10 カフェ
(久しぶり)
見覚えのあるアイコンが近づいてきた。会うことは少なくなっても、メールのやりとりをしていたためすぐわかった。
(久しぶりだね、津野)
夜野は眼鏡の機能でメッセージを送り返す。津野は夜野の正面に腰かけると、テーブルに備え付けてあるQRコードから夜野が飲んでいる紅茶と同じものを注文した。しばらく会っていない上にお互い透明と半透明なので、再会までの間に表面的な特徴がどう変わったのかはわからなかった。ただ一つ確実に変わったと言えるのは、津野が仮面を着けていることだった。
(仮面、着けるようになったんだ)
(ああ。人生のステージとか周りの環境が変わると、いろいろなことが変わるから)
あっさりと津野は言った。なんとなくのイメージで、津野はどれほど歳を重ねても、素顔を堂々と見せたまま生きていくような気がしていたので、仮面を着けていることに残念さのようなものを感じた。そして、そんなぼんやりした期待じみた感情を津野に対して持っていた自分自身に気付いて、夜野は驚いた。
(会社とか、仮面必須のシーンが多いもんね)
(まあ、そんなところ)
二人は同時に紅茶に口をつけた。少し果物のようなすっぱさが口に広がった。店内は微かな柑橘の匂いと穏やかな空気が流れ、薄っすらとクラシックで彩られた静けさの中に時折カップとスプーンの立てる音がするばかりだった。仮面を着ける人が多くなった世の中で、飲食店は視覚情報に頼らない店の雰囲気づくりに力を入れ始めた。今もし眼鏡をずらして肉眼で店を見渡してみれば、無骨なまでにシンプルな壁とシンプルなテーブルが見えることだろう。誰の目にも留まらないので、凝るだけ無駄なのだ。仮面を着けるか着けないかは個人の自由に委ねると言いつつ、世間には仮面を着けた人前提のサービスが増えていく。いつまでも素顔では生きづらいのは当然かもしれない。
(夜野は仮面、どうかしたの?メンテナンス中?)
夜野が仮面ではなくマスクを着けていることについて津野は聞いた。
(最近壊れちゃって。今新しいものを創ってもらっているんだ)
(そうなんだ。半透明は辛くない?大丈夫?)
(最初は嫌だったけど、意外と一週間もこうしてると慣れるよ。久しぶりに仮面なしで外を歩くと、思ったより目がちかちかしてびっくりしちゃったけど)
津野は次の言葉を少しためらいがちに言った。
(それ、いっしょに買ってくれる人とかいないの?あの、つまり、そういう関係の人)
恋人の有無について聞いているのだろうか。
(いないよ。昔と同じ。津野もわかってるでしょ、私の性格)
根本的に、恋人という関係を他人と構築することに向いていない。津野は透明越しでもわかるほど安堵の様子を見せた。
(それで、何で急に会おうなんて誘ってきたの?しかも二人で。私たちってそんなに……)
仲良かったっけ、と続けそうになったが、眼鏡がそれを思い留まらせてくれた。別に言う必要のない余計な言葉だ。高校時代はそれなりに言葉を交わす機会はあったが、大人になっても個人的交友を続けていけるほどの絆はないと思っていた。
(俺、今年から仕事で東京に住むようになってさ。それでたまたま夜野の住んでるあたりが近いから思い出したんだ)
二人の関係の面からの説明にはなっていなかったが、おそらく引っ越したばかりで不安であることや、環境ががらりと変わったことによる気持ちの上下で、普段とは異なる行動を取ってしまうのだろうと夜野は解釈した。
(俺のことを忘れてるんじゃないかと少し不安だったけど、こうして話せて良かった)
夜野は曖昧に頷いた。
(ところで、来週末誕生日だったよね。ささやかだけど俺に祝わせてくれないかな。レストランを予約した)
(それって……デートに誘ってるってことで合ってる?)
(そうだよ。駄目かな)
ストレートな誘いに夜野はたじろいだ。津野は自分に気があるということなのだろうか。高校卒業から今までほとんど会うこともなく、それらしい素振りを見たこともなかった。もしかしたらサインはずっと出ていたのかもしれないが、夜野は理解していなかった。だって、七年も前なのだ。
(宗教とか、ネズミ講じゃないよね。壺とか)
(違うよ。ちょっと傷ついたな。ねえ、来てくれるよね)
レストランの場所と時間を告げ、何も言うことのできない夜野を置いて、会計を済ますと逃げるように津野は店を出ていった。
この人がなぜ自分などに興味を持つのか理解に苦しむ。透明に徹してきた自分のいったいどこに魅力的な点があるというのか。他人の気持ちから距離を置こうと遠ざけてきた夜野は、ひどく混乱していた。無意識に鞄の底に手を入れていた。どこへ行くときも持ち歩いている、古い手紙が指先に触れる。
私はつまらない人間だと主張しているのに、どうしてこうも伝わらないのか。