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第104話 「頭取、三十分を超えています――水城絢乃の容赦ない業務終了宣告と、夜のカレーと花札」


第104話です。


今回は、仕事を延長しようとする璟瑶と、それを容赦なく止める水城たちのお話。


一方、夜は創特製のバターチキンカレーと、夫婦で楽しむ花札「こいこい」。


仕事・育児の合間に生まれた、二人だけの楽しい時間を描きます。



 月曜日、午前八時二十八分。


 青嶺中央銀行本店十八階、法人営業第一部。


 宮嶋創、二十一歳は、いつもと変わらない月曜日の朝を迎えていた。


 左手の薬指にあるはずの結婚指輪は、今日も成城の新居に置いてある。


 銀行にいる間、欧陽璟瑶は頭取。


 自分は法人営業第一部の若手行員。


 結婚しても、双子が生まれても、その線引きは変わらない。


「宮嶋」


『はい』


 直属上司の桐生雅人が、東央精密製作所の資料を机へ置いた。


「金曜日に整理したところから続けるぞ。設備代の支払条件は?」


『契約時二十パーセント、納入時六十パーセント、検収後二十パーセントです』


「設備導入が三か月遅れた場合は?」


『支払時期だけでなく、売上の立ち上がりと既存借入の返済を合わせて確認します』


「そうだ。数字を合わせるだけじゃない。金がいつ出て、いつ入るのかを見る」


『はい』


「それから、まだ正式審査中だ。承認されたつもりで資料を作るな」


『分かっています』


「承認を取りにいくんじゃない。最後まで返済可能性を見るんだ」


『はい。最後まで確認します』


「それでいい」


 桐生は、それ以上何も言わなかった。


 創も仕事へ戻る。


 結婚式のことも、妻のことも、悠真と美玲のことも、十八階では一切口にしない。


 ここにいるのは、頭取の夫ではない。


 東央精密の一億円の融資案件に向き合う、若手銀行員の宮嶋創だった。


 ◇◇◇


 午前十時十四分。


 成城の新居。


 欧陽璟瑶、四十五歳は、一階のLDKで悠真と美玲を見守っていた。


「悠真、眠い?」


 ベビーベッドの中で、悠真が小さな手を動かす。


 隣では美玲が静かに眠っていた。


「美玲は、よく寝てるね」


 璟瑶はソファへ戻った。


 テーブルにはノートパソコンが置かれているが、まだ開かない。


 朝、水城絢乃から届いたメッセージには、こう書かれていた。


《本日の頭取業務は十四時から十四時三十分までです》


《確認事項は三件に絞っています》


《三十分で終了します》


「三十分……短い」


 璟瑶が呟いた直後、もう一通届く。


《延長はありません》


「……聞こえてる?」


 もちろん、今の独り言が水城に聞こえたはずはない。


 それでも、考えていることを完全に先回りされていた。


 璟瑶は苦笑し、スマートフォンを伏せた。


 ◇◇◇


 午後二時。


 ノートパソコンを開き、第一秘書の劉川景仁、第二秘書の水城絢乃と接続する。


「お疲れさま」


「お疲れさまです、頭取」


「よろしくお願いいたします」


 挨拶を終えると、水城はすぐに告げた。


「最初に確認します。本日は十四時三十分で終了です」


「分かってる」


「一分でも延長は?」


「……三十分でお願いします」


「はい。では、一件目です」


 一件目は国内の重要案件。


 二件目は海外拠点から上がった判断事項。


 三件目は、翌週以降の経営会議に関する確認だった。


 頭取本人が判断する必要のない案件は、劉川と水城があらかじめ除いている。


 午後二時十六分には、副頭取の久世宗一郎も接続した。


「頭取。こちらで処理できる案件は、私と御子柴専務、黒崎常務、早乙女常務をはじめ、各担当役員で分担しています」


「ありがとう。でも――」


「でも、ではありません」


 普段より強い口調で、久世が遮った。


「頭取が一日休んだだけで青嶺中央銀行が止まるなら、それは組織として問題です」


「……うん」


「頭取が休んでも、銀行は動きます。今はそれを確認する時期でもあります」


「そうね」


 青嶺中央銀行は、頭取一人で動く組織ではない。


 副頭取、専務、常務、取締役、執行役員。


 その下には、各部門を支える多くの行員がいる。


 自分が休んでも銀行は動く、それは寂しいことではない。


