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透明人間  作者: 岡倉桜紅
7/22

7 面談その3

 夜野は一日中、少年に対してどのように謝罪をすればよいかを考え続けていた。まだルーティーンにまでなりきらない事務の仕事において、集中力を欠いた精神状態はミスを誘発し、新たな上司からたびたび注意をもらった。

 もう少し、発言をする前にその後のことや他人の心について考えられなかったのか。自分の発言に責任を持つ意識が足りなかったのではないか。いや、それができないから透明になったんだろう、と夜野は思い出す。そもそもそれが出来ていたら、あの日、透明に逃げようとしなかっただろうし、今も必死になって仮面を求めてはいない。夜野はため息をついた。職場では夜野以外は皆仮面をつけているので、業務に不要な吐息は誰の視覚情報にも入らなかった。

 結局、何も思いつくことのできないまま店の前まで来てしまった。ドアの前で躊躇っていると、ぽつり、と頭の上に水滴が落ちてきた。雨が降り始める。どうしようもなくなって、夜野は店のドアを開けた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。雨には降られませんでしたか?」

 少年の声がした。どこかほっとしたような声色だった。

「あの、昨日はすみませんでした。私の配慮に欠けた発言であなたを傷つけたと思います」

 夜野は少しマスクをずらし、カウンター越しに少年と向き合って言った。これが素顔のまま生きている少年への出来る限りの誠意だった。

「大丈夫です。僕ももっと練習します」

 少年は優しい声で言って、椅子に座るよう勧めた。少年は今日はティーセットではなく、ガラスのトールグラスを二つ出してきて、そこに氷を入れ、紙パックの紅茶を注いだ。パックの表面にはどこか外国のメーカーの名前が印字されていて、近場のスーパーなどで仕入れたものではなく、それなりの流通路で仕入れたであろうこだわりの品であることがうかがえた。

「あなたの入れる紅茶でいいのに」

「アイスなのをお許しください」という言葉とともに目の前にグラスが置かれる。

「夜野さんは優しい人ですね」

 少年が言った。

「私は別に優しい人間じゃありません。他人にも自分にも興味の薄い、冷たい人間です。よく恥ずかしい真似もします。ただ、何かを練習中の時は、何度も失敗しながら学んでいくものです。一度の失敗で挑戦を辞めないで欲しかっただけです」

 自分の不注意な発言のせいで少年の成長の機会を奪ってしまったことが悔しかった。

「いいえ、そうおっしゃってくれるのはうれしいですが、一度の失敗で確実に学ぶべきなんです。同じ間違いを繰り返すようでは駄目なんです。いつか、取り返しがつかないことになります」

「そうですかね」

「はい、そうです」

 店内は少し沈黙に包まれる。店内からは雨音も聞こえなかったし、霞ガラスのせいで雨の様子はあまり見えなかった。今日は昨日とほとんど同じ時間に来たが、カウンターの上にはまだ何の物も置かれていないことに夜野は気が付いた。ここにずっといる分には雨の様子を知ることはない。入店時に少年が雨について口にしたことから、少年はついさっきまで外出していて、夜野が来る直前にここに帰って来たばかりなのだろうか。

 少し、眼鏡をずらす。遮断されていた情報が目に入ってくる。俯いた少年は今日はエプロンをしていなかった。カウンターの中の様子を伺うと、壁際にランドセルが開けた状態で落ちていた。ひしゃげた花束が入っている。

「お見舞い、ですか」

 突然の予約取り消し。幼い少年が一人で店主をする店。情報から察するに、少年の母親は急の病か何かで入院生活をしているのだろう。

「あ、……そうです。今日、おかあさんのお見舞いで」

「……」

 なんと声をかけたらいいか夜野は考え込んでしまった。最低一か月は病院にいなければならないほどの病気なのだから、並大抵の病気ではないだろう。今時、片親の家庭は多い。まともに学校は行けているようだが、その年齢で一人暮らしを強いられるのは大変だろうと夜野は想像した。

 その顔を見て、少年は心配させてしまったと感じたのか、わざと明るい声を出した。

「でも、そんなに大した病気じゃないんです。じきに戻ってくるから、それまでほんの一時的に僕がこの店を守っているだけです。僕、早くおかあさんみたいな、いや、おかあさんよりももっともっとすごい一流の仮面職人になりたいんです。僕のおかあさんはすごいんですよ。紅茶を入れるのも上手いし、色を見るのだって上手い。そして、すごくすごく優しいんだ。おかあさんの仕事は、お客様に魔法をかけるみたいなんだ……」

 最後は独り言みたいに言った。少年の目元を見ないように、夜野は眼鏡をかけなおした。

「尊敬できる、素敵な職人なのですね」

「はい」

 少し鼻をすするような音がして、また店は沈黙に包まれる。

 自分の言葉でまた他人を傷つけてしまう恐怖はあったが、どうしても聞きたくて夜野は口を開いた。

「余計な言葉かもしれませんが、今日はその花束を渡すつもりだったんじゃないですか?渡さなかったのですか?」

 少年はまた鼻をすすった。

「渡すつもりでした。でも、渡せなかったんです」

 泣かせてしまったのだろうか。聞くべきではないことに踏み入ってしまったのだろうか。夜野の胸に後悔がじわじわと広がり始めた。仮面が壊れてしまってから、自分の内面の何かのバランスが崩れかけているような気がしていた。透明でいたはずの心が、むき出しになってしまっているような。

 少年は言葉を続けた。

「僕、病室の前まで行きました。陰から覗いたら、おかあさんの腕、すごく細くなってて。僕、どうしたらいいかわからなくなって走って帰ってきました。おかあさんがそこにいるのは僕のせいなのに。早く気付いて医者を呼んであげられなかった僕のせいなんです。それで逃げるなんてこと、おかあさんにも失礼だってわかってます。でも会う勇気が出なくて」

 夜野は思わず、カウンター上に手を伸ばして、少年の手に自分の手を重ねた。接触恐怖症のせいで全身に鳥肌が立ち、嫌な汗が背中から噴き出したが、夜野は我慢した。

「過去の間違いをずっと気に病んでしまうことは誰にでもあります。病室の前まで行って、それでも会えなくて逃げてしまうことは誰にでもあります。あなたが特別失礼な人間なわけじゃなくて、誰でもそうなります。気持ちが落ち着いたらまた花を買って、それからまた挑戦すればいいんです」

 少年の手は震えていたが、やがて夜野の手を握った。人の手が温かいことに夜野は新鮮な驚きを感じた。それは長い間忘れていたことだった。

「やっぱり、夜野さんは優しい人ですね」

 少年はゆっくり夜野の手をどけると、涙を拭った。そして、さっきまでのことは何もなかったかのように明るく言った。

「さて、取り乱してしまってすみませんでした。今日は仮面の型を取りたいと思います」

 少年は夜野をカウンターの中に招き入れ、カウンターの奥の隅に置かれた巨大な機械の前に座らせる。眼科で視力検査をするときに覗き込むような機械に顔を固定し、顔の形をスキャンする。ここで計測した結果をもとに特殊な素材で仮面を創っていくことになる。スキャンの間、顔を動かすことはできないので、自然と無言になる。人間が二人、素顔を晒しながら近くに座っている。いつもは透明で埋めてしまいたいと思うような沈黙が、なぜか消してしまいたいと思うほどではなくなっていることに夜野は気付いた。

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