれど――大勝負を間近に控えたライバル同士でもある。馴れ合いもほどほどに、ということで意見は一致したのだ。
「じゃあ、次に会うのは男流名人戦だね」
藍沢さんが言った。その目には闘志の炎が燃えていた。
「最上くん、君は強いと思う。でもだからって、最初から勝負を諦めているわけじゃないよ」
「もちろん僕だって、勝つつもりで君にぶつかっていくからね」
浜崎さんも赤い顔で不敵に笑う。決して酔った勢いで言っているのではなさそうだ。
「対局の日まで、猛勉強しないとな。銀河、初代男流名人はこのおれだぜ」
拳を突き出してくるタケル。俺もグッと拳を重ねた。
「いい勝負をしよう。そして俺たちの手で将棋界を盛り上げてやるんだ」
帰りの電車の中で、俺はグツグツと強烈な欲求に身を焦がしていた。
今すぐに将棋を指したい。脳汁があふれ出るような難解な局面を目の当たりにして、その上で爽快な勝利を挙げたい。
俺はスマホを取り出し、メッセージを打ち込んだ。
宛先は、永久玉輝名人。
【今からお宅に行ってもいいですか?】
返事はすぐに返ってきた。
【もちろんいいよ。鍵は開けておくから】
地元の駅に下りると、自然と早足になった。
すっかり夜の帳も下りている中、永久邸に到着する。例の和室に明かりが付いていた。
言われたとおり勝手に門を通り、玄関のドアを開く。
そのまま和室に移動すると、将棋盤の前で美しい正座をしている玉輝さんがいた。ラフな部屋着だった。
「やあ銀河、こんばんは」
「こんばんは。急にすみません」
「私は今日、協会で仕事だったんだけどさ。みんな話題にしてたよ。男流棋士が揃ってグラビア撮影したんだって?」
「ええ。それでさっきまで四人で懇親会をやってて」
「ふうん。男同士で腹を割って話し合ったわけだ。なんかいいね、そういうのって」
ニコニコしている玉輝さん。機嫌がいいようだ。
「玉輝さんは何の仕事を?」
「免状への署名だよ。私が名人になってからというもの、申請がすごく多くなってるって話でね。今日は百枚くらい書いたかな」
将棋界の第一人者である名人には、普通の棋士にはないいろいろな仕事がある。
そのひとつが、アマチュア向けの免状への署名だ。署名は毛筆でやらねばならず、必然的に書道の腕前も必要となる。協会には書道部があり、玉輝さんもそこでプロの書道家の指導を受けているはずだ。
「それほど多くの人が、私の名前が入っている免状を欲しがってくれている。……名人の座をそう簡単には明け渡せないなって、気が引き締まったよ」
「それでたったひとり研究していたんですか」
「うん。……ここだけの話にしてほしいんだけど、香音もロキシーも、まともにやったら私の相手にはならないんだ。ただ強くなりたいだけなら、ひとりだけでやっているほうがいい」
確かに本人には聞かせられないことだった。墓場まで持っていこう。
「それでも、研究会の場を用意してあげてるんですね」
「彼女たちにもレベルアップしてほしいからね。それが棋界の発展に繋がるから」
立派な人だ。率直にそう思った。
将棋は決して、ひとりでは指せない。相手がいるからこそ可能な競技。
玉輝さんは決して、自分のことだけを考えてはいない。名人にふさわしい器量の持ち主だ。
と、彼女が絡みつくような目線を俺に向けてくる。
「だけど銀河――君には遠慮しなくていいみたいだ。本気でぶつかることができる。それがすごく嬉しい」
「俺もですよ玉輝さん。一局指しましょう」
いかにも昂ぶっている様子の名人の前に座る。そして俺も、同じくらいに興奮していた。
「っ――すごいな! 棒銀にはこんな手があったのか」
「あるんですよ。実際成立しているのか、微妙なんですけど」
「いや、これは初めて見たら応手を間違えるよ。ふふ、これはたぶん他の誰も知らないぞ。実戦で試してみよう」
「このまえデータベースで見ましたけど、玉輝さんって何でも指すんですね? 居飛車も振り飛車も」
「オールラウンダー……と自分で言うのはアレだけどね。何でも指せたほうが面白いだろう?」
やがて、勝敗は決した。
「うん、負けました。やっぱり強いな銀河は」
「いやいや、所詮は練習将棋ですから」
「……そう考えると、本当の真剣勝負をする機会がないんだな。君と私は」
玉輝さんは正規の棋士。しかも棋界最高峰の名人だ。
俺はそれとは違う、棋士とは似て非なる男流棋士。
練習だったら、こうしていくらでもぶつかれる。
でも、公式戦で対局する機会はない。
俺の実力なら、大抵の棋士を凌駕できるはずなのに。目の前の名人にだって、互角以上に渡り合えるはずなのに。
そんな欲求不満を、彼女は的確に感じ取っているようだった。
「なあ、銀河……君がいま抱えている鬱憤、晴らしたくはない?」
「どういう意味ですか?」
「いちいち言わさないでくれ……君だって最初から、そのつもりだったんじゃないのか?」
盤から離れる玉輝さん。
その頬はうっとりと染まり、受け身の姿勢になっていた。
「じゃあ、遠慮なく。今夜は昂ぶって仕方ないんです」
「ああ、またその棒銀を味わわせてくれ♡」
極上のせめぎ合いは、深夜になるまで続いた。
ラブコメも将棋もどちらも力を入れていきます。
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