 組織が健全に機能している証拠だった。


 ◇◇◇


 午後二時二十九分。


「以上です」


 水城の言葉と同時に、三件目の確認が終わった。


 璟瑶は時計を見る。


「じゃあ、あと一件だけ」


「ありません」


「メールに来てるでしょう?」


「あります。ですが、明日です」


「五分で終わる」


「明日です」


「三分」


「明日です」


「一分だけ」


「駄目です」


 時計が午後二時三十分を示す。


 水城は間髪を容れず宣告した。


「頭取、三十分を超えています。本日の業務は終了です」


「まだ数秒でしょう?」


「終了です」


「絢乃」


「終了です」


 璟瑶は劉川へ助けを求める。


「劉川さん」


「水城さんに同意します。本日はここまでです」


 久世も頷いた。


「続きは我々が進めます。頭取は休んでください」


「……分かりました」


「では、パソコンを閉じてください」


「また?」


「はい」


「信用されてないの?」


「業務を続けないことは信用しています。ですが、念のため閉じてください」


「……言い方が上手くなった」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


 それでも璟瑶は、三人に見えるようにパソコンを閉じた。


「これでいい?」


「はい。お疲れさまでした」


 午後二時三十二分。


 頭取業務は、第二秘書によって容赦なく終了させられた。


 ◇◇◇


 午後四時五十分。


 本店十八階では、創と相沢拓也が東央精密の資料を確認していた。


「宮嶋。設備導入三か月遅延、売上立ち上がり四か月遅延、安定稼働まで一か月。この三つを単純に足すなよ」


『分かっています。実際の時間軸に置いて確認します』


「そうだ」


 創は月ごとの資金繰り表へ、既存借入の返済、設備代金、運転資金、売上入金、新規借入と据置期間を落とし込んでいく。


 午後五時十九分。


 一区切りついたところで、創の内線が鳴った。


『はい』


「宮嶋さん」


 水城だった。


「業務終了後、少しだけ四十二階へ来られますか」


『分かりました』


 用件は、それだけだった。


 創は周囲に理由を告げず、残りの仕事を整理する。


 相沢の確認を受け、桐生へ報告した。


「今日はここまででいい。続きは明日だ」


『はい』


「お疲れ」


『お疲れさまでした』


 ◇◇◇


 午後五時四十六分。


 頭取不在の四十二階は静かだった。


 頭取室にいたのは、水城と劉川、そして創。


 三人とも、創と璟瑶の秘密を知っている。


「宮嶋さん」


『はい』


「一つ、お願いがあります」


『何でしょうか』


「頭取を無理させないでください」


 創が少し目を丸くする。


『今日、何かありました?』


「三十分で終わる予定の業務を延長しようとしました」


『……やっぱり』


「やっぱり?」


『家でも、もう少しだけってよく言うので』


 劉川が苦笑した。


「こちらでも同じです」


 水城は真剣な表情で続ける。


「仕事中は私たちが止めます。でも、パソコンを閉じた後、ご自宅で止められるのは宮嶋さんです」


『分かりました』


「まだ産後の回復途中です。悠真くんと美玲ちゃんもいます」


『はい』


「ですから、お願いします」


 創は深く頭を下げた。


『妻には、秘書のお二人の言うことをきちんと聞いてもらいます』


「よろしくお願いします」


 劉川が笑う。


「我々も容赦しませんので」


『その方が助かります』


「頭取本人は嫌がるでしょうけど」


『俺も家で嫌がられてます』


 三人の間に、小さな笑いが起きた。


 ◇◇◇


 頭取室を出ると、久世に呼び止められた。


「宮嶋。少しいいか?」


『はい』


 近くには御子柴泰成と黒崎忠彦もいた。


 人目を避けられる応接室へ移ると、久世が最初に尋ねた。


「双子はどうだ?」


『元気です』


「悠真くんと美玲ちゃん、夜は眠ってくれるか?」


『二人同時に泣くこともあります』


 黒崎が眉を上げる。


「それは大変だな」


『はい。でも、二人でやっています』


 御子柴が続けた。


「頭取の身体は?」


『まだ回復途中です。本人は無理をしようとします』


