19 花束
「待ってください」
これでもうこの店に来ることもないだろう。一抹の寂しさを自覚しながらも夜野が店を出ようとドアに手をかけた時、少年の声が追いかけてきた。振り返る。自分が振り返った時に、気配や空気の揺らぎすらなくなっているような感覚を夜野は味わった。今は仮面越しに少年を見ているので、透明化デバイスを何も身に着けていない少年の存在は、夜野の視界の中でデフォルトのアイコンとして表示された。少年はカウンターの中から出てきた。後ろ手に何か持っている。
「誕生日、おめでとうございます」
少年は夜野に花束を差し出した。運動会の日、植え込みで嗅いだのと同じ香りがした。夜野は今日、店内に入った時に紅茶の香りだと思っていた匂いの正体にを知った。
「私の誕生日、知ってたんですか」
「はい。最初に書いていただいた資料で存じていました」
「ただのひとりの客に過ぎない私に、わざわざ花を……?」
少年はくすりと笑った。
「ただの、なんて。夜野さんは僕の大切なお客様です。この花が似合うんじゃないかなって思ってたんです。ずっと、あなたのことを見ていました」
ふと少年の顔が見たい、と思った。
「だってあなたには、素敵な色がついてる」
夜野は仮面を外した。少年と自分の目を遮るものが煩わしかった。少年は目じりを細めて微笑んでいた。その血色の良い頬は桃色に持ち上がり、えくぼが出来ている。差し出す花束は優しい橙色をしていて、細かな花の光に当たっている部分は鮮やかに、花弁どうしが重なる影は涼やかなオレンジをしている。
夜野は店を見渡した。天井からぶら下がるドライフラワーは生気を失ってやや彩度を落としてなお、それぞれの咲き誇っていた時の色の名残を残していた。薄い緑色の窓ガラスからは夕暮れの西日が入り込み、カウンターと棚に光の筋を描いている。よく磨かれたカウンターの上ではティーカップが影を伸ばす。棚の仮面は色とりどりに輝いていた。
夜野は自分の手に目を落とす。白く、あまり日焼けしていないが、ピンク色に血の通った手。気づかないうちにペンだこが消え、ささくれが増え、少し骨が目立つようになった手。細く、紫と緑の血管が見える。
「色がついてる……」
店も、少年も、花も、私も、色がついている。
当たり前のことだ。でも、ずっと昔に忘れていた。最初から私には色がついていた。自分でも気づいていなかっただけで。自分で忘れようとしただけで。
世界にも色がついていた。まぶしいとずっと目をふさいでいた。その色は、ただ綺麗だった。
「夜野さん?」
少年が少し心配そうに声をかけてくる。温かいものが頬を伝っていた。これには色がついてないんだ、と夜野は拭った指先を見て少し笑った。
「私の色で、いいのでしょうか。失敗だらけで優しくない私で」
私の色は他人を傷つけた。自己中で独りよがりな私の色。
「練習中の時は、何度も失敗しながら学んでいくものだと教えてくれたのは夜野さんですよ」
今からでもできるだろうか。どうしようもなく自分から離れないこの色を受け入れ、他人の色をちゃんと見ようとすることが。
少年は夜野の空いた手に花束を握らせて、一言聞いた。
「それで、仮面はいりますか」
夜野は少年に仮面を渡した。
「預かっていてもらえませんか。私のお守りとして」
少年は微笑んだ。
「かしこまりました。あの棚に大切に飾っておきます」
夜野は店を出た。秋の夕暮れの空は淡いオレンジ色に澄み渡り、どこまでも高かった。