壁昇り
委員長と約束を交わした後は、不思議なほどすんなりと授業の内容が頭に入ってきた。次に自分が取るべき行動が明確になったおかげなのだろう。
――まあ、芝目と連絡先を交換していることがクラス中に知れ渡ってしまったのは、新たな悩みの種になってしまったけれど。
休み時間、女子たちが集まっている席のあたりは、いつもより一段と賑やかな空気に包まれていた。そして彼女たちが盛り上がるたびに、なぜかその中心から妙な視線がこちらに飛んでくる。
ことあるごとに「きゃーっ!」と興奮したような黄色い悲鳴が、嫌でも俺の耳に届いてしまうのだ。
「……なんであんなに楽しそうなんだよ」
俺が机に突っ伏しながらぽつりと言いこぼすと、前に座っている茂がもっともらしく解説をしてくれた。
「あっきーが超真面目タイプだからじゃない?珍しい人が恋してるって聞いたら、そりゃみんな大喜びで食いつくよ」
――なるほど。動物園で希少種の生き物を見ている子供みたいなノリか。
そんな風に内心で盛大なため息をつきながら授業を消化していき、やがて待ちに待った昼休みがやってきた。
起立、礼、の合図で号令が終わると同時、委員長がこちらに近づいてきて声をかけてくる。
俺は深く息を吸って覚悟を決めると、約束通り彼女と一緒に職員室へと足を運んだ。
職員室に着き、担任の平野先生と対面した。最初に話を切り出してくれたのは、やはり委員長の大宮だった。
「平野先生、すみません。芝目さんのお見舞い係のことで、ちょっとご相談なんですけど」
「大宮さんに、坂田君か。どうした、何か不都合でもあったか?」
先生は落ち着いた柔らかい表情で俺たちを迎え、作業の手を止めて話を聞く姿勢を取ってくれた。
改めて先生の顔を見ると、なんだか俺のわがままも温かく聞いてくれそうな、そんな包容力を感じる。
「いえ、都合が悪いわけじゃないんです。ただ、坂田君が代わりに届けてくれるって言ってくれたので、交代しても大丈夫でしょうか、というご相談です」
その言葉を受け取った先生の表情が、おや、と意外な話を聞いたような顔に変わった。それから、俺の本気度を推し量るような眼差しを投げかけてくる。俺はすぐに、力強く頷いてみせた。
「はい。できれば僕に、やらせてほしいんです」
きっぱりと言い切った俺を見て、先生は椅子の背もたれにゆっくりと身を預けた。手を顎に当ててしばらく考え込んだ後、静かに口を開く。
「坂田君、どうして君がお見舞い係になりたいのか、理由を聞いてもいいか?」
純粋な疑問のトーンだったが、なぜか俺の指先がわずかに震えだした。返答次第では却下されるかもしれない、というプレッシャーのせいだろう。
だけど、俺には後ろめたいことなんて何一つない。
ただ、あの子の力になりたい。その一心だ。
「……芝目さんが、心配だからです」
難しく考えるのをやめて出てきたのは、そんなあまりにもシンプルな本心だった。鈴子が元気を無くした時に放っておけないのと同じだ。芝目を元気づけたい。守りたい。今の俺には、この言葉しか見つけられなかった。
しばらくの間、先生は俺の目をじっと見つめていたが、やがてその表情をふっと和らげて腕を組んだ。
「なるほど。坂田君は、芝目さんと仲が良いんだね」
その言葉が耳に届いた瞬間、自分の顔が思いきり引きつったのが分かった。急激に顔が熱くなり、上手く言葉が返せなくなる。
俺たちが黙り込んだせいで、他の先生たちがパソコンを叩く音や、書類をめくる音だけが、やけに職員室の中に響き渡る。
何も言えなくなってしまった俺を見かねて、委員長がすかさず横からフォローを入れてくれた。
「実は坂田君、芝目さんに勉強を教えてあげているみたいなんです」
――え、それ知ってたのか!?
「連休前も毎日、放課後は芝目さんに話しかけて、居残り勉強に付き合ってたのを見かけました。それに、生徒会会計の島村さんからも、坂田君がすごく親身になって教えてるって聞いてます。ただ仲が良いだけじゃなくて、坂田君なら授業プリントの説明もちゃんとできると思うんです」
「へぇー!それは立派なことだ。あの島村さんがそう言うくらいなら、坂田君、君の勉強のサポートに関しては確かに申し分ないね」
前向きに話が進んでいるような雰囲気に、先ほどまでの強張っていた俺の口元が、少しだけ緩みかけた。
「ただ、正式に判断する前に、ひとつだけ聞いていいかな?」
――だが、その言葉で、俺の表情は再びカチリと固まってしまう。何とか生唾を飲み込んだ俺は、恐る恐る頷いた。
「……はい、どうぞ」
平野先生は変わらず優しい笑みを浮かべたまま、静かに俺に質問を投げかけてきた。
「坂田君は、あの子について……どのくらい知っているのかな?」
「……どういう、ことですか?」
質問の意図が分からず、俺は思わず首を傾げてしまった。隣の委員長と視線を交わしてみても、彼女もよく分からないといった様子で小さく首を横に振る。
「あ、ごめんね。ちょっと質問が大雑把すぎたか。……でも、その様子だと、あの子についての説明が少し必要みたいだね」
そう言いながら、先生はデスクにあるファイルの山から冊子をひとつ取り出して、中の書類をペラペラとめくった。いくつかの内容を確認した後、トントンと机で書類を整えて話を続ける。
「芝目さんはね、元々は学校側から『特別進学枠』の指定を受ける予定の生徒だったんだ。それは知っているかい?」
そういえば、彼女が一年生の時は別のクラスだったことくらいしか俺は知らなかった。元のクラスでの彼女の立ち位置なんて、まるで把握していなかったのだ。
初耳だったらしく、隣で委員長が驚いたような声を上げた。
「そうだったんですか……?」
「ええ。入試の結果は学年でもピカイチで、中学からの推薦もあった。本当に将来を有望視されていた生徒だったんだよ。……だけど、なぜか高校に入学した途端、彼女の成績はドンと最下位近くまで下がってしまった。学校側としても、かなり頭を悩ませていた案件だったんだ」
そんなことがあったのか。だけど確かに、あの子の頭の回転の速さや、びっくりするほどの吸収力を思い返せば、元々は勉強がトップクラスにできる方だったという話にも、すぐに納得がいった。
――だったら、なんであの子はあんな風に……?