 三人が、ほぼ同時にため息をついた。


『やっぱり、皆さんもそういう反応なんですね』


「今日も仕事を延長しようとしたからな」


『水城さんから聞きました』


 黒崎が腕を組む。


「家では、お前にしか止められない時もある。頭取だから働かせなければならないなどと思うな」


『思っていません』


「ならいい。銀行は我々で回す」


 御子柴も頷いた。


「少なくとも今は、家でしっかり休ませてやってくれ」


『分かりました』


「仕事では頭取。家ではお前の妻だ」


『はい』


 久世はそこで、創にも目を向けた。


「それから、お前自身も無理をするな」


『俺もですか?』


「当たり前だ」


 黒崎が答える。


「父親が倒れたら意味がない」


「二人で、休める時に休め」


『はい』


 短い会話を終え、三人はそれぞれの執務室へ戻っていった。


 創も一階へ向かうエレベーターに乗る。


 扉が閉じれば、秘密の会話はそこで終わり。


 明日、十八階へ戻れば、創はまた普通の若手銀行員だった。


 ◇◇◇


 午後六時五十八分。


 成城の新居。


『ただいま』


「おかえり」


 創は手洗いとうがいを済ませ、部屋着に着替えた。


 璟瑶が専用ケースから結婚指輪を取り出し、創の左手の薬指へ戻す。


「おかえり」


『ただいま』


 そして創は、すぐに尋ねた。


『今日、三十分を超えようとした?』


「……誰から聞いたの?」


『水城さんと劉川さん』


「裏切られた」


『違う。心配されてる』


「五分だけ延長したかった」


『駄目』


「三分」


『駄目』


「一分」


『水城さんと全く同じやり取りだ』


「夫まで秘書側なの?」


『璟瑶側だよ』


「なら延長を――」


『それは駄目』


「……」


 創は笑い、妻の肩へ手を置いた。


『今日は休んで』


「はい」


 ◇◇◇


 それぞれ順番に入浴したあと、創はキッチンへ立った。


 今夜の楽しみ、一つ目。


 バターチキンカレーだった。


 鶏もも肉を一口大に切り、ヨーグルト、カレー粉、塩、すりおろしたニンニクと生姜をなじませる。


 フライパンにバターを溶かし、薄切りにした玉ねぎを焦がさないよう炒める。


 ニンニクと生姜、カレー粉を加えると、キッチンに香りが広がった。


 下味をつけた鶏肉の表面を焼き、カットトマトと少量の水を加えて弱火で煮込む。


 風呂から上がった璟瑶が、香りにつられてやってきた。


「いい匂い」


『バターチキンカレー』


「創が全部作ったの?」


『今、煮込んでるところ』


 璟瑶がキッチンをのぞき込む。


『座ってて』


「見るだけ」


『それならいい』


 創は生クリームを少しずつ加え、最後にもう一片のバターを溶かした。


 赤かったソースが、柔らかな橙色へ変わる。


 塩と少量の砂糖で味を調え、小皿へ取った。


「私も味見したい」


『熱いよ』


「分かってる」


 璟瑶が一口食べる。


「美味しい」


『本当?』


「うん。もう少し辛くてもいいけど」


『今日は産後仕様で優しくしました』


「創まで身体第一?」


『当たり前』


 炊きたてのご飯にカレーをかけ、簡単なサラダを添えれば完成だった。


 ◇◇◇


 午後八時十二分。


『いただきます』


「いただきます」


 璟瑶はカレーを一口食べ、すぐに微笑んだ。


「美味しい。お店みたい」


『それは言いすぎ』


「じゃあ、家のカレー」


『それがいい』


「また作って」


『もちろん』


 悠真と美玲が眠っている間、二人は久しぶりにゆっくり夕食を取った。


 それでも、何度もベビーモニターへ目が向く。


 同時に画面を見て、同時に顔を戻す。


『気になるね』


「気になる」


 ◇◇◇


 午後九時二十分。


 授乳とおむつ交換を済ませ、二人で双子を寝かしつける。


 悠真が眠りかけると美玲が目を開け、美玲が落ち着くと悠真が身体を動かす。


『交代?』


「また?」


 それでも二人は焦らなかった。


 午前二時に双子が同時に泣いた夜を経験し、ほんの少しだけ慣れていた。


 午後九時五十八分。


 ようやく二人とも眠る。


 創がベビーベッドの柵を確認し、璟瑶が室温と毛布の位置を見る。


『よし』


「寝たね」


『うん』


 璟瑶が少し笑った。


