すべてはこれから 2
「じゃあ……、おやすみなさい。シオン」
「あぁ、おやすみ。アグリア」
挨拶を口にして、部屋の前で向かい合う。
相変わらず、シオンの部屋はアグリアの自室の並びの部屋である。いくらシオンが領地でこのまま暮らすことになったとはいえ、いきなり同じ部屋で寝起きするのはあまりにも急過ぎる。今はこの距離感がちょうどいい。
「……」
黙り込んだシオンの手が、つとこちらに伸びる。
少し遠慮がちな、けれど真っすぐに伸ばされた指先がそっと頬に触れた。触れるか触れないかのやわらかなタッチに、アグリアの目が反射的に閉じる。
そっとかかる吐息に胸が大きく音を立て、アグリアは思わずもう片方のシオンの腕にしがみつくようにきゅっと握りしめた。
唇に重なる、やわらかな感触と熱。頬に添えられた手にわずかに力がこもり、もう一度熱いものが唇に重ねられた。
「……っ」
ゆっくりと離れていく熱に、止めていた息をそっと吐き出した。
「……おやすみ」
そう言うとシオンはふわりと微笑み、自室へと引き上げていった。その背中を見送ったあと、部屋の中で熱く火照った顔を覆い悶絶するのがお決まりになっていた。
どうしてこんな日課ができたのか、今となってはよくわからない。弾み、とでも言えばいいのか。なんとなく毎晩眠る前に口づけを交わすようになっていた。
何度交わしても、慣れない。胸の鼓動が今にも壊れそうにバクバクするし、顔に熱がこもってどうしていいのかわからなくなるし。足だって力が抜けたようになって、へたり込んでしまう。
自室の扉に寄りかかり、ずるずると床にへたり込んだ。足に力が入らない。それでもどうにか生まれたての子牛のような足取りで立ち上がると、ベッドへとぽすんと倒れ込んだ。
(世の夫婦って、すごいのね……。これが日常になるんだもの。毎日こんなふうなんて、とても考えられない。でも……)
ひとり部屋の中でシオンの熱を思い出し、顔を両手で覆う。
焦らずゆっくりと関係を重ねていこう、とランソルの墓前でシオンと約束した。けれどなぜだろうか。唇を重ねれば重ねるほど、不思議と日に日に離れがたくなる。じれったいような何かに強く駆り立てられるような気持ちが強くなっていく。
(もしかして私……物足りなくなってるのかしら。もっとシオンに触れたいって……。もっともっとって)
自分の中に芽生えはじめた欲に、アグリアはうめき声を上げ枕にぽすんと顔を押しつけた。
そのうち同じ部屋で寝起きする日がくるのかもしれない。そして、メリダがくれたあの小瓶が登場する日だって――。
「うわっ……! 私ったらなんてことを考えてるのよっ。もう!」
未知の激情を持て余し、アグリアは今日も悶々とベッドの上を転がった。
(でも……変わっていくのは、悪いことじゃないわよね。シオンも私も、ようやく前に進めたんだもの)
シオンとはじめて対面した時のことを、思い出した。
『はじめまして、旦那様。それで……離縁はいつになさいます?』
今思うと、あんまりな挨拶を口にしたものだと思う。我ながら恥ずかしい。けれどあの時は初対面の緊張と困惑とで、頭がいっぱいいっぱいだったのだ。
そんなシオンとの暮らしは、はじめての連続だった。
でもシオンとの契約結婚を機に、人生が動きはじめたのだ。はじめはゆっくりと静かに、次第に大きくちょっぴり刺激的な形で。
このまま領地で淡々とひとりで生きていくんだろうと思っていた。誰かと形ばかりの結婚をすることはあっても、本当の心のつながりなんてないままだと思っていた。でも気がついたら、シオンを中心にたくさんの人と出会い人生が大きく回りはじめたのだ。まったく予期しない方向に。
(人生ってわからないものね。シオンも私もあんなに後ろ向きだったのに、今ではもうこんなに前を向いてる。色んなことがあって、ようやく前を向けたんだわ)
いつしか胸の奥に芽生えた愛が、自分を大きく突き動かしていた。シオンを死なせたくない。ずっと一緒にいたい。そんな思いが幸せになることに臆病になっていた自分の背中を押してくれた。
天井を見上げ、ふわりと微笑んだ。
生きている限り、必ず大切なものとの別れはくる。それがものでも、人でも場所でも。それが怖くてずっと現実から、幸せになることから目を背けていた。
それでもシオンを愛することができて、本当に幸せだ。いつか胸が張り裂けそうなくらいの悲しい別れが訪れるとしても。
「お母様……」
母の面差しを思い浮かべ、胸に走る寂しさに胸がきゅっとなる。
きっと寂しさは永遠に消えることはないだろう。何度だって会いたいと思うし、抱きしめてもらいたいと願う。当然だ。それだけ深い愛情で結ばれていたんだし。それでいいのだ。
大切なのは、今を生きること。寂しさや後悔に囚われて目の前のことから目を背けるんじゃなく、不安や恐れから未来から逃げるんじゃなくて、ゆっくりとでも一歩一歩今を歩いていけばいい。
きっと隣にはシオンがいてくれる。何も怖いことなんてない。心の内に確かに芽生えたこの思いが、きっと自分たちの未来を支えてくれる。そのうちきっと悲しい別れはくるけれど、それでもそんな愛と出会えたことは幸せに違いない。
「それでいいのよね……。お母様」
そっと面影に語りかける。
未来はこれから。何もかもこれからなのだ。シオンとの人生はまだはじまったばかり。何が起きるかもどんな問題が待ち受けているのかもわからないけれど、そのひとつひとつがかけがえのないものになるはず。
「私、とっても幸せよ。お母様。きっと頑張るから、空で見ていてね」
目を閉じ、お日様の匂いのする毛布にくるまった。
ふわりと穏やかな眠気が訪れるのを感じながら、瞼の裏で母がにっこりと微笑んだ気がした。
これにて完結です。
公募に間に合わせるため、駆け足での投稿となり申し訳ありません……。
ここまでお付き合いいただいた読者の皆様、本当にありがとうございました!
ご意見ご感想などございましたら、お気軽にお寄せいただければ歓喜で踊りまくります。
また別のお話でもお会いできますように。




