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透明人間  作者: 岡倉桜紅
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9/22

9 運動会

 その運動会はかなり静かだった。スピーカーからの音楽と子供の声はするが、見に来た家族の応援の声はひとつもせず、またその姿も見えなかった。誰も見えないが、トラックを囲むようにたくさんのテントが少しずつ距離を置いたところに広げられ、その下に薄ぼんやりとした気配がいくつもあった。誰の目にも映らないので、万国旗などというものはとっくの昔に過去の遺物となり、シンプルな校庭を子供たちが走っていた。カメラや写真などという文化も数年前から急激に廃れた。いつかは皆、透明になるからだ。夜野は関係者ではないので校庭に入ることはできず、フェンスに寄りかかってぼんやりと子供たちを見ていた。

 昼休みを告げるアナウンスが入り、子供たちは透明な親たちに連れられてそれぞれの家族のテントへと入っていった。義務教育中の小学生と中学生は、教育上の観点から、学校にいる間は透明になるデバイスを着けることは禁じられていたため、誰も見えないテントの中で、運動会の主役だけが色を保っていた。

 こんな透明な世界で、どうやって人はお互いに興味を持ち、関係を築き、家庭を持つに至るのか、夜野には全く想像できなかった。大多数の人にとっては、仮面があろうがなかろうが、それは些細な顔面の違いに過ぎなくて、仮面が無かった時代と何も変わらない態度で人と愛し合えるのかもしれない。仮面のもたらす透明に毛布のように包まって、人に興味を持たずにいることの免罪符のようにしている自分には、到底理解することはできないのだろうと夜野は思った。

「夜野さん、どうしてここに?」

 向こうから少年が走ってきた。店で見慣れたエプロン姿ではなく、小学校指定のジャージを着ていた。夜野は巾着袋を差し出した。

「お弁当を忘れていました」

「えっ、ありがとうございます。今から家まで走って取りに行こうと思っていたので」

 学校行事中に勝手に学校を飛び出して家に戻るなど、防犯的に褒められた行為ではない。

「それではこれで」

 少年の手に巾着袋を渡すと、夜野は踵を返したが、数歩歩いても少年がそこに立ったまま動かないのを横目で見て、少年の方に引き返した。

 二人は校舎をぐるりと取り囲むように設置された植え込みのレンガに並んで腰かけた。校舎に遮られて、スピーカーのBGMは遠かった。少年が巾着袋を開け、プラスチックの弁当箱を開けると、そこにはスーパーで買ったままの総菜と菓子パンが詰められていた。

「いただきます」

 少年は手を合わせてから食べ始めた。

「夜野さん、マスクをしていてもいいんですよ?」

 顎の下までマスクをずり下げ、半透明の状態の夜野を見て少年が心配そうに言った。

「あなたが今、他の生徒たちと同様、透明になれないからいいんです。もし私がマスクを着ければ、あなたは校舎裏で一人で弁当を食べてる寂しい子供になりますよ」

 夜野が半透明だろうと純透明だろうと、家族が見に来てくれない少年が、校舎裏という寂しい場所で昼食を食べているという構図にあまり変化はなかったが、少年は少し頬を持ち上げて微笑むと、夜野の方に少しだけ腰の位置をずらして近づいた。

「私があなたのお母様でなくて申し訳ないですが」

「いいえ、十分うれしいです。優しくしてくださってありがとうございます」

 優しい、という言葉はささくれのように夜野の心に引っかかった。

「前も言ったような気がしますが、私は別に優しくありません。ただ透明でありたいだけです。どう行動したら目立たないのか、何が一番自然で普通か、そればかり考えて生きているので、結局、すべて自分のことしか考えていません」

 少年は口の中のパンを飲み込む。

「僕は仮面職人だから夜野さんの色が見えます。僕は、人の色を見るのが好きなんです。人は花と同じように、一人一人美しい色を持ってる。普段は透明で隠しているけれど、お店では少し見せてくれる。だから、ちゃんとわかってますよ」

 やけに自信たっぷりに言った。

「後悔を引きずって生きているだけです。決して美しいものではないですよ」

「僕は綺麗だと思います。まるでキンモクセイみたいな」

 少年は背後の植え込みの木を指さす。夜野は植物の名前はほとんど分からなかったので、その少し香りのある花がキンモクセイということを初めて知った。いったいどういう意味で少年がこの花に例えたのかよくわからず、夜野は黙った。

 少年は弁当を食べ終え、丁寧にゴミを箱の中に収め、弁当箱をもとの巾着袋にしまった。

「夜野さんはこの後の競技、見ていきますか?」

「いや、関係者じゃないので帰りますよ」

 組んでいた足を解いて夜野は立ち上がる。そもそも、部外者が校内の敷地に侵入していることもよくないだろう。他の人に見つかる前に立ち去るのが良いと思われた。マスクを着けなおす。

「そっか、見てほしかったのにな」

「見てほしい?」

 この時代に自分の姿を進んでさらけ出そうと思うのは珍しく、また、そう思う感情を持つこと自体憚られるような風潮だ。風が吹いて二人の間に細かい花弁が舞い散る。

「この世界において、強すぎる自己表現欲や承認欲はいつかあなたを苦しめます。どれほどあなたが色を愛していても、そういう気持ちは胸中にしまっておいた方がいいですよ」

 差し出がましいとわかっていながら、言わずにはいられなかった。少年は俯いた。夜野は踵を返した。

「目を背けないで欲しいんです。見えないだけで、色がついてるんです」

 訴えるような少年の声が追いかけてきたが、夜野は振り返らなかった。

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