「じゃあ、遊ぶ?」


 ◇◇◇


 午後十時七分。


 二人はベビーモニターを持ち、三階の防音趣味室へ移った。


 長居はしない。


 二十分か三十分だけ。


 棚を開けた創に、璟瑶が言う。


「花札」


『できるの?』


「創よりは」


『まだ何もしてないのに』


 四十八枚の札を卓上へ並べ、こいこいを始める。


 一回戦。


 璟瑶が牡丹に蝶、萩に猪、紅葉に鹿を集めた。


「猪鹿蝶」


『強い』


「こいこい」


『続けるの?』


「勝負だから」


『欲張るなあ』


 そう言いながら、創も芒に月と菊に盃をそろえた。


『月見で一杯』


「創もできたの?」


『じゃあ俺も、こいこい』


「創も欲張り」


『璟瑶には言われたくない』


 二回戦。


 創は松に鶴、芒に月、桐に鳳凰をそろえた。


『三光』


「どうする?」


『こいこい』


「本当に?」


『勝負です』


 ところが直後、璟瑶が札を重ねた。


「月見で一杯」


『また?』


「終わり?」


『……こいこいしたの、失敗した』


「銀行では慎重なのに」


『家では攻めます』


「覚えておこう」


 ◇◇◇


 午後十時二十九分。


 三回戦。


『これで最後』


「うん」


 今度は互いの手札が割れ、猪鹿蝶も三光も簡単には完成しない。


 創が山札をめくる。


 現れたのは、芒に月。


『来た』


「でも、盃は持ってないでしょう?」


『持ってない』


「じゃあ、役にならないよ」


『でも、この札は綺麗だから』


「役じゃなくて?」


『札として欲しかった』


「……そういうところ」


『何?』


「何でもない」


 最後まで大差はつかなかった。


 結果は、璟瑶が二勝、創が一勝。


「妻、二勝」


『夫、一勝』


「私の勝ち」


『次は勝つ』


「また、こいこいする?」


『次は確認してからする』


「こいこいって、そういうゲーム?」


 二人の笑い声が、静かな趣味室に広がった。


 ◇◇◇


 午後十時三十七分。


 花札を箱へ戻し、二人は寝室へ戻った。


 まず悠真を確認し、次に美玲を確認する。


 二人とも静かに眠っていた。


『おやすみ』


「おやすみ」


 ベッドへ入ると、璟瑶が創の近くへ寄った。


「今日、楽しかった」


『カレー?』


「カレーも」


『花札?』


「それも」


『仕事は?』


「三十分で終わらされた」


『正解』


「まだ言うの?」


『水城さんと劉川さんだけじゃなく、久世副頭取、御子柴専務、黒崎常務にも頼まれたから』


 璟瑶が顔を上げる。


「そんなに?」


『うん』


「私、そんなに信用がない?」


『違うよ』


 創は妻の手を握った。


『みんな、璟瑶が大事だから』


「……」


『銀行は皆さんが動かしてくれる。だから今は、ちゃんと休んで』


「創も」


『俺?』


「私が無理をしない代わりに、創も無理をしない」


『分かった』


「約束」


『約束』


 少し離れた場所では、悠真と美玲が眠っている。


 今夜も、途中で泣くかもしれない。


 二人同時に起きるかもしれない。


 それでも今日は、カレーを作り、二人で食べた。


 花札を囲み、勝った負けたと笑った。


「猪鹿蝶」


『三光』


「月見で一杯」


『こいこい』


「またやろうね」


『うん』


 頭取が休んでも、青嶺中央銀行は動く。


 創が一人で抱え込まなくても、家族の生活は進んでいく。


 できることを分ける。


 必要な時は誰かに頼る。


 休める時には休む。


 そして、夜には少しだけ二人で楽しむ。


 仕事だけでも、育児だけでも、夫婦だけでもない。


 そのすべてが重なり合い、少しずつ四人家族の日常になっていく。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「頭取が休んでも銀行は動く」――少しずつ人に任せることを覚えていく璟瑶。


そして家では、創のバターチキンカレーを食べ、悠真と美玲を寝かせた後は花札勝負。


次回も、銀行員として、そして双子の父と母として歩き始めた四人家族の日常を描いていきます。


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