「詳しい理由は私たちにも分からないけれど、どうにも高校生活の空気に馴染めなかったみたいでね。宿題の未提出なんて日常茶飯事だった。……それがね、坂田君」
先生はそっとファイルを閉じると、俺とまっすぐに視線を重ねてきた。その温かい目元の奥には、教師としての真剣な色合いが濃く混ざり合っている。
「昨日、芝目さんが早退する前ね。連休中の宿題を、わざわざ私に直接、全部手渡しで預けていってくれたんだよ」
先生のその言葉に、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
「彼女が高校に入ってから、自発的に宿題を出したのなんてこれが初めてだ。坂田君、君がそのキッカケになったのなら、気を引き締めてあの子の隣にいてあげてほしい。本当なら、大人である私の責任だから無理はしてほしくない。――この話を聞いたうえで、引き続きあの子を助けてくれないか?」
先生のその質問は、不思議と、先ほどまで俺を支配していた指先の震えを一瞬で拭い去ってくれた。
後に残ったのは、あの子を思う真っ直ぐな気持ちと、あの子の力になりたいという強い確信だけだ。俺は両手を強く握りしめ、平野先生を真っ直ぐに見据えて力強く頷いた。
――あの子をもう、一人きりにさせない。それは自分の中でとっくに決めた誓いだ。昔に何かあったというのなら、なおさらその誓いを遂行して見せるだけだ。
「やります。昔に何があったかわかりませんが、ずっと一人でいる芝目さんは放っておけません」
言いながら、自然と自分の眉間に力が入っていくのが分かった。それは男として、一人の大人である先生に対する約束の言葉だった。だからだろう、俺は少しばかり、生意気なほど強気に出ていたかもしれない。
俺の目から本気度を読み取ったのだろう。平野先生は満足したように、深く深く頷いてくれた。
「よろしい。健全な男女の高校生の関係なら、私としても応援したい。交代して大丈夫でしょう」
……言葉のチョイスに少し文句は言いたかったが、どうやら許可を勝ち取ったらしい。
『応援したい』なんて面と向かって言われた瞬間はクラッとしてしまったが、次の瞬間には顔によじ登る熱さとともに、説得に成功したという歓喜が胸の奥で爆発しそうになった。
抑えきれない喜びのまま、俺はすかさず深く頭を下げて、大きな声を張り上げそうになる。
「ありがとうございます――っ!」
「こらこら、声を抑えて。他の先生たちの作業の邪魔をしては駄目だよ」
「あ……はい。すみません……」
向かいのデスクにいる別の先生から小さく「ふふ」っていう忍び笑いが漏れ聞こえてきて、俺は決め悪く首筋をポリポリと掻いた。
自重しなければならないのは分かっている。だけど、これで『大義名分』を持って、すぐにでも芝目に会いに行けるのだ。現状が良すぎて、まるで夢を見ているかのような気分だった。
それに、彼女のために行動すること――俺があの子を守りたいというエゴを、先生も認めてくれたのだ。
ただの妄想ではなくなった。
その後、先生は手元のメモ用紙に芝目の住所をサラサラと書き上げ、それを俺に手渡してくれた。届けるべき今日の授業プリントはすでに教室の教卓にまとめてあるから、終礼のときに持って行っていいとのことだった。
先生に挨拶を済ませ、職員室を出た後、俺と委員長は教室へ戻るために廊下を歩き出した。その時、委員長が俺の肩を軽くトンと小突いてきた。
「よかったね、坂田君。すごい話もあったけど、それも応援してるね」
「あ、ああ……ありがとう、委員長」
芝目とのことを応援すると言われても、まだ付き合っているわけでも何でもない。どう反応すればいいか分からず、笑ってみせようとしたものの、妙に口元が強張ってしまう。
「一応、俺と芝目さんはそういう関係じゃないんだからさ…」
「まあ、どうせそのうちそうなるんでしょ?」
どうだろう……出来たら、めっちゃ嬉しいけど。
「うまく行ったらさ、ちゃんと私にも話聞かせてね?」
悪戯っぽくニカッと白い歯を見せて微笑むと、大宮は軽やかな足取りで先に教室へと歩いていってしまった。
遠ざかる彼女の後ろ姿を見届ける中、俺の思考は、再び芝目のことへと移り変わっていく。
昔は特待生になる予定だった。おそらく、島村と同じぐらい勉強ができる、ということだろう。
そんな才能を持った子が、今はあんな風に人を怖がる子になって、勉強もままならない状態になっている。
……何か底の見えない渕に飛び込もうとしているようで、徐々に冷えが胸にしがみ付いてくる。
――けれど、何があっても、あの子の傍にいてあげたい。
俺が、あの子を守って見せる。




